純白
ミーレミレドーソー、だな、と思う。
音は途切れた。
小高い丘の上に立つ病院。無数のベッドが並ぶ入院室。見渡す限りの白に、仰ぎ見る天窓からの薄青。
医者の姿は見当たらない。何日が過ぎただろう。狂いなく恐ろしいほどの静寂さを保つこの空間で、死んだように横たわる人間と、生きているかのように稼働する機械だけが奇妙な共存を果たしていた。
途切れた音の意味は、誰しもが理解していた。音の切れ目は、同時にふたつの生命の切れ目。役目を果たしたきり、もう喋ることはない。
波のようにいくつかが鳴り響くときもあれば、ぽつりぽつりとひとつだけが聞こえてくるときもある。ただ等しく、消えてしまったら最後、戻ることはない。正確に、正確に、ひとつひとつの電池が切れてゆく。
希望的な思考は、とうの昔に捨てていた。絶望の感覚をどこかへ投げやったのはいつだ。諦めという言葉も、紙面の文字のように単調である。
どこまでも明るい白。
その中に、他のものが混ざる余地などありはしない。
響いたのは、子供の声だ。
ど、れ、み、ふぁ、そ、し、ど。
歌いながら白い洪水の中を駆け回る赤が、横を通り過ぎる。
「ソの次は、ラだよ」
声が駆け寄る。覗きこまれた瞳の無邪気さに、人間らしい心を取り戻せそうな予感を覚えた。
「なあに、なんて言ったの?」
私は、同じことを繰り返してきかせた。
「ふうん、なんかそれ、あたしどうでもいいなぁ。
これ、お医者さんにやられたの?」
彼女は、私の点滴の針のことを言ったようだった。もっとも、針の先からだらりと垂れ下がったチューブからは、だいぶ前からなんの供給もなかったが。
「ああ、そうだよ。君、動けるのならその、医者を呼んできてくれないか。何日も前から誰の姿も見えない」
「どうして? お医者さんなら、もういないのに」
明るい声での返答に、目が眩んだ。外はどうなっているのか、君はなぜここにいるのかと尋ねると、少女は丸い目でしげしげと私を見つめた。
「お注射って、痛い?」
なんだってこんな時に、とだんまりを決め込むと、お注射って、痛い? と再び声が響いた。
「痛いよ。でも仕方が無い」
「痛いのやだよね?」
「そりゃあ誰だって、痛いのは嫌だろうさ」
それを聞くと、少女はよかったあ、ころころ笑った。
「よかったって、なにがそんなに笑うほどよかったんだい?」
「あたしも、痛いのやなんだ。だから、お注射も、お注射をするお医者さんもいやだから、なくなればいいなあ、って、思ったの」
少女は、ベッドの柵に肘をあずけながらまた、ころころと笑った。
「そしたら、なくなっちゃった」
長らく活動のなかった顔に、気味の悪い汗が伝ってゆくのを感じた。
「返してくれないか。医者を、今すぐ。今すぐにだ」
「いやだよ。だって、お医者さんが帰ってきたら、お注射しなきゃいけないもん」
「病院みんなが困っているんだよ。なんだか知らないが、返してくれ」
ぴたりと、少女の笑い声が止んだ。
「みんなが困ってるの?」
「そうだ。戻ってこないと困るんだ。だから」
「お注射しなきゃいけないのに、お医者さん呼ばなきゃいけないの?」
「頼む、お願いだ。とにかく医者をすぐに戻して欲しいんだよ」
「どうして私がお注射をしなきゃいけないの?」
無垢な笑みが、わかったあ、と目の前で叫ぶ。するり、と柔らかそうな髪が動いた。
「困ってるみんなが、消えちゃえばいいね」
白が崩れ落ちてくるのが見えた。
ミーレミレドーソー。
ミーレミレドーソー。
白に白が押しつぶされる音を聞いた。
ミーレミレドーソー。
ミーレミレドーソー。
「待て、待ってくれ」
機械音の合唱の中をすり抜けていく赤に口を動かしたが、もう足音は帰ってこない。
ミーレミレドーソー。
ミーレミレドーソー。
ミーレミレドーソー。
狂いなく危機を知らせる無数の機械が、狂った空間を彩るようにして白の中を埋め尽くしていた。白が崩壊した跡地で、薄青が空間を照らしはじめていた。
眩しさに目を閉じる。
ミーレミレドーソー。
さいごに、隣で聞き慣れたその音を聞いた。