第十一話 「トイレ大事件」
あの瞑想空間に佇む開かずの扉を、なんとかしよう。
そうトイレの中で決意をした俺は、さっそく壁にぶちあたっていた。
まず、体調がすこぶる悪い。
吐き気は収まってきたものの、相変わらずの頭痛で歩けそうにも無い。
つまり、トイレから出ることが出来ない。
傍から見れば、
お腹の内容物は出しつくしたというのに、肝心の俺自身が出てこないわけだ。
そして、眩暈。
これは脳の酷使による副作用なのか、定かではないが、きっと違うのだろうと思っている。
なぜなら。
――ぐぅぅぅぅぅ
お腹が極限まで減っているのだ。
今まで生きてきて、眩暈がするまで空腹になったことはない。
一食分を抜くくらいはあったが、それでもお腹減ったなぁ、くらいのもの。
ここまで露骨に栄養不足を体が訴えているのは初体験だ。
確かに、朝起きてからすぐ支部長の下へ向かい、叩きのめされたわけだから、
そのまま瞑想室、トイレと直行していった俺は何も口にしていない。
つまりさかのぼって、昨晩の夕飯から絶食状態というわけだ。
現在時刻は正午をまわって、13時になるかならないか、ってところだろう。
夕飯を食べたのが19時だと仮定して、18時間、飲み食いせず。
感覚では、それくらいで眩暈が起きるような気がしない。
もしかすれば水分をとっていないことが原因かもしれない。
または、脳を解放するのに大量のカロリーを消費したか。
あり得そうだ。
つまるところ、俺は何か口にしなければいけない状態でありながら、
頭痛でトイレから出られないという、まさに詰んでしまっているわけだ。
トイレなので水はあるが、それを口にするのは勘弁願いたい。
……いや、甘えてられないか。
俺はゆっくりとした動きで便器に向かって振り向き、ゆらゆらと揺れる水面を見つめる。
頭痛に顔をゆがめる男の姿が映り、俺はごくりと唾を飲み込んだ。
水だ。
これは水。
そしてこれはコップだ。
そう、少しカタチの歪な、床に固定されたコップだ。
ほら、口をつけるわけじゃない。少し手ですくうようにして、ゴクッとね。
「ぐ……」
自分で自分に言い聞かせるようにしながら、俺は抗っていた。
きちんと清潔にされているトイレだ。
当然水も流したばっかりなので清潔。
いけないことはないのだ。
だが、コレを口にしてしまったら、なにかが終わってしまうような気がするのだ。
しかしここでくたばるわけにもいかない。
一刻も早く体調を復帰させ、鍛錬を積まないと。
水分をとれば、眩暈は治まるかもしれない。
その状態で少し大人しくしていれば、歩けるくらいには頭痛も弱くなるはずだ。
ええい、ままよ!
俺は勢いよく便器の中にためられた水に手を入れた。
くっと指を曲げ、手のひらの器に水をためるとゆっくりと口元へ運ぶ。
ああ、さらば俺のなにか。
――カタン
と、人として大事ななにかを失おうとした瞬間。
だれかがトイレに入ってきた音がした。
こ、これはチャンス?
俺はとっさに手のひらを返し水を捨てると、息を軽く吸い込んで声を出した。
「た、たすけてくれ……」
自分でも驚くくらいに、かすれた醜い声だった。
瀕死状態か、と思わせる程度に弱弱しく、けれどもきっと聞こえるであろう音量だ。
「ん?」
その人は、どうやら俺の声に気付いたようで、反応を示した。
助かった!と思ったと同時に、これは終わったかもしれない、とも思った。
「誰かいるの? 大丈夫?」
明らかに、それは女性の声だった。
なぜだ。なぜここへ女性が入ってくる?
おかしいよな、おかしい。
普通はトイレで異性がばったり会うなんてことはない。
間違えちゃったのかな?
ドジだなぁ。
声を聞く限り、かわいらしい感じの子に違いない。
ちょっと天然で、ほんわかした感じの。
もー、困ったなぁ。
……なんて一通り都合のいいように想像を膨らませた後、サァーっと血の気が引いていく感覚がした。
俺って、ちゃんと男性トイレに入った???
考えてもみよう。
俺は瞑想の副作用で、強烈としか言いようが無い吐き気を覚えた。
すぐそばに、運よくトイレがあったので、必死に走りこんで盛大に吐いた。
こっからがポイントだ。
自分でも、トイレまでたどり着けたのが奇跡といっていいほどの吐き気だった。
そんな状態だったわけで、ぶっちゃけるとちゃんと男性トイレだったかなんて確認していない。
つまり、過去の追い込まれていた自分を信じるか、そこの女性がほんわか天然ドジっ子さんであることを信じるか、だ。
「たすけて……? って、大変じゃない! いま開けるから! 待ってて!」
ああ、なんか助けてくれるみたいだ。
これでトイレの水を飲まないですむ。
人として大事ななにかを、失わないでいいわけだ……。
ギギ、と扉が軋む音がする。
「んん~~~~~」
え? てか、鍵をなんとかして開けようって、力ずくですか?
