遅刻
男は焦っていた。
セットしていたはずの目覚まし時計。それが今日に限って鳴らなかったのである。
とはいえ男が焦っていたのは、仕事のためではない。
大事なデートの約束。それに遅れそうだったためだ。
「なんで今日に限って……」
男にとって、今日は念願の彼女との初デートだった。
もちろん、まだ二人とも恋人同士にはいたっていない。
「今度の日曜日、遊びに行きませんか」
という男の誘いに、女が了承しただけの関係である。
そうは言っても、男のほうは気合十分だった。
近隣のあらゆるデートスポットを片っ端から調べ、評判や人の混み具合、状況等を細かくチェックした。
天気予報や台風情報はおろか、地域ごとのイベント情報まで調べぬいた。
そして万全を期すため、時系列ごとのデートプランまで用意した。
「ここまで準備すれば問題ないだろう」
その安心感が災いしたようだ。
目が覚めた時点で目覚まし時計の針が深夜2時で止まり、そこから1秒たりとも動いていなかった。
時計が止まっている。
そう気づいたときの男の焦りは尋常ではなかった。
午前10時の待ち合わせなのに、目が覚めた時はすでに9時50分だった。
到底、間に合いそうもなかった。
男はすぐに彼女に電話を入れた。
しかし、ここでも予期せぬ出来事が起きていた。
男の持っているスマホの電池が切れていたのだ。
夜中にたっぷりと充電していたつもりだったのだが、どうやらコードの線が抜けていたらしい。
つまりスマホは使えない。
男は焦りながら家を飛び出した。
精一杯オシャレをして家を出るつもりが、よれよれのジーンズに白Tシャツというまるで近所のコンビニにでも行くかのような格好だった。
それでも、遅れるよりはいい。
いや、遅刻は確定済みだが、それでも1分でも1秒でも早く着かなければという想いがあった。
しかし、ここでも予想外の出来事が起こってしまった。
走っている途中で、大きな荷物を抱えたおばあさんがヨタヨタと歩いているところに遭遇してしまったのである。
いつもならそこで「大丈夫ですか」と声をかけるところだが、今は非常事態だ。とても構ってはいられなかった。
そのまま通り過ぎようとしたが、やはり見て見ぬふりはできず男は声をかけた。
「大丈夫ですか?」
おばあさんはとてもつらそうな顔をしていた。
どう見ても大丈夫そうではなかった。
「お荷物、お運びしましょうか?」
男の言葉におばあさんは
「ああ、すまないねえ」
と言って荷物を手渡す。
あまり重くはなかったが、それでも年寄りにはかなりの重量があった。
男はそのままおばあさんの後をついて歩き、荷物を運んであげた。
「どうもありがとう。助かったわ」
おばあさんに礼を言われると男は「どういたしまして」と微笑んで先を急いだ。
これで時間を20分以上ロスしていたが、仕方のないことだと割り切った。
しかし、今度は道端で苦しそうにうめいている老人に出くわした。
地べたにうずくまって「ううう」とうなっている。
「大丈夫ですか?」
男は急ぎながらも声をかけずにはいられなかった。
「どこか苦しいのですか?」
老人は苦しそうな顔で「ううう」とうなるだけである。
すぐに男は近くを歩いている人に声をかけて救急車を呼んでもらった。
「しばらく我慢してくださいね。今、救急車を呼んでもらいましたから」
男はそう言って老人を励ましながら救急車の到着を待った。
ほどなくして、けたたましいサイレンの音とともに救急車が到着した。
「こっちです!」
男が手を振り、救急隊員に合図をする。
すぐに救急隊員は男のもとに駆けより、老人を担架に乗せてそのまま病院へと搬送していった。
男は救急車に運ばれていく老人を見送ると、再び走り出した。
とうに時刻は待ち合わせの10時よりも1時間以上遅れている。
連絡もとれず、女はきっと途方に暮れていることだろう。
いや、もしかしたら怒って帰ってしまったかもしれない。
不安にさいなまれながらも、男は全速力で駆けた。
しかしその不安は的中した。
待ち合わせ場所にたどりつくとすでに女の姿はなかった。
「ああ、やっぱりダメだったか……」
そう言ってがっくりと膝をつく。
思えば、当然のことだ。男は女とはそれほど親しくはない。会社同士の付き合いであいさつする程度の関係だった。男の方が一方的に惚れこんで、なんとかデートまでこぎつけただけなのである。
1時間以上も遅れてなんの音沙汰もない男を待つ女など、いるはずもない。
誰もいない公園の真ん中で、男は膝をつきながら「はあ」とため息をついた。
「しょせん、彼女とは縁がなかったんだな」
そう思うことにした。
朝から不遇の連続だが、そう思わなければやりきれない。
男はあきらめて立ちあがると、くるりと背を向けて元来た道を引き返そうとした。
その矢先、視線の先に全速力で走ってくる女の姿が見えた。
黒いチノパンに白いチュニックを着た女性。
長い黒髪をふり乱し、一心不乱に駆けて来る。
男は一目でそれが待ち合わせの彼女だと気が付いた。
「ま、まさか……」
ふと、男は時計を見る。
11時15分。
待ち合わせ予定時刻よりも1時間15分も遅れている。
自分と同じく彼女もまた遅刻をしてしまったのか。
そう思う男の耳に、女の声が響き渡る。
「ごめん、遅れちゃって!」
駆けつけるなり、女は手をついて謝った。
「ほんと、ごめん! 実は、朝から目覚まし時計が電池切れで止まっちゃってて……。急いで電話をしようとしたんだけど、スマホの充電器がコンセントから抜け落ちてて。で、急いで家を出たんだけど大きな荷物を抱えたおばあさんに遭遇しちゃって。その荷物を運んであげたら、今度は道端で苦しそうにうずくまるおじいさんに会っちゃって救急車が来るまでずっとそばについててあげてたの。本当にごめんなさい。ずいぶん、待ったでしょう?」
お読みいただきありがとうございました。




