赤の章 第4節
咲の手を縛る鎖を右拳で叩き潰し、彼女の体を抱き上げて、迫る炎の壁に背を向け走り出した。咲の体は、少しだけ震えていた。無理もないが。
「光助……どうやってここに」
「印を辿って来た」
「印って……」
「フレイヤさんがつけたんだ。訊くってことは、お前は知らなかったのか?」
咲は小さく頷いた。
「それはともかく、間に合ってよかった」
と言うと、咲の表情が暗くなってしまった。
「ごめんなさい……私、何もできなくて」
「……」
彼女が何に対して、こんなにも負い目を感じているのかが、光助は瞬時に理解した。
無力感だ。それを、自分自身よく知っている。今でも、それを感じることがあるくらいだ。
裏口から工場を出て、咲を下ろした。
「お前、それって戦いたいってことか?」
「光助ばっかり傷付くのは、嫌だよ……」
「俺は、お前が戦うのはもっと嫌だ。家族を守るために俺は戦ってるんだからな。俺のためを想ってくれるんなら、そのままの咲でいてほしいな」
そう言ってやっても、咲の表情はあまり優れなかったが、無理やり作った笑顔を見せてくれた。
「わかったよ」
「……よし。早くこっから……」
言葉の途中、何処からか銃声がした。
光助の左腕から血が流れ出る。
「ゔッ……」
「光助‼︎」
光助は右腕で咲を抱き上げて、銃声がした方とは反対方向へ全力で駆け出した。
「大丈夫だ。これくらいすぐに治る。それより咲。後ろに誰かいたか?」
「う、うん。男の人が二人いたよ」
「どうして撃ってくるんだよ……」
呻くように呟いた直後。
今度は前方から車が突っ込んできた。
あまりにも咄嗟な事に加え、後方から銃を持った男達が迫ってきている現状に焦り、混乱していたものだから、光助の思考に一瞬の空白が生じた。
気が付けば、車体は横を向き、走るではなく滑るようにして二人にぶつかる寸前で停止した。
「早く乗って!」
運転席でハンドルを握っていたのは、なんと叶だった。
慌てて車に乗り込むと、尚も止まない弾丸の雨が車体を襲った。
光助は咲の上に覆い被さるように伏せ、叶は姿勢を低くし、しかし前方を見ながらもアクセルを踏み車を発進させた。
銃声が遠のくと、叶はヒビ割れたフロントガラスを手のひらで押し除けた。
光助は背後を見て、追っ手がいないのを確認して息を吐いた。まだ安全と決まったわけではないが、一息つかなければ緊張で窒息死してしまいそうだった。
「ケルベロスは?」
「倒した」
素っ気なく叶は言った。
「……倒した? 上級悪魔を? それも、たった一人で?」
光助の頭には、もう困惑しかなかった。
「そういうのは後。今起きている事について話し合うのが先だ」
すると咲が、
「ナイトメアっていう悪魔がみんなを操ってるって光助が言ってた」
「……え? 俺何も言ってないぞ?」
その言葉に、咲はハッとして、
「ごめん……夢に出てきた光助が言ったの」
と訂正する。
「それ、確かなの?」
「うん」
めずらしく自信のある声。震えてはいるが、いつにも増して強気だ。
「だとしたらマズイな……」
「何がだ?」
「この街の一点に大量の人が集まってるんだ。もしそれが何かの儀式だとしたら……」
言葉を濁す叶。
彼女が言わんとしていることは、二人も薄々ながらも感じ取っていた。
「場所を突き止めてんなら、そこに踏み込んでナイトメアっつー奴を止めればいい」
「この街の住民を相手にするの?」
「う……」
流石に無理か。
「叶の幻術は? 光助は幻術はより強い幻術で対抗できるって言ってたよ」
「それも夢の中の俺が?」
「うん」
「どんな夢見てたんだよ……」
「後で話すよ。叶。広い範囲に幻術をかけることってできるの?」
「この街を覆うのは無理だけど、そうだな……二百メートル程度ならできると思う。何する気……あ。なるほど」
自己解決し頷く叶。
光助は自分だけが取り残されたようで嫌になり、
「なんだよ。作戦でもあるのか?」
「幻術は、より強い幻術で打ち消せるんだよ」
いわゆる相殺、というやつだ。
「……ん。待てよ。それじゃあ、こっちの幻術の方が強くなくちゃダメだよな?」
「大丈夫だよ。叶がいるもん。ね?」
「ん」
「住民はよしとして、悪魔の方はどうする? そいつが残ってるんじゃあ、また誰彼構わず操るかもしれないぞ」
「先に住民の方に幻術をかけて動きを止める。それからナイトメアを叩く。私は住民の方を意識しながら戦わなくちゃいけないから、光助は私のカバー。一応は戦えるんだよね?」
「当たり前だ。地獄で鍛えたんだぞ? 見てみろこの筋肉を」
パーカーの袖をまくり、それっぽいポーズを取る光助。
「わぁ。すごいね光助」
と、咲は驚くが、一方の叶はフロントガラス越しにこちらを見て目を逸らし……と思ったら目を見開いて二度見してきた。
「アンタそれ、血?」
「ん? あ、忘れてた」
さっき撃たれた痕だ。もう治っている。
「忘れてたって……大丈夫なの? 傷はすぐに治るって聞いたけど、痛みは?」
「これくらい平気だって」
肩を回してみせる。チクリと痛むがその程度だ。撃たれた時のようなひどい痛みはない。
「それで、これから何処に……」
爆音を伴った一瞬の光に、光助の言葉が掻き消される。
車体が大きく揺れた。その衝撃で、後部座席にいた二人の体が前部座席に叩きつけられた。
「痛ぇ……二人とも、平気か?」
「うぅ……重いよ光助ぇ……」
真下から咲の声がした。下敷きにしてしまったようだ。
「あ、ごめん」
シートに上がり、咲を引っ張り上げる。白いワンピースに土埃などが付いてしまっていた。
「それより、何だったんだ今の……叶?」
前の席に、叶の姿がなかった。
割れたフロントガラス部分から見えるのは、軒並みの屋根。車体が上の方を向いて傾いているようだった。溝にでもはまったのか。
「ねぇ、この音……さっきからゴロゴロ鳴ってる」
咲が両手を耳で塞ぎ、怯えた様子で言ってきた。
「雷、だよな」
さっきの眩い閃光も、恐らくは落雷。目の前に落ちるなんてよっぽど運がなかったらしい。
ともかく外へ出ようとドアを押すが、
「……む」
ビクともしない。
すると、
「窓から出てきなよ」
いつから見ていたのか、叶が声をかけてきた。
咲を先に出してやり、光助も外へ出た。やはり、車は道路に生じた亀裂にはまっていた。それにしても、落雷でこんな穴ができるものだろうか。
「これ、どう考えても普通じゃないよね」
不規則に閃く灰色の雲を見つめる叶。
それに並んで辺りを見る光助の背に張り付く咲。もちろん、避雷針でもない背の高い彼の背後に隠れたところで落雷やその雷鳴を回避することはできない。
「地震に落雷。世界の終わりでもくるのか?」
あちらこちらからの雷鳴が緊張感を煽ってくる。
「早くナイトメアを止めないとな。で、そいつは何処にいるんだ?」
「奴は……」




