完全無欠のパーフェクトフード 2-4
フレンチは専門外である。この世界にフランスはないからね――もっとも、僕が作ろうとしているものは、別にフランス固有の料理というわけではない。
フレンチトースト。
パンを卵液に浸して焼く――ただそれだけの単純な料理だ。
「古くなったパンを牛乳や卵液に浸して柔らかくして焼いて食べる、というのはよくある話ですが、家でできるそれをわざわざ買う人がいるでしょうか」
ダフネは不思議そうに言う。たしかに帝国でも、フレンチトースト状のものは家庭でそうやって食べられている。だが、しかし。スイーツとして昇華されたフレンチトーストはほとんど別物といっても過言ではない。
「軽く、作ってみようか」
温めた牛乳に砂糖を溶かしいれ、溶き卵とあわせてからザルで濾す。ようするにプリン液だ。そのプリン液に、上下半分に切ったバンズの切断面を浸す。卵液をしっかりと吸わせるのだ。今回は時間にして十分ほど。本当はもっと時間をかけてじっくり吸わせたほうがいいんだけど、今回は試作なので手早く済ます。ジェビィ氏のバンズは、皮はパリッと薄く軽やかな歯ごたえで、中はもっちりとしつつも決して重たくは感じない最高の配分。噛みしめればほのかな甘みと小麦の風味が感じられる、最高のパンだ。きめ細やかでしっかりしているから、卵液に軽く浸した程度では形が崩れない。
「これをバターで焼く」
焼くときのコツは、バターが少し泡立つ程度の弱火であること。じっくりと火を通せば、卵液がしっとりしたまま固まって、フレンチトーストがとろりとした食感になる――さながらプリンのように。
切断面を下にして、焼き目がつくまで焼いたあと、皮側もカリっと焼く。上下でふたつのフレンチトーストが出来上がった。切り分けて三人で食べる――二枚を三人で分けるのは難しい。具体的には僕らの中にひとり、二枚全部食べようとしているんじゃないか、というくらい攻勢を仕掛けてくる腹ペコ赤毛美女がいるので、非常に難しい。
「どう?」
「美味しいですね。バターの香りがいいです。じっくりと低温で――なるほど。勉強になります」
冷静に感想を言うダフネ。一方で、むぐむぐと幸せそうな微笑みを湛える赤毛美女(天使か?)なプリムは、ごくんと飲み込んだあと、まじめな顔で「もうひと捻り欲しいかも」と言った。
「めちゃくちゃ美味しいけど、味が単調になっちゃってる。とろふわで甘いお菓子はウケると思うんだけど、もうちょっとインパクトがあれば、もっと屋台向けだよね。卵液がゆるいと焼いても液状になってこぼれちゃうと思うから、牛乳少なめにして硬めにするほうがいいかも。あとさ」
プリムは両手を合わせて、地面と平行に傾けた。
「せっかくバンズを使うんだから、なにか挟みたい――と思わない? どうだろ」
たしかにそうだ。――以前も同じようなのを作ったことがあるけれど、そのときは砂糖はかなり抑えた卵液を使った。パティをのせて、マスタードとはちみつのソースをかけて食べたからだ。この組み合わせ、甘じょっぱくて意外と美味しいのである。しかし、今回はできれば徹頭徹尾スイーツでいきたい。僕の知る限り、甘いものを出す屋台は帝都にはない――その利点を活かさない理由はないだろう。
「うーん……味の組み立て的には、アイスクリームがいいんだけど、アイスは溶けるし食べ歩くには厄介だし、魔冷庫があるとはいえ仕込みも面倒だし……やっぱりフルーツかな。旬のフルーツなら仕入れも安定してるだろうし」
「そうなると、トーアさんにも話聞いてみたいね。あたし、行ってこようか?」
「いや、仕込みがあるから、詳しい話は明日にしよう」
そこでダフネがすっと手を上げた。
「私が話を通してきましょうか。トーアさんに「ダイナーのお二人から相談があるそうです」と」
「え? いや、そんな――悪いよ」
