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気づいたら犯罪者だった  作者: あいしぇいと
第二章 鍛錬
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第十六話 「普通の喪失」

 

「あーもう! くやしいなぁっ!」


 あれからすぐにグリドは結合(リンク)を解除したようで、俺たちは現実へと引き戻された。

 グリドから強烈な一撃を見舞われ、一足先に瞑想空間から弾き出されたロズは、瞑想室の壁にもたれかかって嘆いていた。

 その姿は本当に悔しそうで、普段はきれいにまとまっている髪も心なしかぼさぼさしている。


「おつかれ、ロズ。すごいじゃないか、アレ。グリドが能力使っているの、久々に見たよ」

「うー。いける、って思ったんだけどなぁ。普段使ってこないから、無いと思って詰めを誤っちゃった」


 そんなロズをテラは褒め、眠そうな顔をしているグリドも頷いた。

 勝ったのはグリドで間違いないのだが、そのグリドに力を使わせた、ということが凄いことなのだろう。

 グリドは革命軍古参に部類されるが、相当な実力者であることはわかっているからな。



 にしても、なんだったんだ、アレは。


 グリドが能力を使ったと思われるあのシーン。


 確かにロズの特殊な攻撃はグリドを捉え、不意をつくことに成功していた。

 巨大化していたはずのグリドの腕が縮小し、空を裂くに留まったのだ。

 ロズが何をしたのかもわからないが、それよりも不可解なのがその後。


 グリドは後頭部に一撃を受け、更に背後を取られ止めを刺されるであろう、その瞬間だ。


 距離があった俺にもわかるくらい、ずしりと空気が重くなったのだ。

 そしてその重さのせいか、勢いよく振り下ろされたロズの攻撃は減速し、グリドはするりとそれをかわした。


 重力を増加させた?

 それでは振り下ろされる攻撃は加速するか?

 重力を減少させて勢いを弱めた?

 いや、この世界には慣性の法則というものがある。重力ごときで勢いのあるものが急速に勢いを弱めるなどおかしい。


 じゃあなんだ?

