第三十一話 「無意識の影」
……ここは、どこだ。
辺りは真っ暗闇で、何も見えない。体の感覚はあるが、なんだか軽い。
ああ、まぶたを下ろしていたんだった。そりゃ見えないだろう。
スッとまぶたを開ける。飛び込んできたのは見覚えのある景色だった。
虹色の光沢をもつ壁に囲まれた小さな部屋。一つの壁に人が通れるほどの穴が開いている。それ以外には、何も無い。
「よっと」
俺は少し勢いをつけて穴の縁に腕をかけると、そのまま体を持ち上げて穴の中へ入る。
やや狭まった道を抜けると、そこには可憐な少女が椅子に腰掛けていた。
「リルーネ」
会うのは久々だったので、俺は少し気分が高揚した。遠征に出てからはしばらく瞑想をする暇なんてなかったので、彼女に会うのもそれ以来だ。
……あれ、そういえば遠征はどうなった……? 確か棘路の山岳に向かって、必要悪の奴らと対峙して……ああ、そうか。
ズキリ、と胸が痛んだ。どうしようもないほどの痛みだった。ぽっかりと穴が開いたような感じがして、不快で不快でしょうがない。
こんな痛みを感じるくらいなら、もういっそ考えない方がいい。目を逸らした方が楽だ。
「どうしてですか」
ゆっくりと口を開いたリルーネから聞こえてきたのは、怒気を含むそんな言葉だった。
「どうしてって……それこそどうしたんだよ急に」
いきなりすぎて動揺を隠し切れなかった俺は、思わず苦笑いをしてしまった。
それが火に油を注いでしまったのか、リルーネはものすごい剣幕で立ち上がった。ガタン、と椅子が倒れる音と同時に、彼女は口を開いた。
「現実から目を逸らさないで!」
それは、彼女が初めて言葉を崩した瞬間だった。
呆然とする俺から目線を切ると、リルーネはすっと横を見た。何があるわけでもない、ただの壁だ。
その壁をじっと見つめながらリルーネは話し始めた。
「”傲慢”の能力を用いれば、その身に降り注ぐ”現象を無視する”ことができます。……厳しい条件こそあれど、こと覚醒者同士の戦いにおいては、別格の力と言えるでしょう」
「……それは体感してなんとなくわかってはいたけど」
最初に能力を発動したのは、支部の地下でネコの変異体と対峙した時だ。
肉体強化を覚えただけだった俺は、ネコの持つ質量に手を焼いた。攻撃が効かなかったのだ。
だがその厄介であった質量が、その重力が、なぜかなかったことになった。仕組みはわからない。だが、次にネコに攻撃を加えた時には、軽々しく吹き飛ばせてしまったのだ。
それだけじゃない。その後のネコの能力もそうだし、何よりメディアの発射する光の矢を、取り除くことができた。
「ですが、無視していいことと、無視してはいけないことがある。いくら傲慢であれ、取り除くべき不都合と、向き合わなければいけない不都合がある」
もう一度胸が締め付けられそうな気持ちになった。リルーネが言うとおり、俺は目を背けてしまっている。あの、どうしようもない事実や、なにもできやしない、あの無力感から。
リルーネは悲しそうな目をこちらに向けた。
「あなたの心が不安定であれば、私も正しく機能しません。もちろん、心の在りようや脳の状態を表す瞑想空間も歪む。ここを見てください」
リルーネはもう一度壁を見つめた。よく見ると、なにやらヒビのようなものが入っている。初めてこの空間にたどり着いた時には無かったものだ。
「それは……どういうことだ? 瞑想空間ってそういうことが起きるものなのか?」
「質問に質問で返すようで申し訳ないですけど」
リルーネは倒れた椅子に手を伸ばして元の位置に戻すと、髪を翻しながらこちらを見た。ふわりといい香りがする。
「エルさんは、心はどこにあると思いますか」
「心?」
俺はそう訊かれ、無意識のうちに手を胸に当てていた。
