光の破裂
リーゼは、咄嗟に身体を捻っていた。なんとかバランスを保ち、深々と刃を胴に突き刺されることだけは阻止できた。
しかし、レノの攻撃は確実に食らっていた。左の脇腹を浅く斬られている。鋭い痛みとともに、熱せられた鍋が触れたようなじりじりとした痛みも彼女に襲い掛かる。
リーゼはうめき声を上げながらも、それ以上踏み込むのは危険だと判断して後退しようとする。痛みで一杯の頭でもこれだけ考えられるだけの理性は残っていた。
――早く……逃げないと……!
体勢を戻し、飛び退こうとした途端、レノの不気味な笑みが彼女の目に飛び込んだ。彼女の目に恐怖の色が宿ると、それを察知したかのようにレノが彼女の方へと手を伸ばした。
「逃がさないよ……!」
囁くように言うと、レノは彼女の首を掴んでそのまま押し倒した。勢いよく地面に叩きつけられ、リーゼは肺の中の空気が全て出ていったかのような感触を味わう。その上、レノがリーゼの身体にのしかかってきた。
「がっ……」
「やっと捕まえた」
レノは笑みを絶やさない。まるで欲しかった玩具を手に入れた子供のように、その笑顔は輝いている。
「うっかりマイアを解除するのを忘れてたよ。傷口が火傷で少し塞がれてる」
リーゼの脇腹の傷からは、マイアで焼かれているおかげか出血が少ない。それでも彼女は絶体絶命な状況である。このまま首を絞められて窒息死するか、首に力を入れられてへし折られるか、短刀で滅多刺しにされるか――絶望的な選択肢が彼女の中で次々と浮かび上がってくる。
――私は……まだ死なない。死ねない!
リーゼの必死な思いは、彼女の身体を反射的に突き動かした。
リーゼは腕を抑えられていないことに気付き、ファルシオンを握り直した。そしてそれをそのままレノの首に突き立てる。
「……ふぅん。この期に及んでまだ抵抗するんだぁ」
刃を首元に向けられても、レノは動じない。それどころか彼はマイアを纏っていない短刀をリーゼの顔の先まで近づけ始めた。彼女の目が見開かれる。
「君も女の子だ。この綺麗な顔に傷でも付けられたら……。まあ、脳天か目玉に突き刺される方が先か!」
そう言ってレノは下卑た笑い声を上げた。リーゼは今にも泣きそうな顔になり、ファルシオンを持つ手が震える。
レノは宣言通り、リーゼの左目へと徐々に刃の先を近づけ始めた。ファルシオンを握っていない手でレノの手を掴んで必死に抵抗するが、刃はじりじりと目標へと近づいてくる。
――嫌……! 嫌……!
しかし、リーゼが恐怖に慄いていたその時、誰かが走ってくる音を彼女は聞いた。
その正体は、先にレノによって確認された。
「おやおや……可愛い子ちゃんが走ってきたよ」
その言葉を聞いたリーゼは絶句して凍り付いた。半信半疑になりながらも、身体を動かすことができないので確認のしようがない。
しかし、レノの言ったことはハッタリなどではなかった。
必死な形相でリーゼたちの下へ駆け寄ってくるネオンの姿が、そこにあったのだから。
「リーゼさんを……離せぇっ!」
まだ声変わりしていない、女の子のような声を聴き、リーゼは絶句した。駆け寄ってくる人物は、間違いなくネオンである。顔面蒼白になりながらリーゼはネオンのことを心配し始める。
「ネオン君! 来ちゃ駄目!」
リーゼが悲鳴のような声を上げてネオンを止めようとする。すると彼女の叫びが届いたのか、走ってくるような足音が聞こえなくなった。
「でも――」
「私のことはいいからっ……早くあなただけでも逃げてっ!」
ネオンはリーゼに諭されて泣きそうな顔になりながらその場に留まっている。リーゼは彼に生きていてほしいという一心で彼に訴えた。自身がどうなろうと、今の彼女にはどうでもいいことであった。彼女から先ほどの恐怖は吹き飛んでいた。
「だからぁ……人の心配してる暇あるの?」
ねっとりとした口調でレノがリーゼに語りかけるが、リーゼは一転して凛とした表情で彼を睨みつける。その迫力にレノから笑みが消えた。
その隙に、リーゼはファルシオンを握り直して、レノの首に向かって草を刈り取るように刃を振り回した。彼女にのしかかっていた体重と、彼女を圧迫していた首への圧力が同時に消える。レノは瞬時に後方に飛び退いていた。