 ファンタジーの世界じゃないんだから、科学的に説明できるはずだ。

 だが俺の知る常識だけではそれは不可能だった。


 説明をしてくれると言ったテラもあの現象については説明してくれる様子も無い。

 味方の能力くらい、把握しているハズだ。知らないなんてことはないだろう。

 敢えて俺には教えていない、と見るべきか。



 ぐぅ。


 深く思考の闇に囚われていた俺は聞き覚えのあるその音で正気に戻る。


「えへへ、もー限界。ごはんいこ!」


 ロズははにかみながらそう提案した。

 賛成だ。

 ロズほどではないにしろ、空腹感はある。

 テラはともかく、中級解放まで行っていた二人や俺は副作用も襲ってくる。


 小休憩だ。




 夕食を済ませた俺たちは一度テラハウスに戻ってきていた。

 予想通り副作用が始まり、俺は頭痛を訴えながらの食事となった。

 歩けなくなるほどの頭痛ではなく、それ自体は軽いものだったが、この状態では次のステップには移れない。

 完全に副作用が消えるまで時間を潰そう、ということだ。


 本当は大広間にでも行って、軍や外の動きでも知りたいところであった。

 あそこは多くの人が行き交い、活動的な場所だ。

 中央には大きなモニターもあり、世界情勢も映し出されている。

 ここへ来てからというものの、外の世界がどうなっているかがまったくわからないので、知っておきたいのだ。


 だがこうして居住区へと戻ってきたのには、理由がある。


「ぐおぉぉぉ~~~~~~~」


 まず、この大男。他でもない、グリドである。


 彼は器用なことに、食堂で目を瞑りながら食べ物を口に運んでいた。

 寝ているんじゃないかと思うくらいに停止しては、また動き出して食べ始める。


 かなりゆっくりなペースだったが、大食いのロズと頭痛に悩まされている俺からすれば気にならなかった。

 唯一涼しい顔をしていたテラだけが一足先に食べ終えていた感じだ。


 そしてようやく食べ終えたかと思うと、グリドは空になった皿に向かって顔面を打ち付けた。

 自暴自棄になったわけじゃない。完全に寝てしまったのだ。



 中級解放の副作用には、2つある。



 ひとつは極度の筋肉痛。


 ロズは大量の料理を目の前に、忙しなく手を動かしていた。


「早く食べないと、満腹になる前に体が動かなくなっちゃう!」


 これはゆうに三人前は平らげたんじゃないかというロズの発言だ。

 解放の程度によるが、少しでも動けば激痛が走るというレベルの筋肉痛らしい。

 体感したことがないのでわからないが、先輩たちはそう言っている。恐ろしい。



 もうひとつの副作用が、”生理的欲求の強制解放”だ。


 生理的欲求というのは、人間の数ある欲求の中で最も基盤となる、重要な欲求だ。


 食欲。

 性欲。

 排泄欲。

 そして睡眠欲だ。


 ロズのように、とにかく食べなければ気が済まなくなるほどの食欲。

 そして、グリドのように食べるよりもなによりも、とにかく寝てしまうほどの睡眠欲。


 今思えば、俺の傷を癒してくれたロズはすぐに肉まんを要求していたし、

 諜報活動から返ってきたグリドはこれでもかというくらい昼寝をしていた。


 今の状況は、まさにそれだ。



 俺たちは2メートル近いグリドを背負って、なんとか居住区に辿りつき、こうしてグリドをシーツに寝かすことに成功した。

 ロズもそろそろ筋肉痛が来てもおかしくないということで、一足先にロフトに上がった。

 人気の無いところで唐突に倒れて動けなくなってもみろ、大変だ。

 しかもロズのような魅力的な女性であれば、いろんな意味で大変だ。

 動けなくなる前に自室に戻るというのは名案だ。普段からそうしているのだろう。


 ……俺はその隣で寝ることになるだろうに、それはオッケーなのか、という話だが。



 俺の中の小動物が再び雄たけびを始めるといけないので、俺とテラは外に出ることにした。


「副作用が完全になくなるのは、時間にして2,3時間ってところかな?」


 居住区の廊下を歩きながら、テラは言う。

 体感的にも、そんなくらいか。つまりそれくらいの時間を潰す必要がある。

 時間がないとわかっているのに、鍛錬にその時間を割けないというのも歯がゆくてしかたがないな。


「今夜は、寝る前にもう一回鍛錬をして、寝るって感じでよかったんだっけか、先生」

「そうだね。グリドとロズはあのまま寝てしまうだろうから、二人でだけどね」


 よし。

 この副作用さえなくなれば、次のステップに移ることは可能だ。

 初級解放、すなわち皮膚硬化と肉体強化を行い、それを反復する。

 感覚を掴みながら、スムーズな能力行使を目指すのだ。


 この先のことは決まった。

 あとはこの余った時間を有効に使うことを考えるべきだな。


「なぁ、テラ」


 俺の声かけに、ん、と小さい返事が聞こえる。


「大広間へ行こう、モニターでも見て、外の世界がどうなっているかを知りたい」

「……」


 テラは一瞬立ち止まった。


「そうだね、知っておいたほうがいい。忘れてはならないことだからね」


 忘れてはならない……?

 少し引っかかる言い方に、俺は口を開こうとしたがテラはさくさくと歩みを進めてしまった。


 まぁいい。とにかく大広間へ行こう。


 俺は小走りでテラの背中を追いかけた。





 大広間のモニターには、ニュース番組が映されていた。

 今現在放送されているものではなく、必要な世界情勢のみを切り取って編集したもののようだ。

 俺の目的にとっては、好都合だ。

 街角のトレンドランキングなんてものを紹介されても、困るしな。


『――で、政府軍は強盗殺人の線で捜査を行っています』


 ニュースの内容は悲惨なものだった。

 敢えてそれだけを切り取っているのだろうから当たり前なのかもしれないが、暗いものばかりだ。


 少女が誘拐され、監禁された。

 家計に苦しんだ男が食料を求め店に侵入し、店員を殺した。

 連続通り魔犯の家宅から、薬物が発見された。


 次から次へと犯罪のことばかりが流れていく。

 どれも悲痛さを感じえず、その痛ましさに罪を犯した者への怒りが募る。


『――昨今の犯罪について、専門家に意見を伺いたいと思います。犯罪心理学権威の――』


 犯罪心理学。

 俺たちが犯罪者と扱われるようになる原因をつくった学問だ。


 そんな聞くだけで鳥肌が立ちそうになるワードと共に紹介されたのは白い髭をたっぷりと蓄えた老人だった。

 見た目からして齢70は超えているのではないかと思えるほどだった。


 ……大体、こういう番組に登場する専門家ってのは胡散臭いのが多い気がする。

 この老人も、類にも漏れずそうだった。


『全ての犯罪者は、大罪因子を持っている』


 これは事実なのかもしれない。

 きっと、死に物狂いで遺伝子の研究を行い、数多の受刑者を検査してデータをとり、裏付けされたものであろう。


 でもダメだろ。

 例えそうだとしても、今の状況はおかしいだろう?