「そう、多くの人は胸、しいては心臓の辺りを示すでしょう。ですが、正しく言えば、そこに心なんてものは無い。心臓は血を送り出すためのポンプですし、心に応じて胸が苦しくなるのも、自律神経の影響に過ぎません」
「じゃあ、……脳、か」
です、と一言付け加えると、リルーネは指先を額にあてた。
「心も脳の機能の一つです。心に問題を抱えているときは、脳にも問題を抱えていることになる。すなわち……」
「瞑想空間にも影響が出る、ってことか」
「はい」
「俺の心に問題があるってのは否定しないけどさ。あんな出来事があったからな……。でも、そのヒビに問題でもあるのか?」
リルーネは俺の言葉を受け、もう一度壁と向き合った。すっと手を添えて、ゆっくりと口を開く。
「この壁の向こうは、無意識の世界なのです」
「無意識?」
「ええ。人間の意識の奥深くには、深層心理とも呼ばれる、無意識の世界が広がっています。一説ではそれまでの記憶で構成されているといわれている世界です。
私たちがいる、いまこの場所はあくまでも意識の世界。ですから、こうしてあなた自身も会話をすることができると思いますし、大罪因子である私もここに存在します。
エルさんのような覚醒者が、人並みはずれた行為ができるのは、この意識の世界を広げていくことができるところにあります」
「この前、扉を開けてこの部屋に来た時みたいに、か?」
「はい、そうです。元は壁の向こう……無意識の世界であった場所に、新たに部屋を生み出した。すなわち、”無意識にしかできなかったことを、意識的にできるようになった”ということです」
「? いまいちよくわからないな」
俺は首を傾げる。リルーネはえっと、と一拍置くと、例えば、と話し始めた。
「エルさんは、心臓を意識的に動かせますか?」
「そりゃ、無理だろ」
心臓は自律神経で働いている。自律、というだけに、勝手に必要な分だけ仕事をしてくれている。
「それを、意識的に動かせるようになるわけです。必要に応じて心拍数を上昇させ、血液を大量に送り出す。酸素や養分などが多くなれば、爆発的なエネルギーを生み出せるようになる」
そういうことか。つまりは自律神経で動いている心臓なんかを、意識的にコントロールできてしまうわけだ。
リルーネが言うように、心臓を早く動かせば、エネルギーを多く生み出せるようになる。実際のところ、そんなことしたら血管が耐え切れなくなり、全身から出血するだろうけどな。
「血管の話。そう、それもです。結局は、”細胞分裂”という無意識で行われているところを意識的に行う。これが細胞の密度上昇です。血管も丈夫にすることもできれば、皮膚だって硬くできます」
リルーネは俺の心を読んで、そのまま思い出したかのように付け加えてくれた。わりと合点がいく。今俺ができる皮膚硬化、肉体強化。細胞分裂をコントロールできるとすれば、納得できる。
「だったら、このヒビはむしろいいんじゃないのか? この壁が壊れたとしたら、より意識的に体をコントロールできるんだろ?」
俺の疑問に、リルーネはふるふると首を振った。
「逆なんです、エルさん。もっと近くで見てください」
俺はリルーネに促されるまま、壁のヒビに顔を近づけた。ヒビの隙間から、なにやら黒い霧のようなものがかすかに漏れ出していた。
「な、なんだ、これ」
「ですから、逆なのです。無意識の世界から、意識の世界への侵食……つまり、意識を失っていく状態です。自分の意思で動かしていた腕や脚が、自ずと、無意識のうちに動き出してしまう……」
俺は驚きを隠せなかった。人間、ぼーっとしていて、無意識のうちに何かをしていた、なんてことはあるかもしれない。だが、その範疇を越えている。動かそうと思った腕が、動かないばかりか、動かすつもりのない腕が勝手に動き出すなどと!
