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臥龍の涙は、血に濡れる ~街亭の戦い~

 228年、広大な中国の地は三つの国「魏」「呉」「蜀」に分かれ、天下の覇権を争っていた。

 所謂、三国志と呼ばれた時代である。


 最大の強国「魏」を築き上げた「曹操」

 三国建立以前の正当国家であった「漢」の正当性を引き継ぎ「蜀」を立ち上げた「劉備」

 今やその二人の英雄の姿は亡く、時代は脈々と移り変わりつつある。


 その「魏」の討伐を国是とするには、今や「蜀漢」はあまりに小さかった。


 突きつけられた、厳しい状況。

 勝利を重ねながらも、蜀国の丞相「諸葛亮」の率いる蜀軍は、苦境を強いられている。


 対峙するのは、魏国の大将軍である「曹真」率いる二十万の主力軍。

 重なる敗戦で曹真の兵力や士気は落ち込んでいたが、魏より精鋭数万が援軍として到着。

 これで、明らかに総数は蜀軍の総勢十八万よりも多くなった。


 急報によれば、魏国で、政争によって官爵を剥奪されていたはずの「司馬懿」が復帰。

 錬磨の勇将である「張コウ」と共に、十数万の軍勢で蜀軍の侵攻を阻む為、進軍の足を速めている。


 最も蜀軍にとって大きな打撃だったのは、魏国から降伏してくるはずであった将軍「孟達」のクーデターが、司馬懿によって迅速に鎮圧されたことであった。


 外から蜀軍が都市「長安」を脅かし、内から孟達が都市「洛陽」を脅かす。

 国の二京を同時に攻めれば、一挙に魏国を打ち滅ぼすことだって可能であっただろう。

 しかし、それがついに叶うことはなかった。戦況は、苦しくなっていくばかりである。



 高低様々な山が並び、地面は岩肌があちこちに露出している。

 蜀の兵は、こういった山岳での戦いを得意としており、対する魏の兵は、平原での騎馬戦こそ強かったが、こういった山岳での戦は不得手であった。

 数の劣る蜀軍が魏軍に押し勝つ為、諸葛亮が地の理を活かすべく選んだ戦場である。


 蜀軍本陣。

 最も大きな幕舎では、今日も、締め付けが強まる戦況を打開するべく、全ての将軍や部隊長らによって軍議が執り行われている。

 そして現在、軍議の主張は大きく二つに分かれていた。


「丞相、今こそ絶好の好機です。わざわざ長安にまで出向いてきた魏帝の『曹叡』はまだ若く、戦を知りません。それに曹真、司馬懿が出て来ている今、長安に駐屯しているのは大したことのない雑軍です。今こそ一気に攻め上がり、長安を落とすべきかと思いまする」


「逸ってはならん、『魏延』都督。一気に攻め上がれば、我らは常に、曹真と司馬懿に背後を脅かされることになる。長安を取った後、司馬懿らに包囲されては元も子もない」


 魏国の都市である長安へ攻め込む為には、大きく分けて三つの道がある。


 一つは「子午谷」を進み、長安へ進む最短の道。最も距離が短い道だが、蜀にとってまだ不明瞭な土地でもあり、どんな罠があるのか分からないといった不安があった。


 一つは「箕谷」「斜谷」を進み、要所である「ビ城」を取って長安へ臨む道。この道は大軍が進むのに適しており、現に蜀軍はこの箕谷で曹真軍との対峙を続けている。


 そして、最後の一つは「祁山」に上り「渭水」の上流から下流のビ城や長安へ攻め込む道。他の二つと比べ足元を着実に固める堅実な道筋ではあるが、距離的には一番の遠回りでもあった。


「虎穴に入らざれば虎子を得ず、と言います。それに曹真や司馬懿が我らの背後をつけるまでは時間がかかります。それまでに長安を取れれば、食料も十分に長安で賄えますし、我が蜀漢の漢中から軍勢を出して、曹真と司馬懿を挟撃することだって可能でございます」


「魏延都督は長安ばかりに気を取られておるが、長安の周囲には『ビ城』を始めとした要所となる支城が複数ある。司馬懿や張コウは必ず進軍の途中で、その複数の城に兵を割いているだろう。それでもまだ、楽に長安へ攻め込めると思っているのか?我らはこのまま斜谷へ出でてビ城を落とし、街亭より物資を運び込んだ後、決戦へ臨むべきだ」


「それでは敵の体制が整うまで待っていろと言っているようなものですぞ!?物資も兵数も圧倒的にこちらが少なく、守りを固められては手の出しようがないのは火を見るより明らか!それならば、この魏延に精鋭一万を与えてくだされ。丞相率いる本隊が司馬懿らを相手取っている間に、一気に奇襲で長安を攻め落とし、挟撃の形に持ち込んで見せまする!!」


「この魏国を討伐するという『北伐』は先帝である『劉備』皇帝陛下の悲願であった。そのような危険な賭けに乗って失敗でもしようものなら、もう二度と、先帝のご遺志が叶うことはなくなるのかもしれない」


「先帝のご遺志であるからこそ、その身を惜しまず、好機を逃してはならぬのです!!」


 議論の中、一挙に魏国の要である長安へ攻め込む策を提案しているのは、蜀軍の前線部隊の統括を行う立場の魏延である。

 実質、諸葛亮に次ぐ重職であり、蜀の将軍の中でも筆頭として名の挙がる豪傑の武将でもあった。顔に現れるくらい厳格で強情な性格だが、配下の兵を良く労り、どれだけ厳しい戦況であろうと絶対に仲間を見捨てない、誇り高き武将である。