 全ての犯罪者が大罪因子を持っていても、

 大罪因子を持っている人間が罪を犯すとは限らない。


 理論をすりかえて、あたかも正論であるかのように、偉そうに語る。

 だから胡散臭いのだ。


 そしてそれを世界の平和のためだと言うから、胡散臭いのだ。

 世界政府め。




 にしても、状況は芳しくないようだ。


 革命軍の活動は常に進行している。

 世界政府にスパイを送り込むことにも成功しているし、

 遠征によって常に先手を取り、憑依体の処理はできている。

 おかげさまで、犯罪者が怪物に成り得るという情報は未だに知られずに済んでいる。


 だが、結局そこまでしかできていないのだ。

 大罪因子を持つ者は犯罪者である、という情報は知られてしまった。

 世界政府という権力を通して、全世界が知ってしまったのだ。


 現に活動も虚しく、こういうニュースが流れているようだし、

 今でも大罪因子を持つ人々は世界政府の手によって負われ続けているのだろう。


 そして犯罪者の家族というだけで、迫害され、突き出され、利用されていくのだろう。


 なんとかしてそれを止めなくてはいけない。


 そう考えると、今の革命軍の活動ってのは温くないか?

 世界政府の動きを探りつつ、現状維持を狙っている。

 それでは世界政府を倒すことはできないし、ジリ貧になっていくだけだ。


 親父は何を考えているんだろうか。

 もっとこう、わかりやすく世界政府に殴りこんで、武力で制圧するとかさ。

 俺の見込みでは、普通に戦えば世界政府を倒すくらい余裕だと思う。

 相手の武力がどんなもんかしらないが、革命軍も決して弱くはないし、なにより覚醒者の力が圧倒的だからだ。


 いや、現実はそう甘くは無いのだろう。

 たとえばバイオスに付き従っていたマリスとかいう狂った女は覚醒者だ。

 実力は定かではないが、グリドの奇襲にも難なく対応していたし、相当な実力者なハズだ。


 ああいった世界政府側の覚醒者がどれくらいいるか。

 そこが未知数だからこそ、簡単に殴りこむことができないのかもしれない。



「歯がゆいだろ?」


 唐突に隣に座っていたエルが呟いた。

 視線はモニターのまま、眉間にしわを寄せている。


「世界政府はこうやって世論を味方につけている。いくら僕らの力が世界政府より強くたって、全世界を敵に回してしまってはもともこもないからね」


 ああ、そういうことか。

 もし革命軍が武力で世界政府を潰したところでどうなる。

 世間からはどう映る?


 ”犯罪者集団(テロリスト)がクーデターを起こした。”