リーゼはそれを確認すると、痛みを忘れてネオンの下へと駆け寄った。棒立ちになっているネオンの両肩を彼女が掴んでゆする。
「なんで出てきたのっ。ここは危ないから、早く逃げて!」
リーゼは必死にネオンに訴えかけるが、彼は彼女を凝視するだけで一言も発さない。
すると、ネオンの目に涙が浮かび始めた。リーゼは一転して困惑し、狼狽えることしかできない。
「……良かった。リーゼさんが死ななくて」
「……へ?」
「リーゼさんが死んだら……死んだら……」
そしてネオンは顔をくしゃくしゃにして嗚咽を漏らし泣き始めた。その姿に、リーゼは唯々混乱するしかなかった。
「リーゼさんが死んだら嫌だよぉぉ……」
ネオンは泣きながら震える声でリーゼに訴えかけていた。その言葉に、彼女は胸を突かれた。
ネオンは、自身が死ぬことを恐れているのだ――リーゼは自身の戦いに夢中になり過ぎて、彼の想いを考えていなかった。
自分をこうやって思ってくれている人のため何かをすること、それは任務と同じくらいかそれ以上に大事なことなのかもしれない――リーゼはそのことを改めて認識した。彼女は目の前の任務に集中し、そのことを忘れかけていた。
「……心配してくれてありがとう、ネオン君。私を助けに来てくれたんだね」
リーゼが申し訳なさそうな顔で微笑を浮かべながらネオンの頭を撫でる。ネオンは泣き顔でリーゼの顔を見つめるのみである。
「……リーゼ、さん?」
「私は絶対に死なないから。だから、もう泣かないで。ネオン君の気持ち、とっても嬉しいよ」
リーゼがネオンに満面の笑みを向けると、ネオンもつられて笑みを浮かべた。ひとまずネオンが元気になったことを確認すると、リーゼは心中で安堵した。
しかし、彼女の笑みはすぐに消えた。振り向くと、にやけたレノが真正面に立っている。今の二人は隙だらけであったのにもかかわらず、彼は手を出さなかった。二人の気遣いなど毛頭考えてないだろうと彼女はレノを睨みつけながら考える。
「何回言ったら分かるかなぁ……。この子の心配してる暇なんてあるの?」
「あんたに言われなくても!」
リーゼがファルシオンを構え直し、レノの方に斬りかかる。現在レノは先程のような特異な構え方はしていない。これなら攻撃を受け流されることはないと彼女は確信した。
再びリーゼの刃とレノの刃がぶつかり合う。つばぜり合いになっても、彼女は負けなかった。それどころか徐々にレノを押している。にやついていたレノの表情がどんどん険しくなるのを見て、逆にリーゼの口角が上がり始める。
「調子に乗るなよ……」
「その言葉、そっくりあんたに返してやる!」
ファルシオンが短刀を押し返した。リーゼは内心でガッツポーズを決めたが、まだ油断ならないことは重々解っている。追い打ちをかけようと彼女は更にレノを追い立てようとする。ファルシオンの刃が風を斬って彼に襲い掛かり、その都度短刀で防御される。
「まだまだ!」
リーゼは更に踏み込むが、レノは彼女の攻撃を受けずにことごとく避けていく。間合いが不利だと気付いたのか、リーゼの攻撃が止むのを待っているかのように何もしてこない。
七回避けられたところで、リーゼは一旦動きを止めた。彼女の息は荒くなっており、体力はこのままのペースで戦っていると近いうちに無くなってしまうほどに消耗している。対してレノは、これだけ短刀を振り回しても、これだけ縦横無尽に動き回っても、彼女に向かってへらへらとした態度を取ることができる程度には体力が有り余っている。このままでは削られて終わってしまうと彼女は考え、一刻も早く決着をつけようと躍起になる。
すると、レノが地面を蹴って駆け出し始めた。リーゼはそれに直ちに反応し、ファルシオンを彼の頭上めがけて振り下ろす。レノはそれを短刀で受け止めるが、その顔は相変わらず笑っている。
「……装具を使っていない人間ごときに、これを全力で使うことになるとはね……」
