つぶやき
一人の青年が、何かをつぶやいている。
ブツブツブツブツと、何事かをつぶやている。
A氏はそれを遠巻きに眺めながら気味悪がっていた。
いったい、何をつぶやいているのか。
ここでは遠すぎてよく聞こえない。
ただ、恐ろしかった。
青年はたった一人で、何かに語りかけるようにしゃべっていた。
目の前に、誰か人でもいるのだろうか。
しかしA氏の目には誰も映らない。
彼は視力はいいほうである。
誰かいようものなら、すぐにわかるはずだ。
しかし、青年の前には誰もいなかった。
ただ一人、壁の前に立ちながらブツブツとつぶやき続けている。
「あれは、病気ですか?」
A氏は隣にいたT氏に尋ねた。
医者のような出で立ちをした白衣を着た男だった。
T氏は答える。
「いいや、あれは正常な人間だよ」
「正常な人間? どう見ても異常に見えますけど」
「君にはそう見えるかね」
意味深な言葉であった。
それではまるでA氏の方が異常だと言っているようなものではないか。
「どういう意味ですか?」
A氏は少し苛立ちながら尋ねた。
「いいや、気にしないでくれたまえ」
コホン、とT氏は咳をする。
おかしい。
この男は何かを隠している。
A氏はそう思った。
ボソボソボソ……。
今度は女性が何かをつぶやいていた。
なんだか、ひどく怒っているようだ。
その顔はどこか疲れ切っているように見えた。
彼女もまた、ウロウロとその場を行ったり来たりしながらつぶやいていた。
どう見ても、変だ。
あの異常さは青年の比ではない。
「あの人、絶対病気でしょう!? 助けないと」
「いや、彼女も正常だよ。少し、疲れ切ってはいるがね。それよりも見たまえ」
T氏の指差す先、そこには数人の人間が顔を見合わせることなくつぶやき続けている。
お互いに会話をしているわけではない。
各々が、各々つぶやいているのだ。
年齢もバラバラ、性別もバラバラ。
若い女もいれば年老いた男もいた。
しかし、彼らに共通して言えることは、それぞれがボソボソと何かをつぶやいている、ということだった。
中には、外国人らしき人間もいた。
何をしゃべっているのか、さっぱりわからない。
外国語なのかなんなのか、A氏には理解できない言葉だった。
「これは一体……」
彼の頭の中は疑問でいっぱいだった。
これがすべて正常な人間だというのか。
「異常に見えるかね?」
T氏の質問にA氏は答える。
「異常、というより異質に見えますね。まるでどこか別の世界のようで」
ふふふ、とT氏は笑う。
「まあ、当たらずとも遠からずといったところかな」
「わけを聞かせてください。どうして僕をいきなりこんな町中に連れてきたのです?」
「言えばきっと怒るだろう」
「怒る? 怒るようなことなのですか?」
ピクリ、とA氏の眉が動く。
T氏はたいして気にも留めずに言った。
「実は、ここは未来の日本なのだ」
「未来の日本?」
「過去の人間が未来へ来てどういう反応を示すのか、それを確かめたかったのだ」
T氏の言葉に、なるほどとA氏は思った。
この男は自分が未来の人間を見てどう思うか、それを調べたかったのだ。
確かに激怒しそうな理由ではある。
しかし、同時に興味深かった。
こうして未来の人間を目の当たりにできるのだから、僥倖といってもいいだろう。
「で、どうだね? 未来の人間を見た感想は」
「そうですね、ちょっと不気味です」
「ブツブツとつぶやいているからかね?」
「ええ。一体彼らは何をつぶやいているんですか?」
「これで彼らの声を聞いてみたまえ」
T氏はマイクを取り出すと、そこにつなげられたイヤホンをA氏の耳に差し込んだ。
とたんに、彼らの言葉が耳に入ってくる。
『でよー、そいつがよー、オレのバイト先でよー、いろいろとやらかしてくれやがったんだよ』
青年の声のようだ。
何をつぶやいているのか。
イヤホンから流れてくる言葉を聞いても内容がよくわからない。
『まったく、いつまで待たせるのよ! こっちは仕事で疲れてるのよ? 早く迎えに来なさいよ』
これは女性の声。表情と同じでひどく怒っている。
『これはこれは、〇×社の恩田様。先日はどうも……』
『ママー? 今日帰り遅くなるから。夕飯いらないよ』
『よしお、おま、今どこいるんだよ』
様々な人の声がイヤホンから流れてくる。
ただし、相手の声はまったく聞こえない。
ただただ、しゃべっている本人の声しか聞こえない。
「これはいったい……」
A氏が不審な顔で尋ねると、T氏はその反応に満足したかのように微笑んだ。
「これが、21世紀初頭の日本の現状だよ。携帯電話というものが発明され、いたるところでこのように外で一人の会話が繰り広げられているのだ。もっとも、30年前の日本から連れてきた君には一人でつぶやいているように見えるかもしれんがね」
お読みいただきありがとうございました。