 ――そんなところか。


 世界政府を倒しました、これで一件落着ですね、とはならず、

 今度は世界を敵にまわすことになる。


 ああ、やはり犯罪者は犯罪者だった。

 奴らは存在してはならないモノだ、と。


「じゃあ革命軍はどうすればいいってんだ? このままじゃジリ貧だぞ?」

「わかってる」


 俺の質問に、テラは俺に視線を動かして答えた。


「武力では解決できない。だから、スキャンダルを狙う」

「スキャンダル……?」

「うん。いくら世界政府とはいえ、その支持率は100%じゃない。心の奥底に不満や疑惑を抱えながら生きている人は少なくない」


 その言葉にやけに納得してしまった。

 この騒動以前から俺は世界政府に対していいイメージを持っていなかったからだ。

 きっと俺のように、嫌々ながらその方針に従い、生活している人はいるはずなのだ。


「その層を、増やすんだ。今はまだ世界政府側の人が多いけれど、そのやり方は間違っていると、そう思う人が増えてくれば……」

「世界をひっくり返せる……ってことか」


 テラは頷いた。


 世界をひっくり返すこと、すなわち革命こそが、わが軍の最終目標なのだ。

 世界政府を倒すだけでは、世界は止まらない。第二の世界政府が生まれ、俺たちの生きるスペースは残らない。


「だからこそ諜報活動で弱みを探りつつ、遠征で世界各地を救うんだ。遠回りに見えるけど、これを地道に続けることが勝利への近道だと僕たちは思っている」


 確かに、歯がゆいな。


「いいかい、エル。これは忘れてはいけないことなんだ。僕たちは犯罪者だ。罪を犯していなくても、そうなんだ」


 忘れてはいけない。

 テラはそれを強調していた。


「たとえ僕たちが違うと言い張っても、世界はそれを認めない。これが現実なんだ」


 ああ、そうだな。

 だからこそ、俺はこうやって街から逃げ出し、非日常の世界へと足を踏み入れたのだ。


「勝つよ、エル」


 テラは強い口調で言った。


「父さんにも、世界政府にもね」


 俺が頷くのを見て、テラは喋らなくなった。



 頭痛がちらちらと顔を覗かせている。

 もうしばらく、時間がかかりそうだ。


 俺はそんなことを考えながら、モニターをぼーっと眺めていた。





「エル、まだ治まりそうにないかい?」


 あれから一時間は経過しただろうか。

 鍛錬室を出てからで数えれば、そこそこの時間は経っている。

 だがしかし、頭の奥はずしりと重く、時折ズキリと痛みが走る。

 万全とは言いがたい状態だ。


 そう説明すると、テラはひとつ息をつくと、ゆっくりと立ち上がった。


「ついてきて。会わせたい人がいるんだ」

「会わせたい人?」

「うん。僕が新参のころからお世話になっている大先輩さ。きっと今のエルのことも、助けてくれると思うからさ」


 大先輩。

 テラは支部長の息子だから、かなり小さいころから革命軍に所属しているハズだ。

 物心ついた時からと考えれば、ざっと15年以上前になる。

 そんなテラの先輩ともなると、かなりのベテランになる。

 グリドのような相当の実力者なのだろうか。


 ぶる、と体が震えた。


 これは、期待しているのだろうか。

 いや、そんな感じじゃない。

 嫌な予感ってやつだ。


 グリドは多少マシだが、寝てばっかりの面倒くさがりや。

 ギガ支部長はワイルドでカッコイイ人だが、乱暴で強引で恐ろしい人だ。


 大罪因子の影響だとは思うが、ベテラン覚醒者ってのは一癖二癖もある、そんな気がしてならない。

 だから今から紹介してもらうその人も、似たような人なんじゃないかと思うと、気が重くなる。


 ……でも、テラが必要だと思って言い出したことなんだから、俺はその判断に従おう。

 テラの判断の通りにして、後悔したことはあれ結果的に間違っていたことはないからな。


 そう心に一区切り付けると、俺は立ち上がりテラの背中を追いかけた。





「ここだよ」


 そう言って案内されたのは病室だった。

 俺が何度もお世話になっているところだ。


 白い壁と天井の部屋に大きなベッドがあり、人がゆうに5、6人は入れるんじゃないかという広さ。

 基本怪我人や病人がここへ運ばれて療養を取るシステムだが、その割にはかなり広いな。

 そんな1つの部屋がまっすぐと伸びた廊下の左右にずらっと並んでいる。

 かなりの場所を取っていると言えるのだが、その割には鍛錬室や居住区が狭い気がする。

 テラハウスは5人で寝るには手狭である……大男含む男女混同ってのがあるからなんだが。

 交換してほしいものだ。



 そんなことを考えていたら、ある一室から見知った顔の女の子が出てきた。

 上機嫌な顔で茶髪ツインテールを揺らしながら鼻歌を口ずさんでいる。