「いえ、お二人の話を聞いていると、どんなものが出来上がるのか気になりまして。私も勉強になりますし、ぜひ」
「……ありがとう、ダフネちゃん!」
「わぷ」
ぎゅう、とプリムがダフネに抱き着いた。身長差で胸が顔に当たって羨まし――苦しそうだ。プリムの肩を叩いて、「窒息しちゃうよ」と苦笑する。解放されたダフネは深く呼吸をして、プリムを見た。
「私もそれくらい欲しいです。どうやったら育ちますか?」
なんていう質問するんだキミは。
「あたしダフネちゃんと同じ年のころにはもう大きかったからわかんない」
なんていう回答するんだキミも。いや確かに大きかったけれども。いまはもっと大きいけれども。
「……スゥー……ハァー……。そうですか」
ダフネがものすごく深い呼吸をして、なんらかの昂った感情を沈めた。それから僕を見て、「どうやって成長させたんですか?」と聞いた。
「……なんで僕に聞くの?」
「やはり愛でしょうか。それとも特殊な肉体的接触などを施されていたのですか?」
「だからなんで僕に聞くのっ!?」
「いえ、この店で起こる不可解なことはだいたいミスター・カリムが原因なので」
「そんなことないよ!」
「マリウス、そんなことないことはないよ。そんなことあるよ。あたしの胸もよくよく考えてみたら、ここでお世話になるようになってからものすごく成長したもん」
「栄養状態が改善して一気に成長した――っていうのは、たしかにあると思うけどさ。でも僕のせいだってわけじゃ――ダフネさん? え、なにその顔……」
少女は表情を崩して、ものすごい半目で僕とプリムを見ている。口も『へ』の形になっている。
「私、その……身長の話をしていたのですが」
「「……スゥー……ハァー……。そうですか」」
バカは二人そろってものすごく深い呼吸をして、なんらかの昂った感情を沈めた。めちゃくちゃ恥ずかしい。
屋台の完成は二日後だった。思っていたよりもずっと早い。
「ベースはできてるからな。あとは積む設備と器具の問題だが、魔冷庫と鉄板だろ。妙な設備が必要ないなら、有り合わせの在庫を組み立てればそれなりになる。鉄板も小型でいいってんなら、まあ二日もありゃ余裕だな。装飾もほとんどねえシンプルな白塗りにしたし」
テックさんは事も無げにそういったが、彼の会社の若い衆ともども、全員目の下にクマがあった。無理してくれたんだろう。
トーアさんもそうだ。
「旬ならリンゴ……だな。おすすめの品種がある。酸味は強いが、甘味もある。総じて味が濃く、ハズレが少ない。――箱をダース単位で取り置きしておこう。テックのようにタダで、とはいかんが――多少はサービスしようじゃないか」
この街の人たちには、本当に頭が上がらない。
五年前は商人円街のために、と力をあわせた。今回は大義もなにもない。ただ、僕が困っているだけなのだ。このままでは意中の人と添い遂げられない――と。それを見たひとたちが「それなら、できる範囲で手伝うよ」と笑って手を差し伸べてくれる。できる範囲で、なんて言いつつも、損を背負い込んで僕らを後押ししてくれる。
プリムは言った。
「――いつだか、ハーマンが兄貴ぶってる、みたいな話をしたけどさ。あたし、家族いないから。ハーマンだけじゃなくて、仲良くしてくれるこの街のみんなが家族みたいなもの……なんだよね。だから、あたし、すごく嬉しいんだ」
笑う。
「家族にさ。幸せになれよ、って。背中を押されてるんだ。それが、すごくすごく、嬉しい」
テックさんの肉屋の前で、プリムは拳を上げた。時刻は昼営業後。夜営業までの時間、この屋台を貴族円街に持って行って、営業する。真っ白に塗り上げられた車体は目立つけれど、装飾はほとんどなく、看板もない。いろいろ考えたけれど、準備する時間もないし、それならいっそ名前のない屋台のほうが話題になるかもしれない、なんて打算からだった。
僕も右の拳を作って、プリムの拳に軽くぶつける。