 武将の中でも一際体格が大きく、顎から喉にかけてまで生えた無精髭が目立つ。

 そして何よりも、声が大きい。

 数多の叫び声が響く戦場であろうと、魏延の声だけは遠くまでよく通った。

 その為、魏延の下で戦う兵達は非常に良く統率が取れており、どれほどの混戦でも隊が乱れることがない。

 文官やその他の将軍達との衝突も多かったが、兵士達から寄せられる信頼はとても厚かった。


 そして、危険の少ない土地で確実に足元を固めて長安へ臨む策を立てているのは、言わずと知れた、蜀の皇帝に次ぐ最高権力者の諸葛亮だ。

 二十歳の頃から、先帝である「劉備」に付き従ってきた忠臣。

 その先帝亡き今は、蜀の軍事や内政の一切を取り仕切っている。

 体の線は細く、決して肌艶も良くはない。疲れが溜まっている様に見えるものの、その眼光は強く、あの魏延でさえも強く踏み込んだ抗議を立てることが出来ずにいた。


 各将軍や部隊長などの、血の気の多い軍人は魏延の策を支持し、諸葛亮を支持するのは文官が主である。

 しかし、やはり今までこの蜀を支え続けてきたのは、この諸葛亮の他ならない。


「もう良い魏延、私の腹は決まった。我が軍は斜谷に出でて兵を進め、ビ城を取る。その後に長安へ臨む」

「しかし、丞相!」

「くどいぞ、今日の軍議はこれまでだ。明日、進軍の行路を決めた後に兵を進める。皆、下がれ……あぁ、いや『馬謖』、君は残ってくれ」


 文官武将は皆、胸の前で掌と拳を合わせ礼をし、幕舎を後にする。

 魏延だけは最後まで何か言いたそうに諸葛亮の前に立っていたが、一言だけ「御意」と言い、強く地面を踏みながら外へ出た。


 そして広い幕舎の中、残ったのは諸葛亮と、武将の馬謖のみとなる。

 馬謖は幼い頃から才知に長け、その並外れた才能を、諸葛亮も高く評価していた。

 その間柄は師弟同然であり、馬謖は多忙な諸葛亮を良く補佐している。


 性格は常に冷静沈着で、時を見極めて大胆な行動が出来る等、武将としても有能であった。

 また、自らの才覚を鼻に掛けて驕り高ぶることも絶対にしなかった為、周囲の文官や武将との関係も良好である。


「先生、お疲れのように見えます。しばらく休まれてはいかがですか?私のことは、また後で呼びつけてもらっても構わないので」

「大丈夫だ、心配するな。この『北伐』は、劉備様の悲願であらせられた。この程度で疲れたなどと、言ってはいられないのだ」

「分かりました」


 魏延と同じように、また、諸葛亮もこうして強情な質であることを馬謖はよく理解していた。

 特に、先帝の劉備に関わることになると、ことさらその強情さは増す。

 そういう時はこうして素直に、了解の意を唱えるのが一番良かった。


 それにしても、この北伐での諸葛亮の気の張り様は、未だかつて見たことがないほどである。

 部下に任せればいいような仕事まで一人でこなし、痛々しいまでに自分を追い込んでいるようであった。


「先生、ご用件は何でしょうか?先生のご負担を減らせるならば、どのようなことでも致しましょう」

「そう緊張しなくてもいい。少し、話し相手が欲しかった。この国の未来について語らえるような、話し相手を」

「お安い御用でございます」


 馬謖は近くの腰掛を手に取り、文机を挟むようにして諸葛亮の前に座る。

 諸葛亮はそこでやっと姿勢を崩して、長く息を吐いた。


「なぁ馬謖、お前から見て、私はどうだ?軍略の、内政の、外交の、謀略の能力に長けていると思うか?」

「勿論、先生は当世きっての英傑。全てにおいて誰にも劣らぬ才知をお持ちです」

「……質問を変えよう。私は、司馬懿と比べて、軍略家としての才覚はあるか?大局を見た戦においての優劣は、どうだ?」

「先生の方が勝っていると思います」

「いいや、違う。まともな戦をすれば、私は奴に及ばないだろう。それに加えて、物資量、兵力差、どれも我が軍が劣る。私はやはり、内政や政治の人間なのだ」

「どうなされたのです?いつになく弱気ではありませんか」


 首を傾げる馬謖に、諸葛亮は苦く笑う。


「あぁ、『ホウ統』が、『法正』が生きていれば、私は内政だけに力を注げただろう。君の兄の『馬良』が生きていれば、外交や国政において、ここまで私が頭を悩ますこともなかっただろう。多くの優秀な人材が、早くして逝ってしまった……馬謖よ、今この蜀に、国を支える優秀な人材がどれほど残っているだろうか」


 すぐに否定しなくてはいけないと思いはしたものの、現に、今の蜀は圧倒的に人材が不足していた。

 だからこそ、当世の英傑とまで言われる諸葛亮に、負担が極端に偏ってしまっている現状がある。

 内政も国政も軍事や外交に至るまで、諸葛亮は優秀すぎたのだ。


「しかし、私は先生が司馬懿に劣るなどとは決して思いません。現に、孟達が自分勝手に動くのではなく、先生の指示通りに行動を起こしていれば、クーデターを司馬懿は防げなかったはずです。それに、以前に司馬懿が蜀に仕掛けてきた、五つの道から様々な敵勢力を侵攻させるといった策も、先生は見事に完封しました」


「蜀は天然の要害に守られている土地だ、守れて当然よ。馬謖、軍略家としての才は、危険を顧みず、大敗しても生き、なお強く立ち上がれるかどうかで決まるのだ。一戦一戦の勝敗ではなく、最後の一戦に勝てる者が本当に優秀な軍略家なのだ。かの、魏国の礎を築き上げた曹操がそうであったようにな。それを踏まえた上で考えてみよ、私の今回の策は、魏延の策と比べてどうだ?」


 馬謖は困ったように口を紡ぐ。それを見て諸葛亮は、吹き出すように大きく笑った。


「例え誰が相手だろうと、理路整然と弁舌を振るう君だが、こういった嘘は苦手らしいな。わかりやすい奴だ」

「本当に申し訳ありません。ただ、私個人の意見としては、魏延都督の策の方に利があるように思えるのです」

「構わん、理由を話してくれ」


「確たる要因が分かるわけではございません。ただ、申し上げるとすれば、先生の策は『負けない為の策』であり、都督の策は『勝つ為の策』であります。魏は大国です、機を逃せば、蜀が勝利を得るまでどれほどの時がかかるのでございましょうか。都督の策は危険が大きいですが、方針は間違ってはおらぬと、そう思っております」


「長安の周囲には、ビ城も含めた複数の支城がある。その抵抗を押し切って長安に攻め込めるだけの将が、かつての『関羽』将軍のような大器が、今の我が軍に居るか?魏延都督は気が逸り過ぎる、趙雲将軍はもう全盛の頃と比べ老いてしまった。王平、張嶷、廖化、張翼、馬岱、この将軍達はそれぞれ優秀ではあるが、大器とは言えぬ。姜維将軍は、頭も良く、何より平野戦の指揮においては天武の才を持っているが、まだ若く忠烈すぎる故、決戦において身を亡ぼしかねない」


「先生は、欠点ばかりを見つめすぎなのです。各々の将軍達も、欠点を補うほどの長所を持っていましょう」

「───君しか居ないのだ、馬謖。君だけが、将来、私の後継者となり得る素質を持っている」


 細く、骨に皮がついただけのような指が、馬謖の顔を指した。

 ただひたすらに、まっすぐに見つめられた視線。

 馬謖は思わず、目を逸らしてしまう。


 気づけば齢は、三十を超えていた。そして、諸葛亮は五十に及ぼうとしている。

 目の前にいるこの諸葛亮は、間違いなく歴史に大きく名を遺すほどの英雄である。

 その英雄に付き従ってきて、常に格の違いというものを見せつけられてきた。

 例え一生を費やしたとしても、自分はこの人には遠く及ばないだろうと、尊敬と同時に、諦めも感じていた。

 そんな馬謖にとって「英雄の後継者」は、あまりにも荷が重すぎる話であった。


「せ、先生。後継はまだまだ先の話でございましょう。天下は依然として先生を必要としておりますし、ましてや先生の代わりとなるような人物はおりません。それよりも、まずはこの北伐です。魏を滅ぼし漢を復興させれば、軍事は他の者に任せることも出来ましょう」