「ん、セレンじゃないか」


 テラが声をかけると、彼女はこちらに振り向き、ぱっと笑顔をつくった。

 俺の持ったイメージとは違い、かなり愛想がいいな……。


 と思ったら俺の存在に気づいたのか、一気に顔をしかめ、ジト目で俺を睨んだ。

 まるで変態でも見るような目だ。あれは誤解だというのに。


「テラ君、と……エルさんじゃないですか。どうされました?」


 相変わらずのふんわりとした柔らかい声質。

 なんだか含みのある呼び方をされたが、気にしないでおこう。


「ちょっとお見舞いをかねて挨拶にね。しばらく会ってなかったからさ」

「ふーん、それはきっと喜ぶと思うわ。最近はうちくらいしか顔を出してくれないって嘆いてたし」

「あはは、ちょっと寂しがりやなところもあるからね」

「ま、そっちの誰かさんはどうか知らないけど? 失礼なことしないでよね」


 そう言ってセレンはもう一度俺を睨んだ。

 完全に嫌われてるぜ、こりゃあ。


 セレンは軽くテラにだけ挨拶をするとさくさく歩いて行ってしまった。

 一応仲間なんだから、仲良くやっていきたいってのは本音なんだが、難しそうだな……。


「エル、一体彼女に何をしたっていうんだい……?」


 今の一連の動きを見て流石に察したのか、テラは哀れな目で俺を見ていた。


「あれ、聞いてなかったのか?」

「もしかして、栄養失調の時? ロズがあとはよろしく、って任せられただけだから、何があったかは聞いてないよ」


 確か俺が病室で目覚めた時にはテラがいたから、一連の出来事は全部聞いていると思っていたが、そうではないらしい。

 まぁだからといって事細かに説明する必要はないな。


「ま、色々あって……直接彼女になにかしたってわけじゃないんだけど、誤解されたまんまあんな感じなんだよ」

「そりゃ災難だったね。まぁ悪い子じゃないから、そのうちなんとかなるさ」


 だといいけれど、な。



「さて、入るよ。セレンが出てきたって事はさっきまで起きてたってことだろう」


 いよいよ本題ってところだ。

 またもや体が震えだしそうになるのを堪えて、俺は唾を飲み込んだ。


 どんな人だろう。

 セレンがこの部屋から出てきたって事は、おそらくあの人だ。

 手負いになって一時帰還を余儀なくされた、隊長。

 名前は……ぱっと思い出せないが、

 テラが大先輩と敬っていることもそうだし、グリドとも縁が深そうだ。


 とにかく、俺は強くてかっこよくて、面倒見のいい感じの大人な、普通の人がいい。

 ……望みすぎだなんて言わないでくれ。

 この世界に居たら普通というものを忘れてしまいそうだからな。



 俺が頷いたのを合図に、ノックをしたテラは扉を押した。


 ――そこで見た光景は、俺に全ての希望を失わせるものだった。


「フンフンフンフン!」


 俺は唖然とした。


 俺は手っきり、手負いだと思っていた。

 だからベッドに横になりつつ、この世を憂う目で窓から景色を眺めているものだと。

 いや、地下だから窓なんてものはないんだが、それでも普通に登場してやぁ、と挨拶をしたかった。


「フンフンフンフン!」


 だがそこに居た男は、本当に怪我をして搬送されてきたのか、とでも疑いたくなる行為をしていた。


 まず、逆さである。

 普通、頭が天井に近く、足は床に近い。

 しかし、頭は床側だし、足は天井に向かってそびえ立っている。

 つまり、逆立ち状態である。


 やわらかなベッドの上で逆立ちをするというだけでもかなりのバランス力を要すると思うが、それだけじゃない。


 彼は鼻から突き抜けるような掛け声と共に、腕を曲げては伸ばし、全身を上下させているのだ。

 なんて言うんだ、これ。逆立ち腕立て伏せとでも言うのか?


 しかもものすごいスピードだ。


 普通筋肉トレーニングでは一定のリズムがあって、力を入れては抜いてをゆっくり行うものだ。

 でも違う。

 フンッ、フンッじゃないのだ。

 フンフンフンフン!なのだ。

 伝わっただろうか。並大抵のリズムじゃないのだ。



 流石のテラも苦笑い、というわけでもなく至って冷静な顔でその光景を見ている。


「クロシェルさん、そのくらいにしておいたらどうです? 体に障りますよ」

「フンフンフンフン!」


 聞く耳を持っていない。

 テラの声が聞こえていないのか、それとも中断できないのか。

 なぜ病室でそんなことをしているのかも、なんでそんなことができるのかも、何もかもわからない。



 わかったことはある。



 この人がクロシェル隊長であるということ。


 ――そして、この世界には普通という概念がないことだ。

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