「それだけではありません。無意識の世界には、”何があるかわからない”のです」
「……わからない?」
「ですです。以前、エルさんには私の持つ知識全てを”継承”したのを覚えていますか?」
「ああ、もちろんだ」
「その時、こうは思いませんでしたか? 全てを受け継いだはずなのに、全てを知ったわけではない。思い出せないだけ、というのも何かひっかかる、と」
……否定すれば嘘になる。本来は少しずつ受け継いでいくはずの知識を、一度に受け継ぐことのできる”継承”。だがそれを済ませた俺でさえ、わからないところが多い。
中級解放による”傲慢”の能力は手探りであったし、どのように発動するかもしっくりきていない。そしてリルーネが口をつぐんだことではあるが、上級解放やその上の内容。そして、映像にも見た、過去の歴史。
思い出せないだけ、とか、脳の許容量が足りていないだけ、とか、いろいろと言い訳をしながらも、扉を開けば徐々に知っていけるものだと無理やり納得していたところだ。
「わたし自身が、大罪因子の全てを知っているわけではないのです。あくまでもわたしは、大罪因子のプログラムによって生み出された姿であって、全てではない。私以外の全ては、向こうにあるのです」
リルーネはそこまで言うと壁の方を指した。
大罪因子ってのは、結局は遺伝子だ。遺伝子はあくまでも設計図……それを元に、いろいろなものが作られる。リルーネの姿もそうであると思うし、この瞑想空間もそうなのだろう。
「もちろん、手順を踏んで、こちらから意識の空間――この瞑想空間を広げていけば自ずとわかっていくことではあります。ですが、今回は違う。向こうから、こちらに来るのです。意識の世界を襲ってくる」
「襲ってくるだなんて、まるで何か住んでいるみたいだな」
俺はもう一度苦笑いをしてしまった。リルーネが黙るのを見て、はっとした。また怒らせてしまったか、と肩を狭めながら謝ろうと口を開いた時、思わぬ発言が飛び込んできた。
「その通り、です。この壁の向こうに、何か居る」
う、嘘だろ? 冗談っぽくいった発言であったが、的を射てしまっていたようだ。できれば外れて欲しかった事実だ。
「その何かが、この意識の世界に溢れ出してきている。この黒い霧の正体は、私にもわかりません。ただひとつ言えるのは――」
リルーネは言葉を溜めるのを感じ、ごくり、と唾を飲み込んだ。
「今、エルさんの肉体を動かせるのは、エルさん自身でも私でもなく、その、”何か”かもしれないということです」
「そ、そんなバカな……」
俺は引きつった笑いを浮かべた。俺の体なのに、俺自身が動かせない?
そんなはずが……と言葉を出してみたものの、妙に説得力のある理由を考え付いてしまった。
壁の向こうからこちらがわに流れ込む無意識によって、腕が勝手に動くことがある、というのであれば、その最たる例で、向こう側から来た”何か”によって、意識そのものを奪われ、体自体を動かされてしまうのではないか、というものだ。
つー、と冷や汗が額を伝い落ちた。そういえばおかしい。現に、瞑想空間に来てからそこそこの時間が経過した。だが一向に戻る気配も無い。
というか何よりも、なぜ俺はここに居る? いつ意識を失った? 黒い霧と言えば、以前にもどこかで現れていなかったか?
次々と浮かぶ疑問。だが何もわからない。五里霧中という状態だ。
『――何か何かと、大層な呼び方をするではないか』
その時、突如異質な声がその場に響いた。
俺のものでもなく、リルーネのものでもない。明らかな、第三者の存在を示す声だった。
『そう焦ることは無い、少し、借りているだけだ』
「だ、だれですか!?」
リルーネは辺りを見渡しながら、声を張り上げた。俺も似たように空間を見渡すが、何も映らない。ただその声だけが、響いてくる。
『リルーネよ、知らなければ訊くのではない。訊いたところで、先には進めない。知りたければ開けるしかない。捉えて見せろ、我の存在を』
「……っ」
リルーネは全身を強張らせながら、俯いた。
こいつが、壁の向こう、無意識の世界に住む”何か”?
大罪因子が関わっていることは明らかだが、リルーネも心当たりがないということは、無意識側の存在だ。要は、知りたきゃ瞑想空間を広げて、正体を掴んでみろ、と言いたいわけだな。
『エルよ、そう急くな。悪いようにはしない。少し世界を見てくる。済めばすぐに返そう』
”何か”は俺の名を呼び、そう言った。
「……俺の体だろ? 俺の許可なしで勝手にもっていくってのは、どうかと思うけどな。それに、わけのわからない存在に、体を預けるだなんて、悪いようにはしないと言われても安心できやしないが?」
『ふっ……相変わらず、底の知れぬ相手にも物怖じしない小僧だな。元はと言えば、瑣末な出来事に心を痛め、我の侵入を許した貴様が悪いと思うが?』
「……てめぇ」
あの出来事を、瑣末、だと? どれだけ絶望的だと思ってる。あいつはもう帰ってこれないかもしれないんだぞ?