「そうだな、私が北伐を成さねば……劉備様の、遺志を……」


 眉間に深くしわを寄せ、諸葛亮は目を閉じたまま動かなくなった。

 きっと、相当疲れているのだろう。日中、緊張の糸を張り詰めすぎているだけに、最近の諸葛亮はこうしてプツンと、急に眠りに入ることが多くなっていた。


 数回、諸葛亮に声をかけるが反応はない。

 深い呼吸を繰り返しているだけだ。馬謖は幕舎の外の従者へ呼びかけて、諸葛亮を寝所へ運ぶように指示した。

 幕舎の外へ出ると日はもう沈みかけており、陣中のあちこちでかがり火が煌々としている。


「先生は恐らく、今回の北伐が長くかかると……それも、自分の命数よりも長引くと読んで、死後の事まで案じているのだろう」


 この北伐を開始して以来、確かに諸葛亮は、自分の命を削るように職務をこなしていたように思えた。

 諸葛亮の死後。

 それはまだまだ先のことだと、そもそも考えもしなかったことだったが、もしかしたらすぐ近くまでに来ているのかもしれない。

 馬謖は、目の前に底の見えない穴が開いたような、そんな気分に陥った。



 蜀軍の将「王平」は、軍人であった。

 元は少数の異民族の長であったが、魏に降って武将の一人となり、後に蜀に降伏して、また将軍として戦場に立つことになった。

 他の異民族の長であった者達は、魏に降る際に「誰かの指示を受けるのは辛い」と口々にぼやいていたが、王平は一度もそのように感じたことはない。


 自分が戦う理由を、他の誰かが考えてくれる。むしろ気が楽な程であった。

 自分が民族の長になった時は、戦う理由も、これから何を目指せばいいのかもさっぱり分からなかった記憶がある。


 王平は字も書けず、頭も良くはなかった。そのせいで困ったことは一つもない。

 何かの岐路に立ったときは、一つも迷うことなく、不思議とすぐに「根拠のない決断」が出来たからだ。

 小さな頃からそうであり、養母はいつも「お前は、後悔をしない生き方が出来る、芯がしっかりした男なんだ。きっと大物になるぞ」と褒めてくれていた。


 魏軍の将として蜀軍と戦い、敗北し、兵達の命を守る為に降伏。

 その後は蜀軍の将として戦い、功績が認められ軍を任されることも多くなった。


 正直、誰から指示を受けようと関係ない。

 例えそれが諸葛亮でも司馬懿でも、上の人間に言われたことを確実にこなすのが自分の、軍人としての務めである。

 きっとこれが、自分の曲がらない「芯」というものなんだろうと、王平は感じていた。


「───物見でございます!」


 軍議の最中であった。

 またいつもの様に、諸葛亮丞相と魏延都督の意見に相違点が出始めていた頃合いである。

 幕舎に、鎧を付けていない一人の物見の兵士が、激しく息を切らして飛び込んできた。


「司馬懿、張コウ率いる軍勢およそ十万は、進路を『街亭』に定めている気配でございます!このままだと、早ければ翌週には街亭へ到着するものと思われます!」

「……あぁ、分かった。引き続き斥候を続けよ」

「御意」


 息も落ち着かぬうちに、物見は幕舎の外へと飛び出していく。

 周囲は神妙そうな面持ちで騒めいているが、王平は相変わらずその事態がうまく呑み込めないでいる。

 そもそも、「街亭」が自軍の拠点の一つであるということは分かってはいるのだが、それ以上の事は何も知らなかった。


 そんな中、明らかに顔に怒りの色がありありと浮かんでいる魏延が、幕舎の幕が破れんばかりに怒りの声を上げる。


「丞相っ!街亭は我が軍の食料が貯蔵されている場所、いかがなさいますか。曹真率いる魏の主力軍は我が軍の正面、斜谷に陣を構えており、先日丞相が話しておられたビ城を取るという策も困難。長安を攻めるにせよ、街亭を守るにせよ、ビ城へ向かうにせよ、迅速な決断が必要でございます」


 鬼気迫る剣幕の魏延。

 諸葛亮の顔は涼やかなもので、大したことはないとでも言いそうな雰囲気で、地図を眺めていた。


「丞相!!」

「くどい、と昨日も言った筈だ。学習してないのか、魏延。将軍達も皆、落ち着きが足らないな。そもそも、司馬懿がまず街亭へ向かうことなど、予め分かっていたことだ。大軍が自国を離れて遠征しているとき、最も急所となるのは食料なのだから」


「な、それでは丞相には策がお有りで……?」

「この策で、司馬懿の裏がかければ良いのだが。これから指示を出す。まず、我が軍が進むべき場所はビ城でも長安でもない。準備が整い次第、我が軍は『祁山』へ進む」


 一同のざわめきがピタリと止まる。

 眉をしかめ、一層不可解な表情をした魏延が地形図を眺めながら口を開いた。


「何故、祁山へ?ビ城からも長安からも、距離は離れまするが……」

「祁山こそ、長安へ通じる道だからだ。馬謖、私の言っている意味が分かるか?」

「はい」


 馬謖。今、最も将来を有望視されている武将だ。武将とはいっても軍人ではなく、どちらかというと大局を見据える事が出来る指揮官の様な人物だと、王平は評価していた。

 まだ万を超える大軍を率いた経験は無いものの、諸葛亮の抜擢により将軍へ昇進。

 小さな反乱を鎮めるような戦では軒並み完勝し、指揮官としての才覚を既に現し始めている。

 王平にとっては、別段親しい仲というわけではないが、嫌いな人物というわけでもなかった。

 そのくらいの関係性である。


 馬謖は、幕に掲げられた地形図の前に近づき、まず「祁山」の一点を指した。


「祁山は、ビ城や長安へ通じる大河『渭水』の上流近くに位置しております。

 背後の天水などの郡は全て抑えてあるので、背後を憂う必要もなく、戦場全体を見渡すことが出来ます。

 更にこの祁山から兵を出せば、渭水に沿って直線的にビ城や長安へ攻め込むこともでき、今まで頭を困らせていた食料の輸送も、船を使って渭水より運搬することが可能となります。

 最も利となる点は、街亭とビ城を結ぶ地である『陳倉』へ直接進軍することが出来るというところでしょう。

 陳倉に蜀軍が進めたならば、一挙に司馬懿や曹真の率いる二つの魏軍を背後から突くことが出来る形に持ち込むことが出来ます故」


 なるほど。妙案だ。流石丞相。

 先ほどまで不安げな表情を浮かべていた周囲が安堵したように、口々にそう呟いている。

 皆が言うのならきっとこれは良策なのだろう。

 しかし王平は、ただ一人、浮かない顔をしている馬謖が気になっていた。

 他にも馬謖の浮かない表情に気付いているのは、諸葛亮と魏延の二人だけのようだ。


「祁山には今、張翼将軍を向かわせている。もう既に、陣は築きあがっている頃だろう……さて、馬謖。それでも何か言いたいことがあるなら申してみよ」

「丞相。畏れながら申し上げます。現在、曹真率いる魏軍二十万と対峙しておりますが、祁山へ向かうとすれば、いずれの将軍をこの地に残しておくつもりでございましょうか」


「現在陣の前線にいる趙雲将軍を大将として、副将に『トウ芝』将軍、二人には八万の兵を率いて曹真と対峙してもらう」

「魏軍は二十万、対して趙雲将軍は八万。確かに街亭に迫る司馬懿の軍も脅威ですが、敵の本隊を疎かにしては本末転倒でございます」

「曹真は我が軍との緒戦にいずれも敗北しており、もう迂闊に動くことはしない。そもそも大将軍の器ではないのだ、アレは。保身の為に自ら動くことも無いだろう。そうなると最も目を向けねばならないのは、今は司馬懿のみである」


「蜀軍の本隊が陳倉へ侵攻した時も、果たして同じでしょうか?背後を突かれる形となった曹真軍が、退却ではなく、一か八かの賭けで趙雲将軍の方へ攻勢に出て、そしてこちらが破られてしまうと、形勢は一気に変わってしまいます。今度は我らが曹真軍を追う形になり、司馬懿軍に背後を脅かされます」

「曹真は動かぬ。例え動いても、堅陣を敷く趙雲将軍をすぐに破ることなどは出来ぬ。その間に我らは曹真軍の背後も突ける、心配はいらん」

「昨日も申し上げましたが、私は、魏延都督の策を支持いたします。天の時は、今でございます」


 誰もが息をのむ、そして誰よりも驚いて声も発せないでいたのは、魏延であった。

 諸葛亮の眉間には、深くシワが刻まれている。


 珍しい光景だった。

 王平の記憶では、諸葛亮と馬謖が意見を違えた事などほとんど無かった様に思える。

 諸葛亮の決めた戦略の細かな個所を、馬謖が補佐していく。馬謖の献策を基に、諸葛亮が戦略を編む。

 戦略的な軍議では、この形で意見がまとまることが多かっただけに、今回のこの決定的な意見の違いは、珍しいという気持ちと同じく、どこか一抹の不安を抱かせるものでもあった。


「馬謖、私は今までお前を我が子同然に育ててきたつもりだ。よく無理な難題も押し付けたが、いつも期待以上の結果を出し続けてくれた。しかし、今は私が丞相で、お前はつい最近に将軍に取り立てられたばかり。黙って従えと言うつもりは無い、ただ、お前だけは私の意図を汲み取れるはずだと、そう思っている」

