第36話 押し倒されて
史華は目をパチクリさせる。キスの時には目を閉じるものと思ってはいるが、こんなふうに不意打ちを食らったらどうしたらいいのかわからない。
混乱しているうちに、優しくそのまま押し倒された。
「……ま、待って、悠さんっ!」
唇が離れた隙に史華は叫ぶ。弁当箱を落とさないようにと律儀に握っているために手が自由にならない。押し返したいところだが、この状況では無理だ。
制止を望む史華を無視して、悠はもう一度唇を重ねる。
深い、大人のキス。
「んんっ⁉︎」
どうしてこういう状況になったのか、全く思い至らなかった。強いて言うならば、距離が近くて、ベッドに腰を下ろしていたから、ということだろうか。
でも、待って待って! 悠さんは見舞いに来てくれたはずなのに、なんでこんな……。
無理やりのはずなのに舌使いが丁寧で心地よく、抵抗する気持ちが次第に失せてくる。熱が出てきたみたいにぼうっとしてきた。
あたし……なんか、変……。
やっと唇が離れて、史華は浅い呼吸を繰り返した。
「……風邪、うつしちゃいますよ?」
ぼんやりとした視界に悠の姿が映って、史華は寝転んだまま注意する。ただでさえ、昨日のキスで風邪をうつしてしまっていないか心配したのに。
「うつして治すって方法も有名でしょ? 気にしなくていいよ。――でも、本当に風邪をひいてしまったら、看病してくれるよね、史華ちゃん?」
誘惑されているように感じるのは、まだ熱が完全にひいていないからだろうか。悠の甘い声にクラクラしてくる。
「そのときは……まぁ、考えます」
彼を見ていたら流されてしまいそうで、史華は顔を横に向けて視線をそらした。
病み上がりだというのに、長い時間一緒にいたらそれこそ風邪をうつしかねない。ここはお引き取り願おう。
「悠さん、あたし、ちゃんと食べ終えましたから、用事、済んだでしょう? もう帰ってください」
薬は彼が帰った後に飲めばいいと思った。見送るために立ち上がるつもりだし、そのついでに台所に寄ればいい。
「――俺は後悔しているよ。昨日、家に帰すべきじゃなかったって」
空の弁当箱とスプーンを史華の手から取り上げてどこかに置くと、悠はその手を掴んで頭上にまとめた。
「悠さん?」
両手が頭の上で拘束されている。腕を封じられてしまったことに驚いて、史華は悠を見上げる。
何が起こっているの?
「ずっと心配したんだ。連絡が届いたら、すぐにでも駆けつけるつもりでいたんだ。だけど君からは連絡はない。僕は君の連絡先を知らなかったから、余計に心配したよ」
「あ、それは……ごめんなさい。家についてすぐに寝ちゃって……起きたら深夜だったから、連絡したら悪いかなって思って」
嘘はついていない。
ほんの少しだけ仮眠するつもりが、起きた時には日付が変わる頃になっていた。仕事の調整をしていたら日付が変わってしまったし、悠の仕事に支障をきたすようなことをしてはいけないと思って連絡を避けたのだ。
心配させたことは申し訳なく思うが、それとこの状況が結びつかない。
「俺は君の彼氏になりたいんだよ、史華ちゃん。困ったときには、時間とか仕事とか関係なく頼ってほしい」
「そ、そんなこと、できませんっ!」
ひょっとして、悠さんは仕事を放り出してここにいるの?
今は平日の昼間なのだということを今さら思い出す。本来ならこんな場所にいてはいけないはずだ。
「お気持ちはとても嬉しいですけれど、大人なんですから! 悠さんは社長さんなんですし、そんなわがままを言ったら――んっ⁉︎」
黙れと言っているかのようにキスで言葉を封じられた。角度を何度も変えながらの激しい口づけの嵐にあって、史華は抵抗できない。
あたし、怒らせた? だけど、悠さんが社長なのは本当だし、凄腕らしいこともお見合いの場に連れて行かれてわかったわけで、そんな実績を壊すようなこと、あたしのためにしてほしくはない……。
唇から離れて安堵した瞬間、首筋をきつく吸われて身体が震えた。
「やっ……ダメですっ、悠さんっ!」
風邪による熱なのか、それとは別のものなのかわからない。最近読んだ小説の知識で、男女の営みにおける身体の反応は言葉としては理解しているつもりだった。だけど、それがいざ自分の身に降りかかるとなると、少しは覚悟を決めていたはずなのにパニックになる。
「悠さん……っ」
全身を血が駆け巡っている。心拍数が増えているからだ。
「やっ……やめて……」
怖い。
そう感じているが、恐怖の対象は悠だけではなかった。自分の身体の反応に戸惑って、このまま身を任せてしまってもいいのかどうかが怖い。
「……黙っていないで、何か言ってください、悠さん……じゃないと、あたし――」
肩から耳の後ろへと舐め上げられて、史華は声を上げた。身体が震える。
「はぁ……悠さん……」
怒らせただけじゃないのかも知れない。
嫉妬?
悠は無理やり迫るような人ではないと、こんな状況でも史華は信じていた。因幡がするような、力でねじ伏せるような真似はきっとしない、と。
今までだって、多少の不意打ちはあったけれど、少しは強引な面はあったけれど、ちゃんと史華のことを見ているように感じられたし、だからこそ押し切るようなこともしてこなかったのだと思ってきた。
だけど、今は。
史華を見ながら、別の誰かを見ているような――そんな気がしてきた。
「悠さん、あたし、あなたを嫌いになりたくないんです……だから、これ以上は、お願い……」
やめてもらえるだろうか。悠との思い出が全部キラキラしたものであってほしいと願うことは、許されないことなのだろうか。
「史華ちゃん……」
ハッとした顔をして、悠は史華の拘束を解いた。




