サイドストーリー.1-2
とても静かな夜。
啜り泣く声が聞こえた。壁一枚隔てていたが、その弱々しい声は聞こえた。助けを求めていた。
華凪(七歳)は、そっとベッドから抜け出し、自室を出て横の部屋のドアの前に立った。ここには、二年前に父親の英一が連れて来た少年が住んでいる。
かなり変わった少年だ。瞳は赤く、無口で、笑わず、小学校の上級生四人を相手にケンカして勝つくらい強い。
強いのに、弱い。
両親を起こさないよう、音を立てないようドアを慎重に開けた。
啜り泣く声が、ドアの隙間からハッキリと聞こえた。
ドアを閉め、ベッドに歩み寄った。
「……黒希」
少年の名を呼ぶと、彼は布団の中からひょこっと顔半分を出した。
悲しげに揺れる、赤い瞳がこちらに向けられる。
「また、怖い夢?」
これが初めてではなかった。最近は、しょっちゅうこうだ。
「……」
黒希(七歳)は何も言わなかった。
華凪は黒希のベッドに潜り込んだ。向かい合わせに横になる。
「えへへへ」
華凪は、思わず微笑んだ。
黒希の布団の中は、涼しかった。熱帯夜を乗り切るのにはぴったりだ。ついでに言うと、黒希の体も冷たい。
黒希は何を笑っているんだと言いたげな表情を見せた。
華凪は、布団の中で黒希に体を摺り寄せた。彼の体は、微かに震えていた。寒さで凍えているのではないと、すぐに解った。何故だか、解った。
「……怖いの?」
「……」
彼は黙ったまま。だが、彼の赤い瞳が応えた。怖いと応えた。華凪はそれを読み取った。
「何が怖いの?」
「……」
「答えて。今度は、私が君を助けてあげるから」
「……」
黒希は一向に何も言おうとしない。
ふと、華凪はカーテンの下から覗く夜空に目を向けた。
「そうだ。星を見に行こう」
真夜中に、二人の七歳児が親の同伴もなく外出する。不審者に襲われそうな絵面だが、華凪は不安など微塵も感じていなかった。
黒希がいるから。
二人は手を繋ぎ、華凪はある場所へと黒希を連れて行った。
人気のない、防波堤。たまに聞こえる車が走る音以外は、波が防波堤を打つ音しか聞こえない、そんな場所。
立入禁止の看板を横切り、防波堤の上に登る。二人並んで、防波堤に腰掛けた。
「ねぇ、黒希」
「……」
「この前さ、私を助けてくれたよね」
「……」
「すごく嬉しかった。だから、今度は私が黒希を助けたいんだ」
「……」
黒希がこちらを見る。相変わらずの無表情で、感情が欠けてしまっているかのよう。
「どうすればいいかな」
「…………な」
黒希の唇が微かに動いた。
「え?」
「俺に聞くな」
「……」
華凪は唖然とした。
「……喋れるの⁉︎」
黒希が家に来て二年。彼の声を初めて聞いた。
急に大声を上げたことで、黒希はビクッと肩を震わせ、小さく頷いた。
「お話できるなら、もっと早く言ってよ」
「……」
「どうして悪い夢を見るのか教えて。私が何とかしてあげるから」
「……無理だよ」
黒希は、風に掻き消されそうなほど弱々しい声で呟いた。
「どうして?」
「お前みたいな弱い奴は、何もできない」
「……む」
否定できないことが悔しい。
「それなら、私が黒希を助けられるほど強くなればいいんだ」
「……どうやって」
「勉強とか運動とか、私、一生懸命頑張るから。みんなにバカにされないように」
「……」
「ね? 黒希だって追い抜いてやるんだから」
自信満々に華凪は宣言する。
「……どうして」
「何?」
「どうして、そこまでする」
「だって家族じゃない」
その時、黒希の瞳が見て取れるほど強く揺れた。
「……違う。お前は、家族じゃない」
黒希は否定した。その声は、怒っているようで、悲しんでいようで。
「んー、じゃあ、恋人ってことで」
「……」
「えぇと……あ」
華凪は辺りを見回して、防波堤の下にある物を見つけた。
「ちょっと待ってて」
華凪は立ち上がって、防波堤の下に飛び降りた。
釣り人が置き捨てた物と思われる空き瓶が転がっていた。
それを手に取り、黒希の横に戻る。
「それで何する気」
「見てて。それっ」
空き瓶の口を持ち、防波堤の淵に叩き付けた。それで、空き瓶は凶器となった。
そしてそれを、華凪は自身の右手を突き刺した。
華凪が痛みに顔を歪めた。
「何してんだ!」
黒希は慌てて止めた。
「わっ⁉︎ だ、大丈夫だよ。ほら」
華凪は黒希を安心させるため、右手のひらを見せた。
小さな赤い点ができていた。
深い傷ではなさそうだ。
「黒希は左手」
と言って、瓶を差し出す。
「何で俺まで……」
「いいから」
黒希は瓶を受け取り、左手を刺した。
痛みに少しだけ顔を歪める。
黒希が瓶を置くと、
「手を合わせて」
「……」
訳も分からないまま、黒希は華凪の右手に左手を合わせた。
すると、華凪は黒希の手が離れないように手を握った。
「昔、本で読んだんだ。こうすれば、約束は絶対に破れないって」
「どんな本だよ……」
「忘れた。それより、約束。私は黒希を守れるよう強くなる。だから黒希は……えぇと」
華凪がうぅんと悩み始める。
黒希はその様子を黙って見ているだけ。
やがて、
「黒希みたいな人でも笑って過ごせる世界を作る。これ、私の夢でもあるからね。黒希は私の夢が叶うのを手伝ってよ」
そんなことを言い出した。
所詮、子供の戯言。黒希は適当に頷いた。
「決まり! 約束だよ」
「約束……する」
満点の星空の下。
幼い二人は、約束を交わした。