「丞相……」


 諸葛亮が立ち上がった。これは、軍議が終わる一種の合図のようなものだ。

 しかし、このまま解散ではない。

 それは王平にも分かった。

 現在、蜀軍の食糧庫である街亭に司馬懿軍が迫り、そして目前には曹真軍が立ち塞がる。

 このどちらの軍も、蜀の総軍勢とほぼ変わらぬ数であった。


 それでも、王平は顔色一つ変えることなく、諸葛亮の次の言葉を待つ。

 敵が例え何倍も多くても、命令通りに動く。死ねといわれれば死ぬ。

 文字が読めず、豪傑と呼ばれる力量も無く、才知に長けてる訳でもない、さらには魏からの降将であった王平は、その確固たる芯が通っていたからこそ、いま地位を築き上げる事が出来ていた。


「これより、各武将の配置を指示する。呼ばれた将軍は直ちに各地へ向かい、文官は兵や兵糧の調整を行い順次報告せよ」


 左右に居並ぶ文官武将は、胸元で勢い良く拳と掌を合わせる。

 これから戦争なのだ。後は指示を待つのみ、誰もが諸葛亮に視線を向けた。


「先にも述べた通り、トウ芝将軍は一軍を率いて、前線の趙雲将軍と合流せよ。総勢八万で曹真軍との交戦を避け堅陣を敷き、私からの指示を待て」

「ハッ!」


「そして、街亭には──馬謖に行ってもらう。精鋭三万の歩兵を率い、山道を抑えよ」


 突然の事に馬謖からの返答はなく、周囲からはどよめきの声が上がった。

 確かに馬謖は誰もが認める優秀な人材ではあるが、大きな戦に立ったことはまだ無いのだ。

 それに、司馬懿軍は十数万、先鋒を率いるのは魏の名将である張コウ。

 いくら精鋭とは言え、三万の歩兵では守るに少なすぎる。


 急ぎ前へ出て膝をついたのは、またしても魏延だ。


「丞相、馬謖はまだ戦場の経験が浅く、この任は重すぎます。ここは、前線の大将の任を陛下に賜った、この魏延にお命じ下され!司馬懿を直ちに蹴散らして見せまする!!」

「都督には別の任がある」

「それならば他に経験豊富な将を──」

「──魏延、下がれ」


 しかし、魏延は下がらず膝をついたまま動かない。諸葛亮はそれを無視して指示を続けた。


「馬謖は兵三万で山道に陣を敷き、街亭を死守するのだ。良いか、勝つことを考えるな、守るだけで良い。十日耐え続けよ、出来るか?」

「………やります、いえ、やらせて下さい。必ずや丞相のご期待に応えます」

「よし、よく言った。では副将に、守りに長けた王平将軍をつけよう。王平将軍は馬謖を良く補佐せよ、頼んだぞ」

「ハッ」


 命が下る。王平はその瞬間、頭から一切の雑念が消えていくのを感じた。

 ただ、街亭を死守する。命令通りに、耐えるのだ。

 馬謖が自ら進んで任を受けたことで、これ以上どうしようもないと感じたのか、魏延は立ち上がり、武将が並ぶ列の一番前へと戻った。

「高翔将軍」

「ここに」

「街亭の後方にある烈柳城に、一万の兵を率いて駐屯せよ。もし街亭に何かあれば、すぐに救援へ向かえ」

「御意!」

「姜維、張嶷、廖化将軍はそれぞれ兵を率い、私と共に祁山の張翼将軍と合流する。祁山についた後、直ちに陳倉へ九万の兵を動かし、張嶷将軍は司馬懿の、廖化将軍は曹真の背後を突くのだ。私と姜維、張翼将軍はそのままビ城を落としにかかる」

「「ハッ!」」

「魏延都督」

「ここに」

「都督は後方の陽平関に向かってくれ。副将に馬岱をつける」

「丞相、この魏延は前線の大将。何故後詰を行わねばならないのですか」

「ただの後詰をとして都督を向かわせるのではない。戦況を逸早く見極め、果断に行動できるのは都督の他を置いておらぬ。今回の作戦では主戦場がいくつもある為、一つでも落としてはならない。どこかの戦況に異変が起きた場合、一番早く行動に移せるのは都督だけであると私は思っている。だからこそ、戦場をいくつも潜り抜けてきた二人に後詰を命じるのだ。そして、都督にはもう一つの大任を命じる」

「もう一つ、とは」

「私の本隊がビ城に迫り、趙雲将軍が曹真軍と交戦を開始した時、子午谷より進軍し、曹真、司馬懿が戻るよりも早く長安を急襲せよ。魏の皇帝である曹叡の首を取れ」

「な……そこまで、考えておられたのですか。分かり申した!身命を賭して、陛下に、先帝に、丞相に、必ずや曹叡の首を御覧に入れましょう!!」

「本隊がビ城を襲えば、必ず司馬懿も曹真も浮足立つだろう、好機は間違いなくその時だ。この一戦で決めよう、各自の奮迅の働きを期待する」

 間違いなく、この一戦が「北伐」を左右する。

 諸葛亮の号令に応える将兵の士気は、天を貫かんばかりに高かった。


 今まで率いたことがある兵の数は、最大でも五千程度であり、敵もまた国内で起きた小さな賊の反乱程度。兵の質、数、武具や馬、どれをとっても格下の相手ばかりだった。

 敵の歩兵を騎馬で割り、陣形が崩れたところを見て、歩兵をもって揉んで絞めて潰す。敵が騎馬を中心にした陣形であったときは、歩兵を五人から十人単位で固めて敵の馬の機動力を奪い、後にこちらの騎馬で敵陣を割っていく。

 降兵は徒党を組めないように、小隊に一人ずつ分けて配置して監視することで、再び反乱が起きないように努めた。いつも、反乱の鎮圧を終えて帰還したときは、兵の総数が増えていたほどである。

 天才だと、口々に誰もが呟いた。

 しかし、馬謖は、自分の事を微塵もそう感じたことはない。ただ、懸命に孔明の後に付いていただけなのだ。

 諸葛亮孔明、まさに一代の英傑。虹を追いかけている感覚に近かった。近づいたと感じることなど、ただの一度も無かった。

『君だけが、将来、私の後継者となり得る素質を持っている』

 光栄極まる言葉、しかし、喜ぶ事などは出来なかった。近くに居るからこそ分かる、あまりにも、格が違いすぎると。

 孔明は、明らかに痩せた。狩りの前の猟犬には、闘争心や本能を極限まで高める為、餌を一切与えない様にする。今の孔明はまさにそれだ。貪欲に獲物を狩る猟犬そのものである。

 重圧と、焦り。早く、虹に辿りつかなければならない。虹はいつか消えてしまうもの。消えてしまえばもう、追えなくなる。

「馬謖将軍、間もなく街亭でございます。丞相からは、この山道に陣を構えよとの命でございます」

 隣で馬に揺られているのは、副将である王平将軍だ。

 肌は浅黒く、比較的目の彫りも深い。異民族の出身で、文字が読めず、話す言葉も闊達ではない。印象としては、徹底された「軍人」であり、決して命令違反をすることはないような人物だ。

 現に、将軍としての地位は王平のほうが高いはずなのに、今回の作戦で副将に据えられても、不満を抱くどころか忠実に馬謖に対してきちんとした礼をとっている。

 何故、この王平将軍を副将に付けたのか。きっと、自分を試しているのだろうと、馬謖は思った。

 忠実な軍人としての資質を。後継者に足る器かどうかを。言うことを聞けと、親が子に諭すのと同じ様に。

「なるほど……良い地だ。ここに陣を構えれば、十日は何とか耐えることが出来るだろう」

 左右には岩肌の露出した山がそびえ、その中央に申し訳程度に整備された細い山道が通る。街亭へ通じる道はこの一本のみで、ここを封鎖してしまえば、一挙に大群が押し寄せてくることが出来ないこの地形で長く守りを固めることが出来る。

 しかし、十日だ。引き分けを、十日続けることが出来るだけである。この地に陣を構えれば、北伐が成功するのはまだまだ先になるだろう。まさかそのことに諸葛亮が気づいていないということは無いはずだ。だとしたら、何を見据えているのだろうか。