ただの迷子や誘拐とは違う、相手が相手だ。俺の力ではどうしようもなかった。それを、そんな言い方で片付けられるのは、納得がいかねぇ……!
『ふっ、怒ったか? ならばもう問題は無いだろう。憤れるならば充分だ。絶望は程遠く、貴様はまだ死んでない。もう一度考えてみることだ。冷静になってな』
俺はその”何か”の言葉に気づかされた。俺はいま怒りを露にしていた。ついさっきまであれだけ気を落とし、現実に背を向けていたというのにだ。いざそれをほじくり返されると、それだけで感情が高ぶる。
『丁度いい。しばらく二人で考えてみよ。現実での数分を、戴こう』
待て、とは言えなかった。”何か”の存在はもうそこには感じ取れず、シン、と部屋が静まり返っていた。
肉体を持っていかれたことはもうどうしようもない。本当に返してくれるかどうかはわからないが、あがいたってどうしようもない。
今できることを、考えなければいけない。もし肉体が戻ったら、どうしていくか。
少なくとも、今回のように隙を見せて、”何か”に主導権を握られるなんてことは、防ぎたい。
リルーネが顔を上げた時、彼女の瞳がまっすぐに俺を捉えていた。その瞳にも、俺と同じ想いが感じ取れた。
――大丈夫、やろう。俺なら、俺たちなら、できる。
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乾いた風が吹き抜ける山岳で、一人の青年が膝を落として叫んでいた。
彼は幼い頃からの友人を失い、まるで全てを失ったかのような様子で、ただただ泣き叫んでいた。
「ちぃッ! 映像記録すら撮らせないで逃げ切るとはッ! 流石のアルギエバというところですか!」
その脇に、シバーという名の男が悔しそうに地団太を踏んでいた。一つに結んだ長髪をゆらしながら、舌打ちを繰り返す。
「これでは実績が得られないじゃないですか! 博士もスポットを見るつもりもなさそうですし、はるばるここへ来たのも無駄骨に……!? ありえません、かくなる上は……」
シバーは顔を上げ、ちろりと舌を出して笑った。その視線の先には、無防備に叫び続ける青年がいた。
(ちらりとしか顔を見ることができませんでしたが、間違いない、彼はバイオスの失態で革命軍に攫われた青年エル!
下に革命軍メンバーがいたことを考えると、彼も革命軍に参戦した可能性が高い……。
いいですねいいですね! 彼を捉えて持ち帰ることにしましょう。日も浅い、拷問でもすればすぐに情報を吐き出すに違いない!)