レノが悔しげに言うと、今度は彼が付けている手袋が光り始めた。リーゼは内心で驚きながらも、ファルシオンに力を入れ続ける。
しかしその数秒後、リーゼは大きく弾き飛ばされた。体勢を整えて着地した彼女は、レノの短刀を見て絶句した。
短刀は、マイアの光にすっぽりと包まれていた。まるでレノの手と一体化しているかのように、マイアの光は彼の右手と短刀を覆っている。更に刃の形も変わっており、刀身は倍近くまで長くなり緩やかなカーブを描いている。
「死ね!」
レノが荒々しく叫ぶと、彼の姿はリーゼの視界から消え、代わりに彼の立っていたところに砂煙が小さく舞っている。リーゼを影が覆ったことで、彼女はレノが自身の真上に跳びあがっていたことに気付く。飛び退く時間が無いので、すぐさま彼女はファルシオンで一撃を防御しようと刃を構える。
レノの刃が、リーゼの刃とぶつかった。
リーゼを言い知れぬ衝撃が襲った。彼女はあまりの衝撃にバランスを崩し、短い悲鳴を上げて後ろに吹き飛んでしまった。尻餅をついてしまった彼女だが、すぐに姿勢を戻してレノの方を見ようとする。
しかし、彼は彼女の目の前にいなかった。執拗な奴のことならすぐに自身に追い打ちをかける筈だ――リーゼはそう想定し息を荒げながら辺りを見回す。
「僕はここだよ」
楽し気な口調は、リーゼの後方から聞こえてきた。彼女は目を見開きすぐに身体を後ろに向ける。
しかしそこでは、最悪の状況が彼女を待っていた。
レノがネオンの後ろに回り込み、彼の首に短刀を突き付けていたのである。
リーゼは絶句し、二人を見つめていた。ネオンは涙目で彼女に縋るような眼差しを送りながら、レノの左手で塞がれている口で必死に呻き声をあげる。対するレノは、この状況を明らかに楽しんでいた。ただ一つ幸いなことは、先程まで右手と短刀を覆っていたマイアが消えていることである。
「君たちを見たときに思ったんだ。この子から先に殺したら面白いんじゃないか、ってね!」
けらけらと笑うレノ。対照的にファルシオンを構え始めるリーゼの顔は憤怒に染まっていた。
「あんた……最初からそのつもりで……」
「そそ。あの時手を出さなかったのは、そういうことさ」
ネオンが泣きついている時に手を出さなかったのは、レノがネオンを殺す機会を窺っていたからだった。それに気付かず、ネオンに手を出されてしまった。リーゼはレノを止めようと彼の下へ踏み込もうとする。
「……何だ? これは」
「それに触らないで!」
レノはネオンの首飾りに目をつけ、口を塞いでいた手でそれを触り始めた。首飾りは淡い光を放っており、触られているネオンは顔面蒼白になってリーゼを見ている。リーゼは警告するが、レノは聞き入れる筈もない。特殊な手袋をしているからか、彼の手は一切傷ついていない。
「ひょっとして、装具? このガキが一丁前に装具を持ってるの?」
「やめて! この子には手を出さないで!」
リーゼが悲鳴のような声で警告するが、レノは馬鹿にするように笑うだけである。
「じゃあ尚更早く殺す必要があるねぇ。君よりも確実に厄介だ」
「やめてぇっ!」
レノがネオンの首筋に短刀を向ける。リーゼはそれを止めようと決死の覚悟で駆け出した。
しかしここで、レノが違和感を持ち始めた。途端に彼の笑みが消える。
ネオンが痙攣し始めたのだ。そして首飾りの光が淡いものから徐々に強くなっていく。
光が強くなったところで、リーゼも異変に気が付き始めた。ファルシオンを構えたまま、様子がおかしくなったネオンを気にかける。
「ネオン君? ……ネオン君!?」
「……ぁ……ぁぁあ……」
リーゼが呼び掛けても、ネオンは言葉になっていない掠れた声しか出さない。それに彼女の方を見ず、虚空を見つめているような視線である。
明らかにおかしい――リーゼとレノの思いが一致した。
光は徐々に強くなっていく。至近距離にいるレノはあまりの眩しさに目を細めざるを得なくなる。
「何だ……これは……」
「ネオン君! しっかりしてっ!」
次の瞬間、ネオンの竜の咆哮のような叫び声とともに、光が収縮、破裂した。
リーゼとレノは避ける間もなく、巻き起こった光に吹き飛ばされた。




