怒りの一撃
リーゼが感情の赴くままに動き始めた途端、彼女の動きが変わったことをレノは感じ取った。
マイアを纏った短刀での一撃は、最初はまんまとネオンを人質に取ることができるほどにリーゼを弾き飛ばしていた。それが今では吹き飛ばされるどころかボロボロのファルシオンで受け止め、今まで感じ取ったことのない気迫で彼が押し戻されている。
そのことに、レノは納得がいかなかった。何故装具を持っていないただの一傭兵に、不測の事態があったとはいえここまでしてやられなければならないのか。敵対関係とはいえ、何故彼女に勘違いをされているのか。そしてその勘違いで何故彼女が奇妙なほどに力を出し始めたのか――全てが彼の想定外だった。
「……くそっ」
レノが小さく毒づいてバックステップすると、リーゼが着地の隙を狙ってファルシオンを横に薙いだ。
「食らえぇ!」
リーゼは絶叫し、刃をレノの胸部へと薙ぐ。レノは着地と同時にマイアの刃を胸の前に構え、その一撃を防御した。つばぜり合いは数秒で終わり、レノがリーゼを押し飛ばす。
「何なんだよ、もう!」
今度はレノが、リーゼのがら空きの胴体に向かって刃を向け始めた。マイアが空気を焼く音とともに、刃は彼女の腹部に突き出される。
しかし、それだけだった。
リーゼは彼の攻撃を読んでいるかのように、押し飛ばされた力を利用して突きを回避する。着地の隙は最小限にとどめ、リーゼは再びレノの近くへ踏み出す。
「あんただけは……あんただけはぁぁ!」
リーゼは完全に己の怒りに憑りつかれていた。既に彼女の視界にはレノしか捉えておらず、ボロボロの刃を構わずに振り続ける。しかし敵の攻撃を避けるだけの冷静さは持っているようで、彼女は戦闘にのめりこんでいた。報酬のことなど、最早頭からは消え失せていた。
「そこ!」
リーゼは徐々にレノを追い込んでいた。ファルシオンを相手の攻撃範囲外から繰り出し、的確に相手の胴体を狙っていく。レノは刃の短さから、マイアを纏っているとはいえ、彼女の攻撃を正面から受けきることしかできないでいる。
レノはリーゼに初めて恐怖を感じていた。彼女を小馬鹿にするような笑みはとうに消え、今は引きつった表情で対峙している。自身が押されていること、装具ではない武器にてこずっていること、そして自身より明らかに経験が少ない傭兵――しかも非力な女である――に恐怖を感じていることに、彼は焦りも感じていた。
「この僕が……こんな奴に負ける筈が無いっ」
レノも負けじと吠える。その直後、彼に呼応するようにマイアの刃が伸びた。
レノが右腕を渾身の力で横に振る。リーゼが繰り出したファルシオンの一撃はそれによって弾かれ、彼女もバランスを崩した。
リーゼはそれでも、やられた、とは思わなかった。すぐに足を地に付け、レノが刃を振り下ろすのを落ち着きを払って避ける。
レノの攻撃は大振りになってきた。表情にも焦りと不安がもろに出ている。リーゼは漸くそれに気が付き、ファルシオンを握る力を強くする。
「私だって……あんたなんかに負けない! 絶対に、ネオン君を守る!」
「あのガキは危険だ! 君だっていずれ大変な目に遭うぞ!」
「脅したって無駄ぁぁっ!」
レノの声は、怯えを含んでいた。彼は今までリーゼたちを小馬鹿にした態度を取っていたが、彼がネオンを危惧している気持ちは嘘偽りがない。リーゼには本気の忠告をしたのだ。
しかし、リーゼにこの声が届く筈もない。彼女は冷静に自身の距離で戦っている。マイアの刃が伸びたとしても、その長さは彼女の支配する距離には届いていない。リーゼは感情的になりながらも、レノの距離では絶対に戦わないように気に留めている。ファルシオンの先端で相手の胴体を少しでも切り裂けば、少しの間、隙が生まれると彼女は踏んでいた。
レノはリーゼがある程度の距離を取って戦っていることに我慢がならなかった。彼は自分の戦いができないと内心で焦りながら、リーゼの刃を受け止めている。
――少し賭けだが……仕方ない。
