不死身信長
天正十年六月二日深夜、明智勢は突如として京の本能寺を襲う。寺に泊まるは主君信長。信長の手勢わずか百人ほどに対し、明智は三千兵で攻め寄せる。
信長勢は必死に抗うも、周りの者は次々と倒れ行き、最期を悟る。一人奥の部屋に向かいて、襖を閉ざす。その白い衣を下ろし、小刀を目前に置く。……さあ、いざ死なんと欲する。
……火の手が回り、争う声も止んだ。明智には、火の中を突っ込んでくる勇者はいないらしい。人に恵まれぬなと光秀を嘲笑った。この信長の首を取れば、一番の手柄だろうに。それとも、そこまで光秀に尽くそうと考えている武将がいないのか。
人間五十年などと心で抜かしつつ、信長はとうとう小刀を両手でとった。腹を切るのはどんな感触か。痛いと言っても、これまで受けてきた刀傷以上のものだろう。誰かに″教えろ″と訊いたところで知る者はいないし、その以前にここで生きている者は一人だけ。……火は激しさを増す。
鈍い音がした。
勢いよく刺した。……まだ、かろうじて生きている。痛みで死ぬのが先か、煙で死ぬのが先か。
……なかなか人は死ねぬものだ。小刀は刺さったままだと、痛みは薄れるのか。そうか、抜いてこそ、なおいっそう死へ近づくか。血しぶきをあげ、鮮やかな色は黒く変わるはずだ。
信長は、腹から小刀を抜いた。その時、強烈な痛みが彼を襲う。同じくして屋根も信長めがけ落ち行く。壁や柱はことごとく崩れ、辺りに火の粉を撒き散らす。
信長の従者らは死に果て、明智勢は遠巻きに様子を伺う。……火が落ち着いたら、信長を探さなくてはならぬ。火傷で顔の分別はつきにくいだろうが、きっと奥の部屋にいるはずだ。案外楽にも思われた。
ただし、信長はなおも悶え続ける。
何故、死なせてくれん。
頭上を襲う瓦礫を、片腕で払いのけた。倒れた柱が折り重なる中、信長が見たのは外の景色。黒い煙の中、かすかに覗くは満月。
……なぜ、このように”思う”ことができるのか。死ぬ間際は、余裕があるものなのか。
信長は、己の腹を見た。
見事に塞がっている。
これは幻覚なのか、きっとそうだ。それとも夢の中か。いや……自殺者は己の不徳故に、その自殺する場面を繰り返すという。それも永遠に。……ふん、それも一興か。信長は再び小刀を手に取り、腹に刺した。激痛が襲う。また痛みがが弱まるのとみるや、抜いてみる。鮮やかな血が辺りに散らばる。心臓の鳴る音がいっそう激しい。
信長は目を閉じる。
痛みは和らぐ。意識ははっきりとしている。
何故か笑えてきた。天よ、自殺者と自害を一緒にするな。自殺者とは、世に生き甲斐を失って死に行く者。対して自害とは、世が己に死を求め、それを受け入れた者がすることだ。死にたくて死ぬのではない。死にたいのなら、何度も繰り返せばいいさ。たが何故、私に繰り返すことを求める。
信長の笑い声は、辺りを囲む明智勢にも聞こえた。
兵らは震え上がった。あの火の中、笑い声をあげながら直立している一人の男。……光秀も騒ぎを聞きつけ、兵らを押しのけ前に立つ。
″信長だ……″
正に、人ではない。……しかも、小刀で腹を刺したり抜いたりしている。何故、生きることかできるのだ。
理解の範疇を越えていた。
光秀は、思い出す。そういえば信長は、自らを神として崇めよと。安土城に祠を築き、家臣らに拝ませていた。……このような態度も、謀叛に至った理由の一つだ。
ああ、どうすればよいのか。
そんなとき、光秀の伝令が袂に参ずる。
「織田信忠を二条城にて討ち取りましてございます。」
そうか、そうか……。光秀の鼓動を抑えるべく、息の早さもなるべく穏やかに努める。
半刻立ち……気を持ち直す。光秀は家来らに命じて、火縄十丁を持ってこさせた。あの神を撃たんがために。
その十丁は激しい音と煙をあげて、信長一人へ放たれた。……手練らゆえ、ことごとく命中した。彼は倒れこむ。それよりは小刀を刺したり抜いたりするのをやめ、一寸とも動かない。
光秀とその兵らは、生死を確かめたかった。だか誰もしようとしないし、光秀も命じなかった。
……そのうち、夜があけた。騒動のことをまったく知らぬかのように、小鳥らが鳴く。
光秀は数人伴って、信長のそばに寄った。
……
「おい、信長。」
″様″などつけぬ。すでに主君ではない。
……
信長は阿修羅の如く、目を見開く。
″何故、死なせてくれん″
光秀はすぐにでも逃げ出したかった。だがそれでは、天下人の器にあらず。静かに家来へ合図を送る。家来は一つ頷き、腰の刀を鞘から抜く。そして勢いよく、信長の首をはねた。
信長は笑った。
胴が離れているにも関わらず。
光秀は、気を失う。
これでは首を取ったとはいえ、使えぬではないか。いやそれよりももっと肝心なこと……。
信長は、人ではない。
光秀はその後、家来に命じた。信長の胴と首を網に入れ、重しに巨石をつける。琵琶湖の奥深く……二度と地上へ浮かばぬよう。
信長は今も生きているだろうか。生き続けることこそが、天罰なのだろうか。あまた人を殺めてきた彼に対する、何者かの呪いなのか。