「行ってきます。――夜の仕込み、お願いね」
「行ってらっしゃい。――任せて、マリウス」
ちなみに僕は付け髭と眼鏡と帽子で変装をして、屋台はテックさんの手のもの――という風を装っている。
理由はふたつ。ダイナーに屋台を置く場所がない、ということと――僕がそれなりに有名だということ。マリウス・カリムはマリウス・アントワーヌと同一人物で、最近勘当を解除された放蕩息子なのだと広く知られている。いくら屋台の審査が短時間とはいえ、そんな男を料理人としてシルヴィアがいる晩餐会には呼ばないだろう――なんとか騙す必要があった。ちなみに髭をつけた僕はなかなか悪くない気がしたので、自前で髭を伸ばすかどうかを検討していたところ、僕を見たテックさんが爆笑しやがった。プリムもちょっと笑いをこらえていた。似合ってると思うんだけどな、この髭。
ともかく、約束の日まで二週間と二日。レシピの確定、屋台初日の仕込みと準備に時間を取ったから、『屋台で勝負する』と決めた期間は残り一週間と二日になった。思えば、なんて心もとないプランなんだろう。『屋台を牽いて』『準備を含めて二週間で話題になって』『貴族の晩餐会に呼ばれて』『そこにいるかもわからないシルヴィア・アントワーヌに会い』『そこから政略結婚をひっくりかえす交渉をする』――なんて。こんな無謀な絵空事を、よくもまあここまで突き進めたものだ。無茶につきあってくれた街の人たちのためにも、なんとしても成果を出したいところである。
補助術符に力が通り、車輪が軽やかに回る。屋台が緩やかに動き出す。無茶も無謀も、五年前に経験した。あの頃はただの無鉄砲だったけれど、五年経って、僕のなにが変わったか。それをみんなに見せる機会が来たのだ、と思うと、屋台を牽く手に自然と力が入った。
勝算は――ある。
結論から言うと、望外の大勝利だった。
屋台を出して四日で、屋台にある貴族の密使がやってきて、翌日からの立食晩餐会に屋台を出してほしい、と言ってくれたのだ。連続で五日間、だ。驚くほど豪勢な立食晩餐会に呼ばれることになった――さる貴族の子息が十歳の誕生日を迎え、許嫁を決めたのだという。その誓約と許嫁の公式発表を記念して、五日間連続で様々な土地、様々な国から貴族や有力者を招き、ダンスと食事とその他もろもろの享楽に耽るのだとか。なんとも贅沢なことだ。慶事と見栄には金をかける、帝国貴族らしい晩餐会だね。
しかし、それほどの規模の立食晩餐会であれば、ほぼ間違いなくアントワーヌ家は招待されているはず。もしかすると、複数日にわたって参加するかもしれない。
「――というわけで、明日からの五日間、ダイナーの夜営業はプリムに任せて、僕は立食晩餐会に行く予定です。変装を続ければ、たぶん、それこそ知り合い以外にはバレない――といいんですけど」
「そこは安心していいだろう。キミの話はみんな知っているが……わざわざこの店まで来て顔を見ている者は、そうはいない。指名手配犯じゃないんだ、似顔絵が出回っているわけでもない。変な付け髭をしなくとも良かったかもしれないくらいだ」
サニーさんはほっと息を吐きながら、僕らの報告を聞いていた。例のごとく、営業終了後のダイナーだ。……そんなに変な髭かな? 自分では気に入ってるんだけど。
「キミならば――最後はいい終わり方になるだろうと思っている。ここからが本番だ。シルヴィア様に会えるといいね」
「ええ。会えなかったら、そのときはもう覚悟を決めて屋敷の衛士さんに戦いを挑むしかないですね」
勝ったら次のステージへ進める形式であることを信じて。なお相手は門を守るプロで、僕は料理のプロである。勝算はない。
「しかし――すさまじい早さでとんとん拍子に決まったな。それだけうまいものを出したということなのだろうが……どうかね」
サニーさんはいつもの顔で――つまりは食いしん坊の顔で――言った。
