完全無欠のパーフェクトフード 2-7
三日目も同様に避けられた。――運よく、シルヴィア・アントワーヌとは再度の会話を持てたけれど、特にジーンの話はしなかった。お互いに、わかっていたから。僕には僕の立ち向かうべきものがあるように、シルヴィアにはシルヴィアの立ち向かうべきものがある。僕が、兄として向き合ってこなかったように――彼女もまた、母として向き合ってこなかったことの清算をしなければならない。どちらかが、ということはない。どちらもが、ジーンに向き合うときが来ているのだと。
その代わり、旅先での話をいくつかした。手短に、ではあったけれど――大陸の西端で見た大瀑布の話や、南の大陸にある様々な地域、このあたりにはいない珍しい動物の話などを。シルヴィアは興味深そうに聞いてくれた。大臣の座を退いて家督を譲ってから温和になったとサニーさんが言っていたけれど、むしろこれが本来の母なのかもしれないと、ふと思った。ノブレス・オブリージュ。フランス語だ。高貴なるものには社会に果たすべき義務がある。……フランスはこの世界にはないけれど。宰相の立場を退いたシルヴィア・アントワーヌは、その義務を立派に果たした。だからこそ、穏やかに世界の話を楽しむシルヴィアこそが、ナチュラルな状態なのかもしれないと――そんなことを思った。
――そして、動きがあったのは、四日目だった。
「来ましたよ、ジーンさん」
晩餐会終了間際、ジーン探しを諦めて屋台に戻った僕を出迎えたのは、ダフネのそんな言葉だった。
「……はい?」
「シェフがいない間に、スッと。少し、お話をしました」
「え? ……え?」
僕を避けて、僕の屋台に来る――しかし、なるほど道理ではある。僕がジーンを探して庭園とホールをうろついている間、僕は屋台にはいないわけだから、僕を避けるにはもってこいと言えなくもない。
「どんな話を……したの?」
「料理の話を。小さいころ、ジーン様によく作ってあげたそうですね。プリンや、プリン液に漬けたパンを焼いたもの――『名無し』の原型の料理を」
「……うん。何度か、ね」
「とても美味しかったと、ジーン様は言っていました。私の焼いた『名無し』も美味しいと言ってくれました。伝え聞いていた通りの、穏やかで優しい方ですね」
ダフネは僕を見て、言った。どうせなら非難するような目で見てくれればいいのに、いつもと変わらない、大きな瞳で。
「シェフ。明日も来るそうです。――今度は私と話すためではなく、あなたと話すために」
立ち向かう覚悟ができたのだ。ジーンも。――僕と同じように。
明日は晩餐会五日目――約束の日まで、残り一週間。
五日目、僕は屋台から離れず、『名無し』を提供しながらジーンを待った。最後の五時間を、鉄板で細かい気泡を生むバターと、黄色く色づいたバンズと、カラメル色のリンゴと、それからとても優秀な助手と共に過ごした。
ダフネはジーンが来ると言った。――来ないかもしれない、と思った。このままジーンが逃げ切れば、僕はジーンに対する交渉の機会を失い、一週間後に隣国へと引きずられていくだろう。僕を政略結婚させるのが目的なら、そうするのが一番賢いやり方だ。
だけど、僕は待った。妹が来ると言ったのだ――信じる理由はそれだけで十分。
果たして――五時間が経過し。
五日間にわたる晩餐会が終わった。貴族の歓声。魔法で打ち上げられた火球が夜空に花を咲かせている。祝いの席を締めくくるにふさわしい、見事な花火だ。
――ジーンは来なかった。
「……シェフ。あの……」
ダフネがおずおずと言う。さっさと自分の屋台を片付け終えたハーマンが、腕を組んでこちらを見ている。フィッシュフライの屋台はもう門へと向かって動き出していた。僕は目を閉じ、首をぐるっとまわす。この五日間、気が張っていたからだろう――こきりと軽い音が鳴った。だからといって腹の底にある重たい気持ちが軽くなるわけではないけれど、ひとつの区切りにはなった。
「引き上げようか」
努めて、笑ってみせる。
「シェフ……!?」
「仕方ないよ。だって、来なかったんだもの。――ダフネさん、手伝ってくれてありがとうね」
「ですが――!」
「もう機会がまったくのゼロってわけじゃない。一週間後、スラックマンが迎えの馬車を寄越すタイミングなら、さすがに直接ジーンと話せると思うんだ。それに賭けてみようと思う」