シバーは一瞬のうちに思考を進め、青年に襲い掛かった。手には世界政府謹製の対覚醒者光線銃。大罪因子研究の末たどり着いた、硬化した皮膚をも貫く代物だ。
「また、逃走されてもこまりますからねっ! まずは機動力を奪いましょう!」
シバーはその銃を前方に構えると、パシュンパシュンと音を鳴らし狙撃を実行した。放たれた光線はうずくまる青年の大腿部と足を捉えた。
先刻グリドの皮膚に弾かれたそれも、今度はまっすぐに肉を貫いた。血しぶきを上げ、青年は叫びの色を変えた。
「ふははっ! いいですねいいですね! 流石の殺傷力!」
シバーは煙が立ち上る銃口を見つめ、うっとりとした表情を浮かべる。
「イイ! イイですよぉ! 脚をもがれたおろかな犯罪者! 余計に皮膚が硬いせいで、死にはしない! こんなことをしても、ねっ!」
シバーは声高にそう叫ぶと、うずくまる青年の顔面を蹴り飛ばした。あろうことか崩れ去るその背中を踏みつけ、二回、三回と繰り返した。
いくら皮膚が硬いとはいえ、衝撃は伝わる。青年は苦しそうに血を吐き出した。
一方シバーは口元から涎を垂らし、異常に興奮した様子である。
「あー、やってるやってる、趣味悪い~」
「うへ、見てらんねぇなぁ」
遅れてやってきたテクルと博士は、無防備な少年を痛めつける光景を見て顔をしかめた。
「いくら普通より頑丈っていったって、程があるだろ? 脚に穴開いてんだぜ? 出血でどうにかなっちまうよ」
「おいらは吐きそう……うっぷ」
シバーはそれをきいてピタ、と動作を止めると、それもそうですね、と足を下ろした。
「んで? こいつ、持ち帰んのか?」
「ええ、例のバイオスの件で脱走した犯罪者でして。さっきの顔ぶれから見るに、新しく革命軍に入った者やもしれぬと」
「どっかで見た顔だなぁオイ。革命軍ってことはあいつみてぇにとんでもなく強かったりすんのか?」
「見ての通りですが?」
博士は倒れこむ青年を顔を見ながらシバーとそう会話を進めた。シバーは先刻とはうって変わって冷静な口調である。
「白い光を纏っていたように見えましたが……蓋を開けてみれば、隙だらけで、この様です」
「……白い光?」
「ええ、ご存知でしたか?」
「いやいやいやいや、俺が知ってることにいちいち興味示すかってんだ」
博士は舌なめずりをして、にやりと笑った。
「理論的には存在しうるモンだったが、見たこともねーし過去のデータも存在しねえ。こいつぁ収穫だぜぇ?」
「それは良かった! これも実績! ふはは! 実にいい! でしたら尚更殺すわけにはいきません。拘束して止血し、軍機まで運んでください」
シバーはテクルの方をちら、と見る。
「は? 運べってあたし? なんで男のあんたがやんねーのさ」
「では、博士をお願いできますか?」
テクルは横目に博士を見た。わきわきと、両手をいやらしく動かしている。背負おうものならば結果は見えていた。
「わかったわよ……とりあえず拘束具つけるわ」
彼女はため息混じりにそう言うと、渋々と青年に近付き、拘束具をつけようとその腕に触れた。その時だった。
「熱ッ!?」
テクルは咄嗟に手を引いて驚いた。手から離れた拘束具が虚しく地に転がり、甲高い音をたてた。
「どうしました?」
「コイツ……なんかおかしいよ。普通じゃない……嫌な予感がする」
気遣いシバーにテクルは震えた声でそう答えた。彼女が触れたその腕は、異常なほどに熱を持っていたのだ。思わず反射的に手を引いてしまうような温度だ。
気づけば青年の全身からは湯気が立ち上り始めていた。明らかに異常な光景であることは確かだ。
「おぉん? こりゃあどういうこった? 別に気温が低いってわけでもねぇ……水蒸気が凝結する条件は満たしてねぇはずだぜぇ」
博士は興味深そうに首を傾げている。テクルは震え、シバーは無表情でそれを見つめていた。
「――漸く、だ」
白い湯気が黒へと染まり、異様さが増したその瞬間、太く響くような声があたりに響いた。