俺は四つんばいで便器に顔を突っ込んでいるような姿勢で、首だけを回転させて扉を見た。
ミシミシと、とびらがひん曲がり、
バゴォォォン!
と、扉が吹き飛んでいった。
「大丈夫!?」
目に映った茶髪ツインテールの女の子は、俺の姿を確認して、みるみるうちに表情を歪ませた。
「……なんで男がここにいるのよ~~~~~~~!!!!!!」
どうやら、俺は代わりに違うものを失うようだった。
「あは、災難だったねぇ、エル君」
目の前に座っているロズが、苦笑いをしながら言った。
俺はあれから変態扱いを受け、ほんわか天然ドジッ子さん(仮)にぼこぼこに殴られ、
トイレから引きずりだされた挙句、廊下の中央に放り出された。
「コイツ、女性トイレで変なことしていたわ! 正真正銘の変態よ!」
そう叫ばれたものだから、俺は数奇な目で見られ、罵詈雑言を投げ続けられた。
騒ぎを聞きつけて来た人の中に、ロズが居なかったら俺の立場は終わっていたかもしれない。
というか、もう十分なほどに心はぼろぼろである。
もうやめて!とっくにライフはゼロよ状態だ。
ロズのお陰で、俺をぼこぼこにした怪力女(仮)に事情を話すことができ、とりあえず身の潔白は証明した。
「そんなこといいながら、ホントは変なこと目的だったんじゃないでしょうね……」
はずなのだが、完全に誤解を解いてはくれないようだ。
「で、結局なんなのよコイツ。ロズの知り合いなんでしょ?」
長いツインテールを揺らしながら、その子はロズに話を振った。
「ん。そうね、紹介しないと、だね」
ロズはぱっと表情を明るくすると、えへんと咳払いをした。
ここまでの話から察するに、ロズとこの人は知り合いのようだ。
歳はロズよりは少し下って感じがする。つまるところ俺やテラと近い感じ。
ほんわかした声とは裏腹に言葉遣いは荒々しく、控えめに釣りあがった目で俺を睨んでいる。
「以前から噂になってた、シンさんの息子さんの、エル君よ。あたしの部隊に入ることになったの!」
「……! へえ、あの、ねえ」
ロズが簡単に紹介をしてくれると、その子は軽く目を見開いて驚いた様子を見せた。
俺が来る前の噂ってのはどの程度かは知らないが、そこそこの知名度ではあるらしい。
革命軍頭領の血筋ってんだから当然か。
「エル君、この子が以前言ってたクロシェル隊のセレンよ。あたしの親友でもあるの」
ロズの言葉を聞いて、すぐに記憶を辿ってみる。
確か、遠征に出ている部隊で、何者かに襲撃を受けたという話だ。
隊長のクロシェルという人が今日運ばれる、という手筈だった。
そのクロシェル隊長をここへ運びながら、治療もしていたという人が、このセレンという子か。
つまり、このセレンが戻ってきているということは、クロシェル隊長も無事に搬送された、ということだな。
「よ、よろしくおねがいします」
さっきのことがあったので、後ろめたい気持ちを払拭できないままながらも挨拶をする。
「ふん」
しかしセレンは俺の挨拶には応じてくれず、鼻で軽くあしらった。ショック。
「こらっ、セレン! ちゃんと挨拶はしないと! これから仲間になるんだからっ」
と、思ったらロズは納得にいかなかったようで、セレンに向かって声を荒げた。
「いや、そーなんだけど……」
「つべこべいわない! さっきのは誤解だったんだから! やるべきことはやる!」
「は……はい……」
少し反抗して見せたセレンも、ロズに勢いよくまくし立てられ、為す術なく頷いた。
「よ、よろしく……」
セレンは顔を赤らめながら、恥ずかしそうに言った。
目線は見事にテーブルである。
「おねがいしますでしょっ! 一応セレンの方が年下なんだから!」
「えっ、でも軍としては先輩……」
「つべこべいわないっ!!」
「ひっ」
ロズはまるで娘を躾けるかのごとく言い、
セレンは躾けられているかのごとく頷くしかないようだった。
ロズは親友と言っていたが、なんか違う気がする。
「お、おねがいします……」
セレンは諦めたようにぼそりとそう言った。
うつむき加減もあるが、照れている感じがして正直可愛い。
というか、俺より年下なのか。
ここへ来てからというもの、会う人会う人年上なので、意外である。
革命軍では初じゃないか?