自分でもわかっている。それは最後の最後で、あまりにも望み薄な手段であると。だけど、こうやって貴族の晩餐会に潜り込み、シルヴィアと会話できただけでも、すでに望外の成果なのだ。仕方ない、と受け入れて先に進むべきだろう。鉄板に接続された炎熱符に触れ、その機能を解除し――。
「待ってください」
しかし、その手を掴まれ、止められる。なにを、と思って少女を見ると、ダフネが――珍しく笑っている。笑うと八重歯が見えて、幼く見える――いや、そもそも僕より十歳も年下なのだ。幼くい笑顔と感じるのも当たり前だ。
「最後にもうひとつ、焼きましょう。――お客さんです」
言われて、顔を上げる。ホールの扉に、こちらを見ている女性がいる。彼女はゆっくりと一歩ずつ、迷いを振り払うように歩いてくる。
決意に満ちた顔をしている。立ち向かう者の瞳をしている。
やがて、その女性は屋台の前にたどり着いた。少し潤んだ瞳は、彼女もまたどうしようもない気持ちでいっぱいなのだと示していた。
「あの」
震える声だ。幼いころから何度も聞いてきた声だ。
「ひとつ、くださいませんか?」
「――ご注文ありがとうございます」
僕は一礼し、鉄板にバターを落とす。じう、と熱がバターを溶かす。バンズを焼いて、リンゴを挟んで、紙に包む。ダフネがそれをジーンに手渡した。ジーンは丸い包みを両手で抱きしめるように胸元に当てて、瞳を閉じて俯いた。
僕は黙って、待っていた。ややあって、彼女は僕を正面から見つめ、言った。
「……お話が、あります」
「うん。僕も妹に大事な話がある。時間をもらってもいいかな?」
「ええ。そのために来ましたの。――お兄様と話すために」
屋台の内側と外側。僕らは鉄板を挟んで向き合った。兄妹として。家族として。
「……婚約したんだね」
「ええ。いい子ですの。素直で、かわいくて、聡い子です。歳の差はありますけれど……早いうちに子を数人生むことができれば、そのうちのだれかにアントワーヌ家の家督を継がせることができます。これで我が血筋も安泰ですの」
「そっか。それなら、どうして僕を……隣国に?」
ジーンは疲れた顔で笑った。
「どうして、ですか。では、逆にこちらからお聞きしますの。お兄様はどうして――家を出たのですか」
「それは――」
答えようとしたけれど、答えが出てくるわけもない。僕は出て行ったのではなくて、ただ逃げ出しただけなのだ。家族という現実から。
「どうしてです。どうして、わたくしを置いていったのです。どうして、わたくしが当主なのですか。どうして、お兄様は自由なのですか。どうして――わたくしは自由ではないのですか」
どろり、と言葉がにじみ出る。僕はなにも言えなかった。それは僕が目を背けていたものすべてだから。ノブレス・オブリージュ。貴族には貴族であるというだけで社会に対する責任が伴う。――ああ、そうか。僕にもあったんだ。果たすべき義務が。
「どうしてです。なぜです。わたくしだって世界が見たい。わたくしだって、自由に生きてみたい。なのに――どうしてです? お兄様は、そんな自由があるとわたくしに見せたのですか。五年前、お兄様に再会したとき、どうして……お兄様はプリムさんと共にいたのですか。どうしてわたくしの横には――誰もいないのですか」
どうして。どうして。どうして。ぼろぼろと、そんな言葉ばかりがあふれ出て、ついには涙まで流れ出る。抑えていたジーンの思いが、こじ開けられたところから流れていく。傷口から血が毀れるみたいに。
「わかっています。わかっているんです。わたくしにはプリムさんはいない。わたくしにそんな自由はない。わたくしは――責務を果たします。だけど、どうして、どうして――」
目を背けて逃げ出したいくらい、ジーンの言葉は痛々しく刺さる。僕に――だけど僕以上に、ジーン自身の心の柔らかい所をぐさぐさと突き刺しているのだと、彼女の痛々しい涙を見ればわかる。
彼女は自分自身を傷つけている。ほかならぬ、僕のせいで……僕が傷つけたも同然だ。
――白状しよう。
こんなこと、思うべきではないのだろうけれど――僕は勘当されてアントワーヌ家から解き放たれたとき。
楽になったと、感じた。
重荷から解き放たれた――これで楽になったな、なんて。長男としての期待とか、貴族としての重責とか、そういう巨大なものから逃れられてよかった、と。
そのあと、その大きくて苦しい責任の塊をだれが背負わされるかなんて、ひとつも考えずに。
「どうして――お兄様はそんなにきらきらしているのです……!? どうして、お兄様は――世界には! そんなきらきらがあるのだと、わたくしに見せてしまわれたのですか……?」