レノはリーゼの剣戟を何度か躱すと、バックステップで大きく距離を取った。
その間に彼は右手のマイアを解除し、折れた短刀を左手に持ち替えた。解除されたマイアは霧散し、大気に溶けて消える。着地すると、またしても彼はそれを地面に平行になるようにして構える。
それを見て、リーゼが動きを止める。この構えのレノに突撃して、痛い目を見ていることを思い出して身震いする。
「……どうしたの? かかってきなよ」
息を切らしながら、レノが口角を上げる。対するリーゼも肩で息をして、レノを睨みつける。
「あれぇ? さっきまでの威勢はどこへ行ったのやら?」
レノがへらへらと笑いながらリーゼに語りかけるが、彼女はそんな安い挑発に乗るまいと彼を睨みつけたまま動かない。この構えは、カウンターをするという合図だ。彼女はそう察して踏みとどまっていた。
すると、レノが笑みを浮かべたまま前傾姿勢となった。リーゼがファルシオンを構え直して警戒する。
「来ないのなら――」
瞬間、レノが弾かれたように動きだした。短刀は左手に構えられたままである。
衝撃。
火花が二人の眼前で飛び散る。
リーゼのファルシオンに、レノの短刀がぶつかっていた。マイアが再び纏われた短刀をリーゼは咄嗟に刃で防御したので、彼の一撃は致命傷になっていない。
リーゼは飛び退いて次に来るであろう一撃を避けようとする。それでもレノは彼女に食らいつく。まるで瞬間移動しているかのように、ステップを踏んでは彼女の前から消え、着実に近づいてくる。
「どうしたの? このままだと死んじゃうよ?」
レノの調子は、あの爆発前の状態に戻りつつある。対してリーゼは顔を顰めながら、重い一撃を受け止め続けるだけである。しかし、レノはまだ短刀を左手で構えているため、彼女はカウンターを恐れて反撃を躊躇っていた。執拗に詰め寄ってくるので、彼女の距離で戦うことも難しくなっていた。
「私は……!」
「ほらほらぁ。もう武器もボロボロだしさぁ、もう無理じゃないのぉ?」
「私はっ、あんたなんかに絶対負けない!」
何十合も剣戟を重ね、徐々に押されていくリーゼだが、彼女は決して諦めていない。カウンターを食らわないような攻撃を、視線を何度も移動させながら模索している。彼女はその間にも敵の攻撃を弾いたり受け止めたりすることを忘れていない。
「どうしちゃったの? きょろきょろして」
「黙れ!」
リーゼが一喝すると、レノはマイアの刃を彼女の頭上に振り下ろした。この一撃が特段強かったようで、リーゼはファルシオンを握る手から激しい痛みを感じた。呻きながら、彼女はレノの下半身に目をやった。
――そこだ!
リーゼが雄たけびを上げながら刃を押し返す。まだそんな力があったのかと言わんばかりにレノから笑みが消え、代わりに瞠目が現れる。
リーゼはレノの左脚に向かってファルシオンを薙いだ。がら空きの下半身を切り裂けば、相手はまともに行動できなくなる――彼女はそう踏んだ。
しかし、彼女の読みは外れた。
「甘いよ」
レノの口角が上がる。
あろうことかレノの刃はリーゼに押し飛ばされたのにもかかわらず、しっかりと元の位置に戻っており、彼女の刃をしっかりと受け流していたのだ。
マイアの刃はファルシオンを伝い、鍔に来たところで彼女の腕を武器ごと跳ね上げた。
リーゼは目を見開き、マイアに覆われたレノの左手を凝視する。このままではまた斬られる――彼女は急いで体勢を元に戻そうとする。
すると、リーゼの首に突然圧力がかかった。
レノがほくそ笑んで、彼女の首を右手で掴んでいた。リーゼは一瞬自身の状況が分からなかったが、首を掴まれていると気付いたときには改めて死の危険を感じ始めた。
「僕を倒せると思ったぁ? そう思ってたんなら、とんだ大馬鹿者だねぇ」
レノはリーゼの首を掴みながら、刃を彼女の肩へと突き立てようとする。先ほどまでの余裕のない表情をしていたレノは、とうに消えていた。