「私にも作ってくれないかい?」
「そう言うと思ってた!」
プリムがニコニコしながら仕込んだバンズを取り出す。上下に割ったバンズをプリン液に一晩浸したものを、バターを用いて鉄板で焼いて、りんごを挟んでから紙に包み、お客さんに提供する。値段は白銅貨五枚。けっこう切り詰めた値段だ。
店内なので、プリムは鉄板ではなくフライパンにバンズを置いた。多めのバターに細かい泡がふつふつと浮き出るくらいの火加減で、じっくりと焼いていく。さらに別のボウルに用意してあるリンゴを取り出す。芯を抜き、横向きにスライスするとリンゴはドーナツのようなリング型になる。そのリングに施した工夫が、今回のポイントでもあった。
「ずいぶんと茶色いな。それは……?」
「カラメルです。リンゴを赤ワインで煮て、水気を拭ってからカラメルでコーティングしたんです。面白いですよ」
リンゴのキャラメルリングをバンズに挟む。ほかにはなにも挟まない。ごくシンプルな料理で――けれど、そこには僕とプリムの工夫が詰め込まれている。
「こちらにもひとつ、いただけます?」
とカウンターに座っている神出鬼没の妖怪レイチェル・タイムがエールジョッキを掲げながら言った。
「アンタからは金とるぞ。――いや違う。論点はそこじゃない。レイチェル、アンタいつからそこにいた?」
「ずっといましたわよ? 気配や存在感を自在に操れると暗殺に役立ちますの。あなたもおぼえてみてはいかが?」
「暗殺の予定はねえよ」
プリムは無言で追加のフレンチトーストを準備し始めた。できあがりも早いので、提供まではすぐだ。
今回作ったフレンチトーストのハンバーガー(もはやトーストではない。なんて呼べばいいんだろう。フレンチバンズ?)は、特に名前を決めていなかったし、看板を掲げていなかったこともあって、お客さんからは『名無しのデザート』と呼ばれている。
「あら、素敵じゃないですの。名無しだなんて。そもそもが失われたパンと呼ばれていたものですからね。地球、ヨーロッパなどのパン食文化圏で古くから食べられてきた、硬くなったパンのことを失われたパンと呼び、そのパンをなんとか食べるために卵に浸して焼いた料理のことも同様に失われたパンと呼んだなんて、実にフランスらしいと思いませんこと?」
「え、フランスでもフレンチトーストって呼ばれてるんじゃないの?」
「フレンチもトーストも英語の発音ですわよ。英語でフランス風のトーストって意味ですわ」
レイチェルはバカを見る目で僕を見つつ、たおやかな指で『名無しのデザート』をつかみ、一口噛んだ。焼かれ、カリっとしたバンズの皮と、ふわとろ食感なプリン液に浸された部分。バンズの皮はトーストの皮よりも薄いけれど、風味は決して負けていないし、サクサクした歯触りはトーストにはないものだ。
サニーさんもかぶりついて、そして目を見開いた。
「おお……! これは……素晴らしい香りだな!」
「……うん、美味しいですわね。キャラメリゼしたリンゴのパリっとしたカラメル部分と、中のリンゴが素敵ですの。しかしながら、一番素晴らしいポイントは――ジョンソン様と同じく、香りですわね。厚めにコーティングされたカラメルを割ると香りがいっそう増す、というのは憎い工夫ですの」
そう。リンゴの赤ワイン煮には、隠し玉としてシナモンを加えてある。外側を覆うカラメルを歯でパリッと割ると、甘い香りがふわりと広がって、口の中で料理の印象をくっきりと強めるのだ。
「うむ。私は甘いものは得意ではないのだが……これは悪くないな。なるほど、これはたしかに流行る味だ」
サニーさんがぺろりとひとつを平らげる横で、レイチェルはじっと己のフレンチトーストを見つめていた。
「――覚えていらっしゃいます? カシ村でフレンチトーストをいただいたこと」
「おぼえてるよ。ハニーマスタードだろ?」