隣でロズが満足そうに頷いている。
知り合い同士が知り合いになるというのは、どういう感覚なのだろうか。
ぐぅぅぅぅ~~~~~
と、考えを巡らせている間もなく、俺の腹がもう一度危険信号を鳴らした。
ああ、そういえば、もう、限界だった。
ぐるん、と視界が歪み、まっすぐに保っていたはずの体幹が力なく折れ曲がった。
「おっと」
そのままテーブルに突っ伏しそうになるのを、すばやくロズが支えてくれた。
「うわ、こりゃ大変……」
俺に触れてなにかを察したのか、彼女は呟いた。
暴食の覚醒者には、空腹の状態がわかるようだ。
それがわかったといって、便利には思えないが。
「なに? そんなにやばい感じなの?」
意識の遠くで、セレンの声が聞こえる。
「ん~、やばい感じ。相当酷使してるっぽいし、すっからかん」
「はぁ~。まぁぼこぼこにしたうちにも責任ありって感じか……」
その言葉を聞き終えると同時に、すっと冷たい何かが頬に触れた。
「頼める?」
「食いだめしてきたから……」
「あはは、心強い」
もう何がなんだかわからない状態で、俺の意識はシャットダウンした。
その最後で、頬にふれた何かが暖かい光を放ち始めていた。
意識を取り戻したとき、真っ先に視界に映ったのは見覚えのある天井だった。
「ここは、病室か……」
昨日運ばれてきたのもここだった。
あれからいろんなことがありすぎたため、革命軍に来て目を覚ましてからまだ一日くらいしか経っていないのが信じられないな。
さて、なぜ今俺はここに居る?
確か。
トイレで盛大に吐いて。
トイレで盛大に腹を空かし。
トイレで盛大に誤解され。
トイレの外で話している間に意識を失った?
最後だけトイレの外でよかった。
回想がほとんどトイレだなんて勘弁願いたい。
しかし、目を覚ましてみて思ったことは、空腹感がない。
それどころか、副作用の頭痛ですら、軽くなっているではないか。
もしかしたら、ものすごく長い時間気を失っていた?
その間、点滴かなんかで栄養をとり、時間が経ったので頭痛が治ってきたのかもしれない。
「ぐっ、ならばこうしてられない……時間が惜しい」
俺はもう一度決意を口にして、体を勢いよく起こす。
「こんな状態でなにをしようっていうんだい……」
その台詞と同時に、軽く額をとん、と突かれる。
それだけだったはずなのに、俺は体を支えきれず、ベッドに舞い戻った。
ばふん、という音と共に、再び天井が映る。
「支部長に何を言われたか知らないけど、無理しすぎ」
「テ、テラ……」
テラは、病室で俺を診ていてくれたようだ。
「やると決めたら突っ走っていくのはいいんだけどさ、体壊していたら次がないでしょうに」
「それは……そうだな……」
いつの日か、似たようなシーンがあったのを覚えている。
バカみたいにまっすぐだった俺は、冷静に物事を見ているテラに何度もこうやって宥められたものだ。
「まぁでも、今のエルは、それでもやらなきゃいけない理由が、あるんだよね」
テラは少し悲しそうな顔をして、そう言った。
――テラは、俺と支部長との約束を知っているのだろうか。
それとも、俺の感情を読んで、そう悟ったのだろうか。
「ああ、そういうこった」
俺はゆっくりと体を起こした。
今度は突かれることなく、テラと視線を合わせることができた。
「でも、だめ」
と、思ったら再びつんと突かれ、三度ベッドに倒れこんだ。
な、なぜだ。
「どうして一人で突っ走ろうとするかなぁ」
俺は天井を見上げたまま、テラの言葉に耳を傾ける。
「はじめから僕が色々と教えるって言ってるのに、ね」
そこでハッと気付かされた。
以前食事中に、ロズが鍛錬の話をしていた。
彼女は鍛錬の相手を探していたが、テラは俺を理由に断ったのだ。
つまりテラは、はじめから自分の時間を割いてまで俺を鍛えるつもりだったのだ。
俺には、この上ない話だった。
自分ひとりで、手探り状態で強くなろうとしている現状。
脳の許容量を広げることで精一杯で、中級解放はおろか、初級解放の皮膚硬化や肉体強化すら扱えない。
少なくとも中級覚醒者であるテラに教えを請うことが、
時間の限られた俺にとっての一番の近道だった。
そう、気付かされた。
俺はゆっくりと体を起こす。
流石に三度テラが動き出すことはなかった。
「わりぃ、色々と頭がいっぱいで、周りが見えてなかったみたいだ。助かる」
俺は心を込めて頭を下げた。
こいつには救われっぱなしだな。
「うん。でも、ひとつお願いがある」
テラのその言葉に、俺は顔を上げて首を傾げた。
「エルがとても追い詰められていて、焦っているのはわかる。でもわかるのはその感情だけ。話してくれるかな、事情を」
……テラには人の感情を察する能力がある。
だからきっと、俺が今どれだけの決意を持っていて、どれだけ焦りを感じているかは、手に取るように知っているのだろう。
俺は、一週間もすれば、革命軍として迎えられずに、死ぬことになる。
心のどっかで、流石に殺されはしないだろう、とか思ってないか?