「馬謖将軍、何をそのように考えておいでですか?」

「丞相は、何を見ておられるのだろうと。常に考えている」

「……失礼ながら申し上げますが、今はその事を考えるべき時ではありません。武将は、授かった命を忠実に果たすべき、それだけにございます」

 いつもは、気にもならないその言葉。しかし、馬謖の心は妙にささくれ立った。

 自分でも少し驚いた。それほどまでに、いつの間にか心に余裕を持てなくなっているのだと。

「私は、先生に天下を取ってほしいのだ──」

 馬謖は街道のそばの山を指す。

「──王平将軍、私はあの山の上に陣を敷くぞ。山道に、兵は置かぬ」

 覚悟はとうに出来ていた。街亭を捨てる。この命と共に。

 全ては、あの人に天下を握って欲しいが為に。


 到底理解できる行動では無かった。どう考えても山頂の布陣は理に適ったものではない。

 散々止めた。それでも馬謖は聞く耳を持たなかった。

 馬謖の体は震えていた。震えながら、王平に対して「兵法を知らぬ異民族の癖に」と何度も暴言を吐くのだ。その暴言には不思議と腹が立つことは無く、むしろ哀れに思えてくるほどであった。自らを奮い立たせる為にわざと暴言を吐いているとしか思えなかった。普段の馬謖ならば、絶対にそのようなことは言わないからだ。

「急ぎ丞相にこの布陣の地図を届けるのだ。昼夜を通して駆けよ、事は一刻を争う」

「御意」

 旗下の兵士に地図を持たせて放つ。

 王平は馬謖の命令よりも諸葛亮の命令を順守する為に、僅か五千の直属の旗下の兵士達を率いて山道に陣を構えた。

 敵は迫り、半刻ほどすればここは戦場に変わる。敵の数は十万強、それでも、自分には譲れない「芯」がある。五千で、十日持ち堪えて見せるのだ。死の際まで粘る、その後の事はその時に考えればいい。

 日が傾きかけた頃に、「張」の旗を掲げる魏軍の兵士が押し寄せた。元々魏軍にいた王平は、思わず歯噛みする。よりによって非常に厄介な将軍と当たってしまったと感じたからである。魏軍の先鋒の将軍は「張コウ」、魏を築いた曹操の時代から戦場に立ってきた名将の一人である。

 その攻め方はまさに王道。誇り高い性格の張コウらしい、大軍でもって敵を揉み潰すことを得意とした小細工無しの戦法だ。攻め手に微塵も隙がなく、美しく感じてしまう程に統率も取れていた。

 王平は狭き山道に陣を敷き、杭を打ち、道の途中に大小様々な岩を置くなどあらゆる手段を使い、敵兵の足を止めて押し返す。そして最も徹底させたのは、とにかく声を出させることだった。怪我をして後方に下がってもなお、兵士には声を上げさせ続けた。

 声がよく出る兵士は、自然と士気が高く見える。五千の兵士で声を上げ続ければ、敵はその意気に飲まれて、伏兵や奇策を警戒してしまうのだ。戦場に立ってきた人間なら誰でも知っている事であり、万策に通じる戦術だ。戦うよりも声を出す、王平はこれをとにかく徹底させた。

 諸葛亮の奇策に散々悩まされ続けてきた魏軍の兵に、この戦法は予想以上の成果を上げた。日が沈む頃には、明らかに攻めの圧力は弱くなっていた。

 山の方は、「司馬」の旗が掲げられた魏軍によって囲まれている。そのまま締め上げるように攻めるが、馬謖は岩を落とし、弓を射かけ全く敵兵を寄せ付けなかった。魏軍が火矢で木々を燃やしても、馬謖は予め細工をしていたのか、燃えた木々はあっけなく倒れ、燃えたまま魏軍を圧し潰しながら転がった。

 元々、戦は高い方に位置している軍の方が強い。その上、守り方も上手く出来ている。司馬懿の軍が攻めあぐねている様子が、王平の位置からでもよく見えた。

 だからこそどうしても理解が出来ない。あそこまで上手く戦えるのに、どうして山頂に陣を構えたのだろうかと。

 二日目から、両軍の動きは無くなった。

 司馬懿軍は山を取り囲んだままで、張コウ軍も王平軍の陣の前で対峙する。王平は、これを最も恐れていた。

 あの山の頂には水源がなく、地盤も固い為、地下の水脈も期待できない。水を得るためには山を下るしか方法がなく、このまま包囲を続けられれば、あっというまに馬謖の二万五千の兵は干上がってしまうのだ。

 馬謖は戦が始まる前に十分すぎるほどの水を蓄えていたが、二万五千が毎日水を使用するとなると、その蓄えはあまりにも心細いものである。

 さらに、張コウが攻めてこないのは、王平軍が山の包囲網に戦の最中で穴を生み出すことを恐れているためだろう。一兵も通さなければ山頂の馬謖軍は勝手に干上がる。その時に全軍で攻め込まれれば、いくら細道といえど、王平軍は耐えきれずあっという間に揉み潰されてしまう。

 しかし、動くことは出来ない。動くには、あまりにも王平の軍は少なすぎた。

 六日目。

 この日に、馬謖軍が水不足で耐えきれなくなると王平は踏んでいた。事情を聞きつけた高翔将軍は既に、烈柳城にて一万の兵を臨戦態勢に置いたらしい。

 しかしそれでも、馬謖軍は出陣しなかった。意外によく耐えているが、斥候の情報では、馬謖軍は数百の決死隊で山を下らせて水を汲みに行かせたらしい。そして、その全てが司馬懿軍に討たれるか、降伏してしまったとか。

 持ってあと二日。恐らく明日は多くの兵が陣を抜けて、魏軍に下る。

 そして明後日、これ以上兵を損なわない為に、馬謖は全軍でもって司馬懿の包囲網を突き抜けようとするだろう。

 その時に自分はどうするだろうか。自業自得だとして守りをさらに固めるか、それとも勝ち目の少ない戦場へ飛び込むか。それは、その時に考えよう。王平は首を回す、小気味の良い音が鳴り、鈍い痛みが頭に広がった。


「将軍、昨夜の脱走兵は三千を優に超えています。今夜は、その倍以上になる恐れがございます」

「分かった……戦支度を整えよ」

「御意」

 もう少し、耐えることは出来なかったのか。無性に腹が立った。

 兵士には馬謖が抱える個人的な事情なんて知ったことではない。分かっているが、それでも苛立ちが募る。最初からこうなることは分かっていただろう、何度もそう自分を叱咤した。

 槍を持ち、具足を強く縛る。後は、派手に死ぬだけだ。出来るだけ長く、司馬懿の目をこちらに向けさせておく。それが馬謖が一人で編んだ戦略だった。

 確かに、諸葛亮の言う通りに山道に陣を構えれば、絶対に十日持ち堪えることが出来るだろう。後方には高翔将軍の一万の兵もいる、心配はいらなかった。

 しかし相手は、あの司馬懿であるということも加味しなければならない。こちらの軍が山道に陣を構えた上で、魏軍がどのように動いてしまったら不利になってしまうのか、恐らく司馬懿はその最も嫌なことを躊躇なくやるだろう。最も嫌な行動、それは、戦わずにそのまま魏軍が街亭を諦めて引き返してしまうことだった。

 魏軍が引き返したとき、次に陣を構えるのは恐らく陳倉だろう。そうなれば、諸葛亮率いる本隊は陳倉でぶつかるか、祁山にとどまるかの二択。

 もし司馬懿がそのまま街亭へ攻め込み山道で戦ったとしても、予め諸葛亮が話していた本隊がビ城まで攻め込む作戦だが、兵の総数を考えればそんな余力はどこにもない事は分かる。曹真軍と司馬懿軍の背後を突くので精いっぱいだろう。そうなると、急ぎ退却した曹真と司馬懿がビ城付近で合流し、そこで蜀軍は総力戦を行うことになる。魏延将軍の奇襲などは、孤立して意味のないものになる。