喉奥から空気が漏れる。言葉にならなかった思い達が、冷たい夜の庭園に溶けていく。
知らなければこんな思いをすることはなかったのに――と。ジーンはそう言っているのだ。貴族として生き、貴族として死ぬ。それが貴族に生まれた義務で、それがすべてでよかった――そのはずなのに。
僕は――悪い兄だ。
「――ごめん、ジーン。ごめんなさい。僕が悪い。僕が――ぜんぶ、悪い」
屋台の鉄板を挟んで、僕はようやく頭を下げた。申し訳なさで胸が張り裂けそうだった――いっそ張り裂けて死んでしまえばいいのに。僕がジーンにした仕打ちを思えば、それでも足りないくらいだ。
――静かな庭園に、ただすすり泣く音だけが響いていた。
泣き終えて落ち着いたのだろう。ジーンは申し訳なさそうにハンカチで目を抑えている。
「申し訳ありません。……恥ずかしい所をお見せしました」
「いいよ。申し訳ないと思うべきは僕のほうだから」
庭園のベンチに並んで座り、一緒に『名無し』を持っている。一口食べれば、フレンチトースト部分はとろとろふわふわで甘いけれど、リンゴにまとわせたカラメルが少しビターなアクセントだ。
「……ジーンには、魂胆とか目的とか、そういうのなかったんだね」
苦笑する。ダフネやハーマンの言うとおりだった。妹は、僕があまりにも彼女にばかり押し付けるものだから、拗ねてしまったのだ。――つまりは、僕のせい。
「許してほしい――なんて、虫が良すぎる話だけど。どうやったら、許してくれる?」
「……わかりません」
蚊の鳴くような声で、ジーンは言った。
「わたくし、お兄様のことが好きです。プリムさんのことも好き。彼女、とてもかわいいのです。お二人には幸せになってほしいと思っていましたの――いまでも思っていますの」
でも、とジーンは一言置いた。苦しそうに眉根を寄せて、胸を抑える。
「ダメなんです。いけないんです。そう思っているのは嘘じゃないのに、わたくしの中には――どうしてもそれを許せないわたくしがいるんですの。お兄様ばかりきらきらしてずるいと、そう思ってしまうわたくしが。他人に嫉妬してしまう、わたくしが」
それはきっと、だれしもがそう。むしろ、ジーンはずっと我慢してきたのだ。純真であろうと。穏やかであろうと。貴族として、アントワーヌ家に連なるものとして、そしてなにより人として恥ずかしくない己であろうと。それこそ――そう、母譲りの鉄の心で。
だけど、僕が帰ってきて、プリムと一緒に生活をしていて――ジーンの心は、彼女にすらどうしようもない思いを抑えきれなくなった。
「……食べない?」
手に持ったままの『名無し』の包みを示す。ジーンは目を泳がせた。
「たまご、好きだったよね」
『名無し』を勧めたのは、関係改善の一助になるかも、という下心からだ。それに、好物を食べれば、少し落ち着くかも……という打算。
だけど。
「……しないんです」
やはり消え入るような声で、ジーンが言った。
「しないって……なにが?」
妹は疲れ果てた目で僕を見た。僕と同じ、真っ黒な瞳。――覗き込んだ瞬間に、吸い込まれてしまいそうな、底なしの黒。この期に及んでようやく、僕は彼女の絶望が僕の想定をはるかに超えていたのだと、気づいた。
「味が……しなくなってしまったんです。なにを食べても。なにを飲んでも。砂を噛んでいるようで」
息を呑む。味覚を失う――いろいろな言葉が脳内を駆け巡る。ストレス性とか、舌癌とか、そういう聞きかじった知識たちが頭の中で踊り狂ってぐちゃぐちゃになる。
「そんな……! 症状はいつから出てるのっ? お医者さんにはっ?」
「症状は、お兄様が帰ってきた一ヶ月ほど前から、です。お医者様は、体に異常はないと言ってくれておりまの。――心の問題だろう、と」
「……それじゃ、こないだお店に来てくれたときには、もう」
「はい。いつも、美味しく頂けていたハンバーガーも……なんの味もしませんでした。噛んでも、噛んでも――一切、感じなかったんです」
ぜんぜん気づかなかった――けれど、そうだ。あのときの彼女は、ハンバーガーの感想をこう述べた。
『バンズは焼いてカリっとしていますし、中はもちもちの美味しいバンズですの。パティも噛むと肉汁が溢れてきますし、スパイスソースの風味が刺激的。』
どれも――味そのものについては、語っていない。