「ええ。あれも素敵でしたけれど、こちらもいいお味です。真似して売ろうかと思うくらい」
「それはやめてくれると助かるなぁ……」
特許とかないので、止める権利はない。レイチェルは例の笑みを浮かべて、「やるとしても晩餐会後ですわ」と言った。
「……ていうか、アンタ、今日はなにしに来たんだよ。また僕の苦しんでいる顔を見に来たのか?」
「ああ、そうでしたの。本題を忘れてしまうところでした。明日からの晩餐会、わたくしの教え子の屋台も行きますの。ですから――まあ、なんといいますか。よろしくやってくれると幸いですの」
「ハーマンが?」
意外――でもないな。あれだけ美味いカツサンドなら、呼ばれて当然だろう。
「ええ。少し情に厚すぎる部分がありますから、気にかけてやってくれると嬉しいですの」
情に厚いのは師匠も一緒みたいだな、と思ったけれど、藪蛇だと思ったので言わなかった。
「情に厚いのは師匠も一緒みたいだな」
プリムが言っちゃったよ。レイチェルは作り物の笑顔のまま、「はい」とうそぶいた。
「わたくし、情に厚いことで有名なんですのよ?」
よく言う――実際、部下からはそういう評価をされている女ではあるけれども。
「もちろん、対価はお支払いしますわ。今回はいいお話を持ってきましたの」
レイチェルはふと真面目な顔をした。
「本日、ゾト・ナラム様が到着いたしました。いまはわたくしの屋敷でお休みになられていますが――明日以降、あなたに会おうと躍起になることでしょう」
「グェ」
喉奥から変な音が出た。サニーさんが「面倒な……」と頭を抱え、プリムが半目で「ふぉーん」と鳴く。楽器かな?
「……ちなみに、この店に僕がいるって伝えました?」
「はい」
はいじゃねえんだ。はいじゃ。
「そこで提案ですの。取引いたしませんこと? わたくしのほうで、ゾト様をなんとかなだめて五日間待ってもらうようにしますの。いろいろと理由をつけて、屋敷から出さないよう気を配りますわ」
「……なにが望みだ?」
「先ほど言ったようにハーマンを気にかけていただく――というのが、ひとつ。もうひとつが、あなたが持つナラムの智者としての権利で、わたくしにソーマの輸入、販売を認めていただきたいのです」
……やっぱりそれか、と思った。ハッとした顔でサニーさんが僕を見ている。ことの重大さがわかっているのだろう。プリムは自分のぶんの『名無しのデザート』をいつの間にか作って食べながら、緊張した面持ちで僕らを見ている。ことが重大なのはなんとなーくわかっているけど、なにがどう重大なのかわかっていない感じだ。すごく安心する。料理関係は本当に優秀で成長しまくっているけれど、こういうところは変わってないんだなと。――あとでちゃんと説明するね。
「何度も言ってきたけれど、僕にはなにもできないよ。たしかに僕はあの地域で智者と認定されたけれど、あくまで客人学者――というか、客人料理人だったから。僕自身にソーマをどうこうする権力はない」
「……そうですの。残念ですわ――」
「でも」
僕は唇を少し湿らせて、なんと言うべきか悩む。レイチェル・タイムが決して悪人ではないということを、僕はもうわかっている。
こいつは根本的に弱者の味方なのだ。
それゆえに、慕われるだけの才覚と人情がある。だけど、悪人ではないにしても――悪役ではあるのだ。目的を為すためならば、自らを悪と任じられる女。貧民円街に雇用を生むために、ギルド一強だった商人円街の経済をぶっ潰し、一時とはいえギルド職員を路頭に迷わせるところまでやった女だ。実力は信用できるし、実績も信頼できる……でも安心はできない。そういう相手であると。
「……交渉権の橋渡しをするくらいなら、大丈夫――だと思う。ほんの口利きだから、効力はないけど、その……今回のことが片付いたら、ゾト様に直接会って、話をするよ。レイチェル・タイムのために、大精霊と交渉してみてくれないか――って」
