第18話 ジェットコースターロマンス?
ついにこの日を迎えてしまった。
約束の土曜日のお天気は良好で、小春日和というのはこういう気候のことを言うのだろう、なんて史華は思った。
風も弱くて、陽射しはほんのりと暖かくて、きっとオープンテラスでカフェをしたらさぞかし気持ちが良いにちがいない。紫外線はちょっとは気になるけど、将来のシミやソバカスの心配よりも今の心地よさを史華なら取る。だって、勿体無いではないか、こんな良いお天気に恵まれることなんて、そうたくさんあるわけじゃないのだもの。
「はぁ……なんで愛由美とじゃないんだろ……」
七時には起きてしっかり朝食。それからきっちりおめかしだ。
前日から肌の手入れはしてあったし、メイクもバッチリ。清掃員の仕事中はほとんどスッピンに近いメイクだから、今日はいっそう気合いが入る。滅多に使わないマスカラで睫毛を盛って、目ヂカラをアップさせてみたし。平々凡々な日本人の顔なので、目元くらいはしっかりさせておきたいという表れだ。口紅はグロスをつけてぷっくりと。愛由美が教えてくれたテクニックがこういう時には役に立つ。とはいえ、どんなに頑張ったところで元の顔の問題もあるし、化粧はそんなに上手ではないため、モテる顔にはなりようがないのだけど。
服は謝恩会で一度だけ着たカジュアル過ぎずフォーマル過ぎない桃色のワンピースに、ジャケットを合わせて。成人のお祝いにと母からもらったジルコニアのネックレスも身につけて、地味になりすぎないように。イヤリングは好きじゃないのでつけない。ピアスは穴を開けていないからできないし、穴を開けてまでしようとも思えなかった。社会人デビューのお祝いに父からもらった腕時計をすれば、準備はこんなものだろう。
最後に鏡を覗き込み、髪が跳ねていないかのチェックも怠らない。
「……行くか」
これから悠と会うと思うと気がのらない。だが、化粧して服もきちんとすれば、武装しているようなものだ。会って、食事して、帰るだけ。心配はいらないはずだ。
史華はリビングのデジタル時計が待ち合わせ時刻の十五分前を示しているのを見ながら、自分が持っているバッグで一番高価なブランド品のポシェットを掴んで家を出た。
本当に良い天気だ。空気が気持ち良い。それだけで憂鬱な気分を消し去ってくれる。
待ち合わせの場所には、やはり町並みに不釣り合いな高級車が停車していた。悠の車だ。
「おはよう、史華ちゃん」
史華の姿を見つけるなり、悠は降りて笑顔を向けた。
「おはよう……ございます」
降りてきた彼のスマートな動きにも見とれる要素はあったが、その衣装もシンプルながら高級感の漂う装いでうっとりしてしまう。こんな人と食事をするなど、おそらく人生でもう二度とないことだろう。
人生経験だと思って、今日は乗り切ろう。
いつまでも憂鬱だと心の中で呟いていては、もてなそうとしているらしい彼に悪い。滅多にない機会だと割り切り、楽しむ努力をしようと決める。
「仕事をしている時も素敵だけど、今日の格好は可愛いね。ちゃんと言ったとおりにめかし込んできてくれたんだね」
史華の爪先から頭まで見ると嬉しそうに微笑んでくれる。まじまじと見られると恥ずかしい。思わず視線を外す。
「そりゃあもう……緒方社長の隣に並ぶわけですから……」
「ん、呼び方、戻ってる」
手をすっと引かれたかと思うと、耳元に彼の唇がやってきた。
「は、る、か、でしょ?」
一音一音をはっきりと告げる声が何故かセクシーに聴こえて、史華はぞくりとした。心拍数が上がり、熱が出そうだ。
「で、ですけど、仕事のお礼の食事だったら、お仕事の延長ってことでしょう? だったら、公私はきっちりしておかないと――っ⁉︎」
唇を人差し指で押さえられてしまった。グロスに指が触れて少しぬるりとした感触がする。
指先が汚れたのも気にせず、悠は会話の主導権を強引に奪って続ける。
「休日に残業はしない主義。休む時はしっかり休まないと、身体に悪いからね」
その台詞に、少し引っかかりを感じた。顔は微笑んでいるし、しかも至近距離だし、史華を困らせるには充分なイケメンではあるのだけど。
なんだろう。頑張りすぎて倒れたことでもあるのかな?
心の中で言葉にしてみて、彼の台詞に戒めの気持ちを感じ取っていたことを自覚する。仕事に対して真摯に向き合う姿勢を、史華は彼から感じていた。社長として仕事をしてきた中で、何かがあったのかもしれない。
それはそれとして。
悠の右手を自分の唇から離した史華は、ポシェットからハンカチをすぐに取り出して先を拭う。濡れたように光る指先を見てエロティックな妄想が広がりそうになるのを、台詞を返すことで抑えた。
「じゃあ、あれは口実だったんですか? また、あたしを騙して」
「騙したんじゃないよ。反故にしただけさ」
「同じことです!」
「それに、予定変更になってしまったし」
申し訳なさそうな声に、史華は彼の指先に向けていた視線を均整の取れた顔に移す。
「変更?」
デートは中止ということだろうか。
せっかくおめかししたのに――とがっかりする自分に気付いて内心で驚く史華に、悠は続ける。
「二人っきりの食事会の前に、一件、野暮用に付き合っていただけないかな?」
「や……野暮用、ですか?」
「君にしか頼めないことなんだ。お礼はするから」
君にしか頼めない――そう言われてしまうと、その文句が常套句だとわかっていても、仕方がないなという気分にさせられてしまう。「なんで、あたしなんですか」と、いつもなら返していそうなのにそうしなかったのは、彼に飲まれていたからだろう。
「……すぐに終わるんでしょうか?」
「うん。すぐに終わらせるよ」
「なら、わかりました」
「じゃあ、急ごうか」
自然なエスコートに身を任せて助手席に乗り込む。
野暮用がなんなのかをちゃんと聞いておくべきだったと後悔するのは、これからきっかり二時間後のことだった。