青年は腕を折り曲げ、ぐっと力を入れると、勢いよく体を浮かせ、そのまま脚から華麗に着地して見せた。その体躯からは黒い霧が噴出している。
それに驚きを隠せなかったのは紛れも無い、シバーであった。無表情を一瞬で崩し、冷や汗を垂らしながら叫んだ。
「な、なぜです!? 確かに私の銃はその脚を貫いたはず!? 立てるはずなんてありません!」
そんなシバーの動揺をあざ笑うかのように、青年は顔を上げて口元を吊り上げた。
「我は立っている。その事実に変わりはあるまい?」
空気を震わす、その声の異質さはさることながら、注目すべきはその瞳だった。
先ほどまで青年が持っていた瞳とは全く異なる、完全な黒。一粒の光すらない、闇だった。
「う、うわああああ!!!」
パシュン。
その瞳に恐れをなしたシバーは、咄嗟に銃を構え発砲した。殺してはならない、そんな当初の言葉などなかったかのように、銃口は青年の顔に向けられていた。
やってしまったかもしれない、シバーはそう心の中で思った。
――シュン。
だがそれは杞憂に終わった。放たれた光線は彼に届く前に小さな音をたてて消滅したのだ。
「は?」
「失礼だとは思わないか? 目覚めたばかりの我に、そのような珍妙なモノを向け、あまつさえ発砲するとは」
頓狂な声を出したシバーに、すぐに異変が起きた。口元から真っ赤な血液を噴出し、膝をついたのだ。よく見ると出血は口だけではなく、目や耳などから滴っていた。
「シバー!? な、なんなのよあんた!?」
倒れこむシバーに駆け寄ろうとするテクルであったが、その異質な存在への恐怖が勝り、立ちすくむばかりだった。
「なんなのか? ふっ、どいつも同じことを言うな! 滑稽で呆れるわ」
青年は、嘲笑を浮かべた。
「いきなり現れといて、人の仲間を傷つけておいて、それかい? いいかげんに」
テクルはそこで言葉を止めた。ぎゅる、と首元が萎み、掠れた息を吐き出した。
「その続きを言ってみろ、そこの人間のようにするぞ」
青年は眉間に皺を寄せながら、漆黒に染まる瞳でテクルを睨んだ。こく、こくとテクルが涙目で頷くと、喉は元に戻った。
「しかしまぁ、平和ボケした貴様らにとっては無理なことだったか。人は理解できぬものを恐れる。恐れるばかりにそれを理解しようとするが、それを知る力も無い。だからこそ、訊く」
「……聞き捨てなりませんね」
嘲笑う青年に、かすれた声でシバーが言った。
「シバー!? 平気なのかい!?」
「大丈夫、です。アレがいい具合に機能してます」
声をかけるテクルに頷き返すと、咳払いをして青年を睨んだ。
「何だ」
「あなたは、先ほど言いましたね。平和ボケ、と」
「言ったが?」
「いまある平和が、どれほどの価値があるものなのか……わかっているのですか」
シバーは語気を強めて続けた。
「世界政府が設立する前、世界各地では紛争が絶えなかった。国と国の間で摩擦が生じ続けた。もっとも厄介だったのが核兵器……放たれたその時には何万もの尊い命を奪い、人々に恐怖を植え付けた。
どれだけ先進国がその危険性を憂慮しようが、身勝手な国はそれを造る。そして対抗すべく核が作られ、先進国もそれを手放せなかった。
少し引き金に力を加えるだけで、命が一瞬にして消えてしまう。平和とは程遠い、地獄のような世界でした」
「ああ、知っているとも」
「ならばわかるはずです! 我々世界政府が平和を希求し、最善を尽くしてきたその上にある平和の価値が! 戦争もない! 核もない! 犯罪も理不尽もない、そんな世界のすばらしさが!」
シバーは懸命に語った。
「だからこそ、犯罪者共が許せない……異能を備え、まるで核兵器そのものだ! 奴らを死滅させなければいけないのです!」
青年はその言葉を黙って聞いていたかと思うと、おもむろに手を口元にあて、大きな欠伸をして見せた。
「……何もわからんな、そんなもの」
そしてその手を下ろすと、膝を折り曲げてシバーに目線を合わせた。
「この地球に、平和などあってはならないのだ。平和の先に何がある? 一年平和が続いてみろ。それは十年続くか? 百年は? 千年は?