「――ふむ」
斑髪を揺らして、傭兵女王は少し考え込んだ。ややあって、彼女はいつもの作り笑顔を浮かべた。いろいろなことを考えているのだろう。――いろいろなことを考えているのはわかるけれど、その『いろいろ』の中身は見当もつかない。僕もやはり、五年前から変わっていないところは変わっていないのだな、とぼんやり思った。
「いいですわ。その条件でお受けいたしましょう。成立ですわね」
手を差し出される。僕はその手を握った。
「――わたくしとあなたがこうやって握手していると、なんでしょう、続編で前作のヴィランが仲間になる展開っぽくなりますわね」
「この場合、どっちがヴィランだ? 僕か? アンタか?」
「両方ヴィランで侵略者ですわよ」
なるほど確かに――そうである。
詳しい話はとにかく立食晩餐会が終わってからにしよう、と決めてレイチェルが帰ったあと、サニーさんが眉をひそめて言った。
「……この五年間、ずいぶんと大きな活躍をしたようだな」
「成り行きで、ですが」
呻かれた。
「成り行きで智者とは……頭が痛いよ。しかし、いいのかね? ゾト・ナラム嬢を連れてきたのはレイチェル・タイムなのだろう? 彼女自身が持ってきた火種で彼女が得をする構造になってしまっているが」
「――あ。……い、いや、その、僕もけじめをつけるべきタイミングではあるわけですし、はい……」
「相変わらず流されやすい……キミが当主にならなくて、アントワーヌ家は助かったのかもしれないね」
それは皮肉ですか? しかしながら流されやすい僕が貴族の当主にならなくてよかったのは一切否定できないので、僕がうぐぐと唸っていると、プリムが首を傾げた。
「で、そのそふぃあってなんなの? 美味しい食べ物だっていうことはわかるんだけど」
なにもわかっていないことがよくわかった。
「ええと、なんだろう。要するに学者のことなんだけど……うーん、説明が難しいな。ナラム地域での智者っていうのは、氏族が認めた称号なんだ。なにかを研究し、その研究が認められると、智者になる……ていう」
「へぇー。え、じゃあマリウスはなにを認められたの? 料理?」
「料理」
それ以外で認められるものはなかなかない。
「なら納得だね」
「なにが納得なモノか」
サニーさんが唸った。
「伝聞でしか聞いていないが、ナラムの智者は氏族の元老院にも名を連ねる、政治家のようなものなのだろう? 料理の腕は私も大いに認めるが、帝国民が――それも貴族に連なるものが他国でそれほどの役職を得るなど……ほとんど内政干渉と言っていい。帝国政府にはちゃんと伝えてあるのかね?」
伝えてないです。――大変なことになるだろうなあ、と思ったから伝えなかったんだけど、それで正解だったと思う。
「悪用されたくないですし……それに、あくまで客人の智者ですから。権限は一切ないですよ。そもそも智者って役職じゃなくてただの称号ですし。智者が元老になるわけじゃなくて、智者として認められた人間が、いずれ相談役として元老に選ばれることもある……という感じで。あそこは文化が違うのでわかりにくいと思いますけど、貴族が政治をする帝国とはまた別の政治体制なので」
貴族階級が、つまり特権階級が存在しないのは特に大きい。巫女を擁する族長の一族は世襲制だが、特別な血筋といえばそれくらいだった。
「僕はあの地で智者の称号を贈られましたが、政治的な力はありません。さっきレイチェルに言ったように、多少の口利きが精一杯です」
「……そうか。いや、すまない。少し勘違いしていたようだ」
サニーさんは深く息を吐き、僕の目をまっすぐ見つめた。
「私と同じ勘違いをするものは多いだろう。隠せるならば、隠したほうがいい――と、キミも思っていたから、言わなかったのだね?」
「はい。ややこしくなるかな、と思って」