 恐らく、諸葛亮が描いていたのはこの総力戦までの戦略なのではないだろうか。この一戦で決めるつもりは毛頭無く、総力戦に持ち込むことを想定しての戦略。

 しかし、曹叡は長安から遠ざかるかもしれない。さらに戦は長期化すればするほど、国力の差が明確に出てくる。

 そこで馬謖が考えたのが一つの賭けであった。山頂に布陣することで、司馬懿は優位を目前に必ず麓を囲み水を断つ。そして出来るだけ時間を稼いだ後に混戦に持ち込めば、戦況が優位な司馬懿軍は心境的に撤退が遅れる。勝ち戦の真っただ中での退却は、必ず心に躊躇いを生むからだ。

 そうすれば諸葛亮率いる本隊は魏延将軍と合流しながら、真っすぐに長安へ攻め込めるだろう。この命を引き換えに、諸葛亮は天下を掴めるはずだ。そう考えると、いつの間にか体の震えも止まった。

「出るのは夜明けだ。日が顔を出しきった瞬間に出陣する」

 見る限り兵の士気は低い。これでどれほど耐えられるだろうか。

 それでも、戦うしかなかった。無理やりでも士気を振るう為、馬謖は馬に乗り、兵の先頭に立つ。日は、昇りきった。

「目指すは王平将軍の陣だ、そこには水も十分にある!死力を尽くせ!!」

 もし王平の陣に入れたならば、時間を稼げるどころか、街亭を守り抜けるかもしれない。つまり、あの陣に入ることが出来ればこちらの勝ちだ。それも、完勝と言っても良い。

 しかし、敵もそんなに甘くはない。今日、この日に、こちらが全軍を打って出る事なんてとっくに分かり切っているはずなのだ。

「私に続けっ!第一陣、突撃!!」

 馬謖を先頭にした、およそ千程の騎馬隊。乗っている馬は普通の平野の馬とは違い、脚が短くどこか不格好な馬ばかり。しかしこの種類の馬は素早く走れない代わりに、斜面や荒れた地面を難なく力強く踏ん張ることが出来る馬であった。

 申し訳程度にしか整備されていない下り道を全力で駆けているのに、隊列は乱れず安定している。重く力強い馬蹄。敵が見えた。小さく固まった隊が詰め寄り、魚の鱗の様な陣形だ。騎馬相手に行う歩兵軍の陣形で、中央が厚く攻防に優れていた。馬謖もよく知っている。勿論、破り方も分かっている。

 馬謖を先頭にした騎馬がまず魚鱗の中に突っ込む。勢いはすぐに止まる。ここで深く切り込んでいくのではなく、ある程度敵陣に入り込んだこの切り口を、今度は横に横に力押しで広げていく。鱗はそれで剥がれ、重なり、防衛の前線でのみ陣形が力押しで崩れていく。

「一陣は引き返せっ、第二陣突撃!!」

 一斉に馬の鼻を引き返し、騎馬隊は鮮やかに坂道を駆け上がる。下りも上りも平地と同じく駆け回る、馬謖はこの不格好な馬が比較的好きだった。

 その駆け上がる騎馬隊と入れ替わるように坂を下ってくるのは、歩兵の第二陣。それぞれの隊が先を尖らせた丸太を抱えて突進する。前衛の防御が乱されている最中に打ち込まれていく巨木、魏軍の隊列は大きく乱れた。

 高いところから低い位置の兵を蹴散らすのは、それほど難しいことではない。逆落としと呼ばれ、山に慣れた蜀軍の歩兵が最も真価を発揮する戦法でもある。

「蹴散らせ!足を止めるな!!」

 歩兵を追い抜き、再び騎馬隊が前へ躍り出た。陣は、崩れた瞬間に叩くだけ叩く、再び隊列を組まれる前に、乱すだけ乱すのが鉄則だ。

 群がる敵の歩兵に対し、槍を叩きつけ、穂先で並んだ頭を横に凪ぐ。崩れた魚鱗では、この馬は止まらない。騎馬が切り開いた後を、歩兵が駆けていく。このまま包囲を突破できるかと、馬謖の心にか細い希望が芽生えた時であった。

 先を走っていた騎馬隊の勢いが急に止まり、馬上から兵士が次々と引きずり下されていく。馬謖は慌てて右手を挙げ、騎馬隊の動きを止めて歩兵を先行させた。

 いつの間にか、魏の兵が掲げる旗が「司馬」から「張」に変わりつつあることに気付く。張コウの旗下である精鋭の「重装兵」の軍であった。本来は城攻めにおいてその真価を発揮する兵であり、逆落としの勢いを止めることも、このように難なくやってしまう。馬謖は思わず歯噛みした。

 重装兵は動きが鈍く、険しい街亭の地まで移動させるには倍の時間がかかるはずだった。どこか張コウを甘く見ていたのかもしれない。彼の率いる重装兵は、間違いなく中華一だろう。実際目にしてみてよく分かった、街亭まで進むのなんて訳も無いことなのだ。

「馬謖将軍!別動隊の司馬懿軍が後方より出現!!」

「な……上手く誘い込まれたのか」

 今度は、こちらが逆落としを喰らう番になる。それも、強固な壁を眼前に構えたままだ。

 一度勢いを失った自軍は明らかに士気を落としていた。水を飲んでおらず、疲労も蓄積している。この兵士を抱えての前面突破は不可能に等しい。

「前面は、全騎馬隊でもって突撃、ただひたすら王平将軍の陣へ走るぞ」

「御意!」

 ここで死ぬのだろう。確信にも似た予感。ただ不思議と、馬謖の心は熱く滾る。これが戦なのか。馬謖は大きく吠えた。

 まるで槍を模したような陣形。ただ一点突破を試みるのみ、馬謖はその先頭で再び駆けだした。突き刺し、薙ぎ倒し、道をこじ開ける。それでも前に進んでいる感覚がしない。岩山を石つぶてで掘り進んでいる、そんな感覚だ。

 すでに槍を持つ手に力を籠めるのが困難になっている。槍を突き出す、しかし、それは弾かれ地に落ちた。太ももに槍が突き立つ。馬謖は腰の剣を抜き、敵の腕を斬って槍を抜く。まだ戦いたい、今だけは全てを忘れて戦っていたい。

「あれは!敵軍の後方より、王平軍、高翔軍が駆けつけてきました!!」

 旗下の誰かが叫んだ。確かに、遠くで「王」「高」の旗が揺れていた。旗下の騎馬隊が馬謖を囲む。一気に張りつめていたものが切れた気がした、馬謖は大きく息を切らし何度も嗚咽を漏らす。しかし水の入っていない胃からは何も逆流してこない、ただ苦しい呻き声だけが体に響く。

 背後から急襲された重装兵は道を開けるように割れ、被害を最小限に僅かに退く。

「無事でしたか馬謖将軍」

「……王平、殿」

「無理に口を開かなくて結構でございます。馬謖殿は中軍にて指揮を。前線を高翔将軍、私が後方の司馬懿軍を食い止めます」

「いや……行かなくて、良い」

 何を。王平はそう口走りながら、馬謖の指す方に目を向けた。

 揺れる旗は「魏」の文字。あれほど低かった蜀軍の士気が一気に盛り上がる。万を超える兵士の怒号の中、はっきりとその声は聞こえてきた。

「──高翔!王平!馬謖!!この魏延が来たからには、必ずお前らを生きて帰す!!」

 蜀軍一の精鋭部隊。その勢いはすさまじく、包囲網を一瞬で破り救援へ駆けつけてきた。

 その先頭で薙刀を振るのは魏延将軍。防御を全く考えない圧倒的な武力、例え相手が重装兵であろうとその勢いは変わらず、むしろ増すばかりだ。その刃は前に前に加速し、塞がる全てを断ち切っていく。