そして、おそらく彼女はそこで絶望した。たぶん、僕に対して思うところはずっとあったから、シャルワ家との婚約の打診とか、そういうものを手元に置いて、考えていたのだと思う。僕が帰ってきたらどうしてやろうか、と。現実味のない、行うつもりもない、架空の計画だったのだろう。
だったはずなのに――帰ってきた僕は、彼女の心労にもストレスにも気づかず、どころか挨拶すらせずに放置して。味覚を失いながらも、穏やかであろうと、純真であろうとふるまうジーンに、僕は『実家に話がある』と告げた。彼女はそこでさらに絶望したのだ。僕がプリムに結婚を申し込むつもりだと感づいて、そのきらきらを感じて――家に帰ってから、いてもたってもいられず、ジーンは架空の計画を現実へとぶちまけた。きらきらを、許せなくて。――無責任な僕を許せなくて。
ジーンは『名無し』の包みを膝に置くと、持っていた小さなポーチを開けて、中から四角いものを取り出した。紙を剥がすと、中から茶色いバーが顔をのぞかせる。
「ナラム印のソーマバー……最近は三食、こればかり食べていますの。味がしないなら、せめて栄養だけでも、と思いまして」
くす、と小さく笑う。
「健康的にはむしろ調子がよくなったくらいです。余計なものを食べず、水とソーマバーだけの生活ですわ」
「……そっか。なら、安心した。ソーマは完璧だから」
「安定して手に入らないことだけが、少し不満ですけれどね。冒険者の方が南方から持ち帰ったものを、なんとか購入させていただいているんですけれど」
「ソーマも、味を感じない?」
「ええ。土塊を噛んでいるようです。栄養のある、土塊を」
ソーマは……あの豆は、本当に完全な食事だ。欠点はない――そういう風にデザインされたチートな豆。ソーマには身体機能を整え、多少の病なら直してしまう効力がある――それをもってしても、一切の味を感じないというのなら、やはり。
原因は、僕なのだろう。
――ジーンは言葉を続ける。
「だから、でしょうね。こんなことを考えてしまうのは。ねえ、お兄様――教えてくださいな」
ジーンは目を落とし、手元にあるふたつの食べものを見比べた。完璧な栄養食、不思議な豆の粉と水を練って焼いたソーマバーと、僕とプリムが力をあわせて作った、リンゴのカラメル煮を挟んだフレンチトースト・ハンバーガー。
どちらも。
いまのジーン・アントワーヌにとっては等しく味のしない食べ物。
「美味しい料理って、きらきらしていますの。わたくしも大好きですの――大好きでしたの。でも、いまはわからないのです。味も――美味しさも。わからなくなってしまいましたの。お兄様、美味しいとはなんですの? なんのためにあるのです?」
――……。ジーンの言葉が、耳朶を叩き、染み入ってくる。じくじくと、毒が染み込むみたいに、痛みを伴いながら。
「食事とは、生きるために必要な栄養とエネルギーを得るための行為でしょう? でも、それなら必要以上に美味しくしようとするのは、おかしな話ではありませんか? わたくし、わかりませんの。だって、ソーマがあれば――これと水さえあれば、生きることが出来ますのに。みな等しく砂を噛んで生きていけるのに、どうしてみんな『美味しい』などという不確かなものを追い求めるのですか。どうして神はわたくしたちに『美味しい』なんてものを与えてしまったのですか。最初からなにも感じなければ――こんな思いをしなくて済んだのに」
ジーンは僕を見た。その黒い瞳で、まっすぐに見た。
「教えてください、お兄様。『美味しい』とはなんなのですか?」
僕は答えられない。答えようなら、いくらでもある。
味成分が味覚受容体を刺激して味を感じる。体に必要なものを舌で判断できるように進化してきた結果だ。例えば甘味があるものはエネルギーがあるとか、塩味の強いものはミネラルが豊富で――つまり、ジーンにはなんの答えにもならない知識ばかりが、僕の中にはある。
ジーンは目を逸らし、空を仰いだ。帝都は星空がよく見える。冷たい光をまとった星々が、僕らを見下ろしていた。
「……わたくしに、教えてくださいな――お兄様とプリムさんが、きらきらしている理由を」
それはつまり、彼女なりの宣戦布告だったのだと気づいたのは、彼女がホールの中へ消えてからだ。
僕はしばらく立ち尽くしていた。屋敷の衛士さんに怒鳴られなければ、何時間でもあそこに突っ立っていたかもしれない。
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たくさん売れると続きが書けます。