リーゼが呻きながら、たまらずファルシオンを地面へと落とす。金属の刃が、砂利だらけの土とぶつかって乾いた音を出す。それを見てレノは更に愉快気に笑った。
「ついに諦めた? 諦めてくれた? ようやく力の差を感じてくれたんだね!」
レノが声を出して笑う。その笑いは、勝利を確信しただけでなく、嫌なものから逃れることができる喜びも混じっているようだった。
それでも、リーゼは刃物のように鋭い目線をレノにくれている。それに気付いたレノは笑いながらも彼女に注目し始める。
「何? どうしちゃったのぉ?」
レノはリーゼの首を掴んでいる手で彼女の顔を自身の顔の近くまで引き寄せた。彼女の間近で、憎らしい笑顔が視界に映し出される。
「あんたねぇ……」
「ん?」
「言ったでしょ? 私は――」
その一瞬後、リーゼの額がレノの顔に勢いよく打ちつけられた。鈍い嫌な音が二人の中で響く。
レノはたまらずリーゼの首を掴んでいた手を離していた。リーゼの頭突きはレノの鼻に直撃しており、彼は呻きながら鼻を抑えるようにして顔を手で覆う。あまりにも驚いたのか、彼は尻餅をつきそのまま動かなくなった。
リーゼは、ファルシオンをわざと地面に落とした。レノを余裕の気持ちにさせ、油断することに賭けたからである。彼女はその賭けが失敗するとどうなっていたか想像しなかった――そうすると間違いなく怖気づいてしまうからである――。
「私は……あんたを倒す。ネオン君に手を出したあんただけは許さないって、決めた!」
レノは苦悶の表情でリーゼの顔を見上げる。鼻を抑えている方の手袋には血がべったりと付いている。
「この――素人がっ!」
レノくぐもった声で威嚇するが、リーゼは気にかけることなく彼ににじり寄る。
するとリーゼがしゃがんだかと思うと、レノの頭を掴んで地面に叩きつけた。情けない悲鳴を上げながらレノが仰向けに倒れる。
レノが痛みに悶えながら目を開けると、彼の眼前には激しい怒りを湛えたリーゼが睨みつけている光景が映った。その顔を見て彼は凍り付いた。
リーゼの表情だけではない。姿勢や作られている拳、さらには彼女の一挙手一投足からもレノを威圧する怒りが放たれているように、彼は錯覚した。
いつの間にか、リーゼはレノに馬乗りになっていた。しかし彼は、両腕両脚を拘束されていないのにもかかわらず動けないでいる。目を見開きながら、怒りに震えているリーゼを凝視するだけだ。
リーゼが、吠えた。
彼女はそのまま、レノの両頬を拳で殴り始めた。雄たけびを上げながら無抵抗の男をただひたすら殴り続けている彼女の姿は、獣、もしくは悪魔そのものに見える。
レノの口や鼻から血が吹き出ても、リーゼは殴るのを止めなかった。ひたすら怒りに任せて、殴打を繰り返す。
頭に血が上るままに、彼女は殴り続ける――それが永遠に続くと思われた。
突如、リーゼが振り上げた右の拳が後ろから掴まれた。
リーゼが瞠目して振り返ると、そこには見覚えのある人物が立っていた。
「……ザウバー」
「もういい。奴は既に気を失っている」
リーゼは糸が切れたように両腕をだらりと下げる。
そこには、ザウバーとコウが立っていた。更にコウは、気を失っているネオンをおぶっていた。ザウバーはリーゼを心底心配そうな顔で見つめ、コウは相変わらずの無表情である。
レノは既に気を失っており、戦闘はもはや不可能である。顔は見るも無残に腫れ上がり、白目を剥いている様はとても以前の彼とは思えない様相である。口と鼻からは血が垂れ流れており、一目見たらこれが生きていること自体が疑わしくなるような姿かたちとなっている。
ふと、リーゼが拳を開いて掌を見つめ始めた。
彼女がファルシオンを握っていた方の手は、皮が剥けて酷いありさまになっていた。切られるような痛みはこれのせいか――彼女は察し、目を閉じる。
そしてリーゼは、そのまま地面に倒れこんだ。ザウバーが慌てて彼女の名前を呼んで介抱するが、脈があることを確認すると安堵して彼女を背負った。
ウルヴ山の獣の駆除及び、傭兵レノ・ロックの討伐が、これで終了した。