 全身に血を浴び、敵兵を斬りながら、魏延は大きく笑った。

「初陣が大敗か!馬謖、お前はきっと良い将軍に育つぞ!!」

 魏延は再び来た道を駆け戻り、包囲網の中で道を作った。僅か一瞬でだ。嵐のような峻烈さ、あとはこの道をなぞるだけで楽に退却が出来そうだ。

「王平殿……これは、撤退ですか?」

「はい。諸葛丞相からの命でございます。全軍陽平関へ撤退、その後蜀へと戻るとのこと。先日、その伝令が届きました」

「そう、ですか。先生の……」

 再び大きく嗚咽を漏らし、馬謖の視界は一瞬で闇に呑まれた。


 街亭は出陣した王平と入れ替わるように張コウが進軍し、城を占拠。高翔の駐屯していた烈柳城は、司馬懿軍の別動隊が占拠していた。

 北伐の為の食糧庫を失った。馬謖軍は全滅にも近い損害を出し、王平軍、高翔軍もまたその被害は相当なものであった。魏延の到着が遅れれば、間違いなく全滅していただろう。

 それに対して、曹真軍を相手にしていた趙雲の軍は、撤退戦で倍以上も差のある大軍を相手に全くの損害を出していなかった。むしろ追撃してきた敵を追い散らし、兵糧などを奪ってくるような活躍を見せていた。

 空気は重く、北伐を目前にしていたという思いの強い文官武将はそれぞれに涙を落としている。しかし、魏延の顔だけは比較的明るい。

「丞相譲りの冷徹な切れ者だと思っていたが、お前もやっぱり人間だった。失敗することもある、それを恐れてたら軍人は務まらん。お前は若くしてそれを知ることが出来たのだ。もし兵卒に落とされてもこの魏延が面倒を見てやろう、そう気を落とすな」

 何故、魏延が兵に慕われているのかがよく分かった気がした。

 それでも馬謖の表情は重く、まるで生気を感じられない。王平の目から見て、馬謖はこの撤退の帰路の中で酷く痩せてしまったように思える。

 馬謖は旗下の兵に命じ自らの体を縛る。全ての文官と武将が並んでいる中、王平と魏延、高翔、そして両腕を後ろで縛った馬謖が諸葛亮に帰還の旨を報告した。誰一人として馬謖を責める者はいない。しかし、行き場の無い悔しさや無念の心境が痛いほど肌に刺さる。

「魏延都督、被害の報告をせよ」

「我が軍の損害は軽微。王平は旗下五千の兵の半数を、高翔も一万のうち三千を失っております。馬謖の軍は、五千の兵が敵に降伏、さらに一万以上が討ち取られたり帰還の途中で死んでおります」

「都督の迅速な行動が無ければ、街亭の軍は全滅を免れなかったであろう。よく働いてくれた」

 諸葛亮の顔には疲労の色が濃い。張りつめた獣のような緊張感は、今やどこにもない。

「高翔将軍は、この十日の間どう動いた」

「私は、烈柳城にて一万を待機させておりました。五日を過ぎた頃、王平将軍の早馬が届き、山頂に布陣した馬謖将軍の水はあと数日でなくなるとの報告を受けました。その後全軍の準備を二日で整えた後に出陣。途中で魏軍の小規模の隊を破りながら救援へ駆けつけました」

「王平将軍はどうだ。馬謖を、止めなかったのか」

「何度もお諫め申し上げました。しかし馬謖将軍は無理矢理に山頂へ陣を敷き始めたので、私は副将の立場ながらも丞相の指令を優先し、旗下五千と共に山道に布陣。そして布陣の図を丞相に届け、早馬で高翔将軍へ救援の伝令を送りました」

「分かった。馬謖以外は列につけ」

 魏延、高翔、王平はそれぞれの列の位置につく。馬謖は下を向いたまま、その場で膝を折った。

「馬謖、申し開きがあるなら述べよ」

「……ございません」

「そうか。お前の罪は重い。軍令に背き、大軍を失った。軍法に照らし合わせ、お前を──死罪とする」

 表情を変えずに淡々と。それはまた馬謖も同じで、黙々と言葉を受け止める。

 しかし、いや、やはりここで前に出る者がいた。魏延と、文官筆頭の「楊儀」の二人だ。文官武将の筆頭である二人が、異議の為に諸葛亮の前で膝をつく。

「丞相、恐れながら申し上げます」

「楊儀か」

 現在、この蜀軍の中での文官の筆頭であり、諸葛亮の片腕として政務に励んでいるのがこの楊儀だ。他人の小さな落ち度まで指摘する癖がある為に武将との仲は悪いが、文官としての能力は頭一つ抜き出ていると言っても良い。

「確かに今回の大敗は馬謖に非がございましょう。しかし、殺すには余りにも惜しい能力を持っているのもまた事実。生きていれば必ず成果を出してくれる貴重な人材でございます。何卒、寛大な処置をお願い申し上げます」

 諸葛亮は僅かに口を開くが、声が出ない。再び口を閉じ眉間に深い溝を作った。

「丞相、都督の立場から異議を申し上げます。確かに、今回の北伐、馬謖の軽率な行動によって全軍が退却せざるを得ない状況となってしまいました。しかしながら、丞相の指令を待たずして、何よりもまず我が軍が街亭への救援に向かったか、お分かりでございますか?ただただ、馬謖の命を救わんが為でございます。今回が初陣、万を超える兵を託され、最初から重すぎる任であったことは誰の目から見ても明らか。この大敗は必ずヤツの大きな糧となります。命を削るような経験さえ積めば、馬謖はこの蜀を支える大きな柱となりましょうぞ」

 野太く通った声ではない。細く、消え入るような懇願の声だ。

 仲間の死を、自らの死以上に悼む。だからこそ魏延の兵も、魏延の為に死ねるのだ。粗暴で傲慢な質だが、魏延の魏延たる本質はそこであった。王平は、このとき初めてそれが良く分かった。

「一兵卒にまで落とし、この魏延に預けて下さいませぬか?必ず、この大敗をも超える勝利をもたらす将軍として、育て上げて見せます」

「……王平将軍、副将であった立場として、この処断をどう思う」

「私、でございますか?」

 諸葛亮に名を呼ばれ、王平の声は僅かに上ずる。

 全員の視線が集まった。地面に目を落とす馬謖以外の、全員の視線。王平はその場で膝をつき、額を下げる。声は震えていた。

「丞相は、間違っておられぬと思います」

「何故だ」

「私は軍人であり、馬謖殿もまた軍人であるから、としか申し上げようがございません。しかし馬謖殿はあの時、軍人ではなく丞相になろうとしておりました故」

 床につくまで下げた額。突如、頭上が騒がしくなる。喧騒。王平は額を上げる。

 目を真赤に腫らした魏延が、剣の柄に手をかけており、老齢の趙雲が魏延の腕を抑え込んでいた。自分は斬られそうになっていたのか。それを理解したとき、体が一気に冷え、汗が噴き出した。

「魏延!落ち着かんか!!」

「趙雲殿っ、仲間を殺したくないという、ただそれだけの願いなのだ!それを何故止めるのですっ!王平、貴様は今、馬謖に死ねといったのだぞ!?」

「魏延!!今お前が斬ろうとしているのもまた、仲間ではないのか!?」

 ようやく魏延の抵抗は収まった。ただ息が荒く、額に浮き出る血管は今にも破裂しそうだ。

 趙雲は魏延を放した。趙雲子龍、蜀で最も古い臣下である。その武名は中華全土に轟き、槍を使わせたら右に出る者はいないとまで言われる天下無双の豪傑であった。髪は白く、肌も乾いているが、一騎打ちなら未だに魏延にも勝る力を持っている。

「王平は何も間違ったことは言ってはおらん。国と国との戦じゃ、誰か一人の過ちで全てが覆る事もある。今回、馬謖が許されたとしよう。しかしまた今度、違う誰かが過ちを起こすかもしれん。軍の流れとはそういうものだ、だからこそ断ち切らねばならん。未来に繋がる仲間を殺さない為に、過ちを断つのだ」