支部長に課せられる、試練を乗り越えなければ、だ。
でも、俺は見たんだ。
あの、支部長の目を。
アレは冗談なんかじゃない。本気だ。
俺は、この話をテラたちに伝えるつもりはなかった。
まず前から言っているが、合わす顔がない。
足手まといにしかならない俺を含めて遠征の計画を立ててくれた3人。
強くなるといいながら、誰よりも怠慢に、甘えていた俺。
テラたちは俺のことなど、そこまで考えていないかもしれない。
俺がいようがいまいが、難なく遠征をこなすくらいには、強い。そんな気がした。
だが、俺自身がそれを許せなかった。
たとえ他の3人が、許してくれても、だ。
そして理由のもうひとつが、俺が命を懸けているからだ。
……誰かの生死に関与したことはあるか?
例えば、医者。
少し診断を間違えれば、その人が命を落とすことがあるだろう。
少し手先が狂えば、その人が命を落とす手術もあるだろう。
彼らは、何を思って人の命を救っているのだろうか。
人の命を救う仕事は、裏を返せば人の命を奪う仕事でもあるのだ。
俺は、この一週間次第で、死ぬかもしれない。生き残るかもしれない。
これが俺だけの問題であれば、なにもこう悩まなくてすむ。
俺の責任で、俺が命を落とすだけだ。
だが、このことを誰かと共有してしまったら。
ましてや、協力者にすべてを打ち開けたら。
テラたちは、俺の命に関与することになる。
それは、酷なことだ。
鍛え損なったら人が死ぬ、という重圧を背負わせることになる。
きっと俺が死んだ後、自分たちを責めるだろう。
あーあ、強くならなかったね、エル。
残念、殺されちゃったね。しょーがない。
めんどくせえ。あいつが死んだのは、あいつが弱いからだ。
……あの三人は、そう言って前を向いて行くのだろうか。
これは俺の希望でもあるが、3人はそんな薄情な人間じゃない。
犯罪者というイメージとはかけ離れた、人間味のある人たちだ。
「……俺は」
正直、言葉を詰まらせた。
本当に、話していいのか。
テラに、俺の命を預けるのか。
テラに、命の責を負わせるのか。
でも、これを伝えなければ、テラは俺を鍛えてはくれない、ということになる。
正真正銘、一人でやるしかない。
一人で命を背負い、一人で生死を決める。
最も易く、最も難い選択だ。
まっすぐに、テラは俺を見ていた。
吸い込まれるような、深い瞳。
俺はこの目に、この親友に何度も救われてきた。
ああ、もうめんどうくさい。
考えるのはやめだ。
俺は傲慢にゆく。
「一週間後、支部長に殺される。遠征に出ても劣らないほどに、強くなれなければ」
俺一人の命くらい、救って見せるだろ、テラ。
――ドタドタドタァン!!!!
俺がそう言い終わった瞬間、部屋に誰かが転がり込んできた。
どこかで見た光景だ。
「なんだい、みんな。また盗み聞きかい」
テラは転がり込んできた二人、グリドとロズを見て言った。
しまったな。聞かれていたか。
「ちょ、ちょっとちょっと、ソレってほんとなの!?」
ロズはあわてて立ち上がると、そう言い寄ってきた。
「あの支部長が、エルを殺す……?」
グリドは腰を床に下ろしたまま、頭を掻きながら言った。
なにか疑問を抱いているようだ。
「うーん、支部長がそんなことをねぇ……。熱血で、厳しい人だとは思うけど……確かにそう言ったんだね?」
テラは、真剣な表情でそう確認してきた。
「ああ。間違いない。あの目、あの言葉は、本気だった」
俺の答えに、3人は神妙な顔を浮かべて、それぞれがふぅと息を吐いた。
「まぁ、やることは変わんないんじゃない? 治癒ならあたしができるし」
ロズはぱっと笑顔を浮かべ、いつものように元気に。
「そうだね。これも1つの運命、かな」
エルは前髪をかき上げながら、いつものようにキザに。
「めんどくせーが、力になってやるよ……」
グリドはあくびをしながら、いつものように眠そうに。
ああ、なんて頼もしいのだろう。
なんて温かいのだろう。
これが、仲間か。
困難に出会い、そして共に乗り越えていく。
「みんな、ありがとう」
俺は決意を改める。
強くなろう。
一人ではなく、仲間たちと共に。