続くと言い切れるだろうか? 革命が起きないだろうか? 天変地異が起きないだろうか? 宇宙からの侵略者が現れないだろうか?」
青年はシバーに顔を近付け、矢継ぎ早につきたてた。
「……断言しよう、平和ボケしている今の人間は、どんな変化にも耐えられないだろう。現に今、覚醒者の台等に手を焼いているのではないか?」
シバーは、ぎり、と歯軋りをした。まさに図星であった。世界政府の誕生により、平和が生まれた。だが、その平和は安定したものではない。常になにかが変化を求めた。
反発する国は絶えず、各地で革命まがいの行為が行われた。犯罪者もゼロにはならなかった。事故や災害もゼロにはならなかった。それらをゼロに限りなく近づけるために、軍の人間が毎日身を粉にして働いた。過労死する仲間も居た。
そして、近年明らかになった”大罪因子”。もはや世界政府は、後手後手に回っている状態だ。
「地球上に平和を求める生物がどこにいる? 鳥であれ狩りをするぞ? 昆虫でさえ戦うだろう。常に生存競争という戦の中に身を置いているのだ。
だが、ヒトだけがそんな平和を追い続ける。おかしな話だろう。その点から見れば、自然環境において、ヒトや世界政府はまさに”欠陥”だ。”奴”が不満に思うのも仕方が無いというもの」
シバーもテクルも黙るしかなかった。政府の末端でしかない彼らに、言い返す力も言葉もなかった。ただ、悔しさにうなだれるだけだった。
「――へっへっへ、面白れぇ」
その場に流れた沈黙を破ったのは、博士であった。青年の驚くべき変化を遂げようとも、シバーが倒れようとも、逃げ出すでもなく、ただただそれを観察していた。
「その目、どうなってんだぁ? 完全な黒っつーことは光を吸収しちまうよな? さっきの光線がきかねえのもそれか」
「貴様は何だ」
「あ? ああオイラかい? オイラはコージってんだ。周りは博士って呼びやがるがよ」
ルシファーはコージの言葉を聞くと、じっとその顔を見て、満足そうに微笑んだ。
「持っているじゃないか、我がこのタイミングで目覚めたのも巡り合わせか。コージよ、我のことが知りたいか」
「おめぇさんが人知を超えた存在だってんなら、解剖でもしてぇもんだな、へっへっへ」
「――面白い、ならば成し遂げてみせよ。我らはそこに潜む!」
ルシファーはそれだけ言うと、天を仰いだ。噴出していた黒い霧が急速に瞳へと吸い込まれ、やがて消えた。
青年の瞳に光が戻った時、コージは笑った。
「へっへっへ、そうかい」
青年……もといエルは、まるで自分の体かどうかを確認するかのように自分の手のひらを握って開いてを繰り返した。何度かそれをして、周囲を見渡す。最後に大きな息をついて、コージを見た。
「酒場にいたおっさん?」
「よぉ、また会ったなぁ」
コージは、そこで起きていたことを話すつもりは無かった。ただ、己の欲望を満たすことだけを考えていた。そしてもう一度、にんまりと笑った。
「おい青年、俺を攫ってくれや」
「は? いきなり何だよ!?」
「おめぇさん、善良な市民である俺をこんなところに放っていくのか? 見ろよ、さっきまで戦場だったんだぜ、ここは」
コージの言葉に呼応するように、エルは周りをもう一度見た。今度は気づく。そこには膝をつく二人の人間がいた。一人の男は見るからに重傷だ。一方の女性は、何かに怯えているように、震えながら明後日の方向を見ていた。
彼は二人の服を見て、咄嗟に世界政府の軍人だということに気づいた。自分を捕らえようとするやもしれぬ。今はなぜか動き出そうとはしていないが、このままここにいる理由も無い。
「じゃあ、一緒に逃げるか」
「ちがうちがうちがう、俺はこう言ってんだ。攫え、と。別に楽をしてえわけじゃねえぞ? 逃げださねえって、約束しちまったからよぉ」
「……そうですか」
エルははぁ、とため息をつくと、コージを背負った。
彼も頭の中で考えていた。あれからどうなったのか。これからどうしなければいけないのか。
親友が攫われた。でも、死んだわけじゃない。きっと今も生きている。捕らえられているだけだ。
――助けなくちゃいけない。
だが、今はできない。必要悪を敵に回すには、まだ自分には力がない。一人では何もできない。
だからこそ、まずは革命軍に戻ろう。そして、助けを求めよう。もう、俺の仲間はテラだけじゃない。
「あ、ついでにふもとの街に寄ってくれねえか?」
「……なんでだよ」
「氷をくいてぇんでさぁ、へっへっへ」
何度目かわからないため息をつきながら、エルはコージを背負い山岳を下り始めた。