 軍議は、これで終わりだった。魏延は最後まで助命を請うていたが、恐らく、難しいだろう。

 孔明は馬謖だけを残し、全員に退出するよう命じた。


「馬謖、痩せたな。この数日で、格段に」

「食べ物も、水も喉を通りませんでしたので……」

「そうか」

「先生もお痩せになられております」

「実感は無い、自分では気づきにくいのだな」

「左様ですか」

「馬謖」

「はい」

「苦労を掛けた」

 二人の間に流れる空気は、まるで親子のそれと同じであった。流れるように、どこか暖かい。

 気づけば涙が出ていた。しかし馬謖はそれを隠すでもなく、孔明に視線を向け続ける。

「私は先生の期待に応えることが出来ませんでした。苦労を掛けたなど、仰られないで下さい」

「……道ではなく山を取った、その訳を話してみよ」

「はい」

 死を覚悟して、馬謖は開き直ったかのように自分の考えを語りだす。山に陣を張れば、敵を引き付けることが出来ること。自らを囮の死兵とすることで、長安奇襲を十分に助けることが出来ること。そして何より、諸葛亮孔明に天下を取ってほしかったこと。普段の様に理路整然と言葉を並べる。

「この戦況で最も困る敵の動きが、街亭に攻め込まずに退却することだと思いました。だからこそ布陣で愚を選び、敵を引き付け、山の利を生かす戦法で戦い抜くことを決めました。街亭が落ちるものだと分かれば、先生の本隊は兵力をそのままに長安へ進軍出来たはずなので」

「長安への奇襲。勿論、お前がそれを考えていることは分かっていた。大胆だが、戦略も理に適っている。しかしお前は決定的な見落としをしていた」

「と、言いますと」

「魏の皇帝の曹叡の力量、そして、司馬懿の才知。この二つだ。曹叡は若く、即位して間もない。だから皆が勝手に曹叡をただの若造だと思っているが、決して若いだけの皇帝ではないと私は見ている。政争に敗れ、ただの資産家となり下がった司馬懿を再び抜擢したのは間違いなく曹叡なのだ。さらに戦に自信があるからこそ、敢えて長安の傍に大軍を置いていない。長安奇襲は一瞬で落とさないと包囲を受ける危険な賭けであると私は言った。それは曹叡が暗愚であるという前提でもっての策なのだ、もし多少でも抵抗が出来るような器であれば全てが崩れる。だから私は奇襲を良しとしなかった」

「司馬懿の才知の方は、どういうことでございましょう?」

「私は、お前にだけ一度こう漏らしたな。軍略では司馬懿の方が私より上手だと。だからこそ、私は安全策を取り続けてきた。奇襲は読まれたら最後、大きな損害を生むからだ。馬謖よ、街亭でお前が戦っているとき、司馬懿がどこに居たか知っているか?」

「司馬懿軍は、私が対峙していたはずです」

「見せかけ上はな。しかし後の情報で分かったが、あの司馬懿軍を率いていたのは、奴の息子の司馬師と司馬昭の二人だけだった。司馬懿はひっそりとビ城へ入っていたらしい」

「な……」

「これでも奇襲は成功しただろうか、馬謖」

 恐らく、成功しなかったであろう。

 奇襲で本隊が長安へ向かったとしても、ビ城より数万の守兵が行く手を阻む。その数は少ないとしても、司馬懿が指揮を行えば、行く手を阻む程度の事は難なくやり遂げてしまうだろう。そして、奇襲の報を聞きつけた張コウ軍や曹真軍が追撃してくるまで耐えれば、蜀軍は退路を断たれ大打撃を被る。

 だからこそ諸葛亮は、足場を固めながらの総力戦へ持ち込もうとしたのだろう。勝利を重ね、流れを掴む。しかしそれを、自分の軽率な行動で崩してしまった。

「全て、私は司馬懿の手のひらで踊っていたと、そういうことですね」

「それは私も同じなのだ。しかし、お前は経験が足りなかった、その一点だけだった。趙雲将軍に言われた、馬謖に任せるには早すぎたのだと。魏延の言う通り、お前はこの敗北を糧に良き指揮官になる。本当に死ぬべきなのは私だ。お前のその才能を愛して、勝手に期待を押し付け、そしてお前を知らぬ間に縛ってしまっていた、私に全ての責任があるのだ。楊儀が抗議を立ててきたとき、思わず礼を言いたくなった。魏延が王平に対して剣を抜こうとした時、心底、私を斬ってくれと叫びたかった。どこに、息子の様に愛した人間を斬りたいと思う親が居るのだ。それでも私は丞相として、私の代わりに、お前を斬らねばならない」

「違います先生。私は、私の力量が足りず大敗してしまった為に死ぬのです。何一つ先生は関係ありません」

 諸葛亮の目から涙が落ちる。もう、馬謖は目を合わせることが出来なくなっていた。これ以上目を合わせていれば、きっと、もっと傍で学びたかったと言ってしまいそうだった。

 この北伐は国の総力を挙げての戦いだった。だから、失敗の責任は誰かが取らなければならない。必ずだ。そうして、文官武将や民達の国への不満を払拭する。国とは、そういうものだ。

「……最後に、何か望みはあるか?」

「先生、どうかお体をご自愛ください。私の望みはそれだけにございます」

「分かった……お前の死は、この蜀の為に役に立つだろう」

「ならばこれ以上の喜びはありません。先生、今まで本当に有難うございました」

 もう、声を出せなかった。諸葛亮は目を伏せ、声を押し殺し、手を払った。

 馬謖の足音が遠ざかり、静寂が体を苦しいほどに締め付ける。嗚咽を漏らしながら、歯を食いしばり叫ぶ。立ち上がって何度も文机を蹴とばし、何事かと慌てて入ってきた数人の従者に両腕を抑えつけられた。

 既に、心を許せる者の殆どが死んでしまった。そしてまた、馬謖も死ぬ。諸葛亮は大きく泣き叫んだ。


 数日後、馬謖は国の広場で、戦犯の汚名を被り首を斬られた。

 天気は生憎の雨であった。罪人の首を斬るのは獄卒の仕事なのだが、魏延の申し出によって、馬謖の首を斬るのは魏延となった。

 その時、諸葛亮はその場には居合わせてはいなかった。蜀の丞相としての仕事は山のようにある。敗戦によって受けた大きな損害を補う為、例え一瞬でも立ち止まることが出来ないのだ。しかしそれはやはり建前で、どうしても、目の当たりにしたくはなかったのかもしれない。

 夕刻を過ぎ、雨と血に濡れた魏延が面会に来た。

「馬謖は、最後まで何一つ恨み言を述べず、蜀の軍人として死を受け入れました」

 簡潔にそう報告し、退室する。

 魏延の表情は、明らかに不満の色が見て取れる。自分の方がお前より辛いのだと、諸葛亮はそう激怒したい気持ちをぐっと抑えなければならなかった。

 雨はまだ、しきりに降っている。いつも傍にいたはずの話し相手を失ったのだと、今更になって実感を帯び始めた。



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― 新着の感想 ―
[良い点] 切ねぇ・・・ 馬謖もだけど、この後の魏延のことを思うとやりきれない。 [一言] めちゃくちゃ無粋なこと言うと、政治家が軍を率いると往往にしてこう言うことにな理ますよね、今のプーチンみたいに…
[良い点] 泣いて馬謖を斬るのエピソードですね。 愛弟子を体面のために斬らねばならない辛さがよく表現できていてとても良かったと思います。 「別れの前の二人きりの語らい」というシチュエーションが個人的に…
[良い点] 馬謖に向けての魏延の言葉が泣かせますね。孔明と魏延、武人と軍師とでも言えばいいのか、その二人の擦れ違いが切なかったです。また馬謖が孔明に対して抱く、『虹を追いかけるようなもの』という例えが…
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