面倒を背負い込む甲斐性がなかったとも言える。
「では、そのまま黙っていなさい。賢明な判断だ。ただし――これから先、その情報が役に立つときは、必ず来る。いいかね? 手札を温存するために情報を伏せておくのと、面倒を嫌って黙っているのでは意味が違う。手札を切るべきときが来たら、迷わず切りなさい」
僕は黙ってうなずいた。――どんなときに切ればいいのか、想像もつかないけれど、サニーさんのいうことはもっともだ。それに、帝国貴族であるサニーさんは、本来僕を国益のために利用すべきなのだろうけれど、黙っていてくれるようだ。本当にありがたい。
「しかし、外様の智者であるキミに巫女が執心する……というのは、いささか裏を感じざるを得ないな。料理をした……とは言うが、いったいなにを作ったのだ?」
「まあいろいろと……」
口を濁してごまかして、今日はお開きになった。サニーさんを見送って、店内を片付け、それぞれの部屋に戻る。
……いろいろ作ったのは本当だ。けれど、その中で僕が智者と認められる理由になった料理は、ただひとつしかない。加えて、その料理だけでは、僕はけっして智者とは認められなかっただろう。
僕がナラム地域に長く滞在した理由は、同郷のものがいたからだ。――つまり、地球からこちらにやってきて、まだ生きているものがいたからだ。それも、二千年の昔からずっと生きているものが。魔法というファンタジックな技術、魔獣化という厄介な現象……そういったものがあるから、精霊がいても不思議ではないとは思っていたけれど、まさか同じ転生者だとは思ってもみなかった。
――彼の名は『相馬』。下の名前は忘れてしまったらしいけれど、ソーマの響きは豆と共に残り続けているから、忘れられないのだとか。二十一世紀の日本から、二千年前のナラム地域に転生し、土着信仰の対象となるまでに成り上がったホンモノの主人公。チートな豆を生み出す能力を持った元・地球人で――いまは肉体を捨ててアストラルな存在に昇華した、豆の大精霊である。巫女ゾト・ナラムを通じて精霊である彼と話を得た僕は、同郷である彼にひどく気に入られ、また彼の悩みを解決する料理を偶然作ってしまったから、智者の称号を与えられたのだ。
『いやー、ありがてえよマジで! じゃあ今日からオマエに豆の加護やるよ! つっても氏族の人間じゃねえから弱めだけど』
『え、いいんですか? ちなみにそれ、どういう加護なんです?』
『豆をうっかり落としちゃったとしても、そのまま踏むことがなくなる加護』
『……ちょっと嬉しい……!』
という、あまりにもざっくりした形で、微妙な加護を与えられたのだ。
しかしながら、よそ者である僕がナラム地域で神のごとく信仰されている大精霊ソーマに、直接加護を与えられた意味は大きい――あの精霊、軽いテンションでなにしてくれやがったんだと、あとあとムカつくぐらい大きいのだ。異常事態といっていいだろう。氏族が僕に智者の称号を与えた裏には、そういう理由もあったのだ。
レイチェル・タイムも同様に彼と話したはずだが、なぜか彼女は彼に気に入られなかったのだと考えられる――だから、僕と同じく地球にルーツを持つものだけれど、豆の加護を与えられなかった。あれほどの才覚を持つ彼女ならば、僕よりも完璧にソーマの要求に応えられただろうと思うのだけれど……不思議なことに、彼女は大精霊に認められなかったのだ。
いろいろと考えるべきことがあって、頭がパンパンになってきたけれど……いまは、とにかく晩餐会に集中しよう。
僕にとってもっとも大事で、もっとも緊急の用件は――政略結婚をぶっ潰して、プリムにプロポーズすることなのだから。
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電子書籍もありますのでおうちでの読書にどうぞ。
たくさん売れると続きが書けます。




