17
「……」
黒希は、お気に入りの場所である防波堤の上に寝転がり、青空を泳ぐ雲を見つめていた。
あの仕事の日から、早くも八日が経っていた。
帰ってからずっと、一日の大半をこの場所で過ごすようになっている。
この場所にいると、不思議と心が落ち着いた。何も考えずに済んだ。頭が痛くなる悩みも、幻のように消えた。
まるで、この場所だけ現実から隔離されているようだと、黒希は思う。
現実逃避。つまりは、そういうことだ。現実という理不尽な存在を忘れるために、どうにでも描き変えられる夢に浸る。
良い気分だ。
仕事に勉強、面倒なことをせずに済む。
このまま、ずっと何も起こらず、夢が現実になればいいのに。
「……はぁ」
まぁ、自分の場合、夢が現実になったとしても悪夢に変わりないが。
「ため息なんか吐いて、どうかしたの?」
「……」
もう一つの悩みの種が来た。
華凪の声がしたと思うと、視界の上から華凪が顔を出した。
「最近ため息が多いね。何かあった?」
「……別に」
答えると、華凪は黒希の頭の横に腰を下ろした。心配そうな眼差しで黒希の顔を見て、
「本当?」
「何もないって。しつけぇぞ」
と言って、黒希は右腕で目を覆った。
「悩みがあるなら……」
「しつこいぞ。何もないって言ってんだから構うなよ」
鬱陶しそうに、黒希は言う。
それに、華凪は水平線に目を向け、
「ねぇ黒希……私、まだ弱いかな」
「……何だよ急に」
「七歳の時にした約束、覚えてる?」
「……いや」
黒希は反射的に恍けた。覚えていたが、あまり思い出したくなかった。
「私が君を守るって約束だよ」
恥ずかしげもなく華凪は言った。
「それか。で、約束がどうした?」
「それで、その……私、どうかな?」
「何が?」
「強いか弱いかで言ったら、どっち?」
弱い。頭ではそう思って、口では、
「よく頑張ってる。優等生が通う学校で成績はトップクラスだろ? それに、運動だってこなしてる。水泳部の大会では優勝しただろ」
華凪は、生徒だけでなく教師からも評判がいい。絵に描いたような優等生だと皆が口を揃えて言う。
「……はっ」
自分という不良の隣に、そんな優等生がいるという事実が滑稽に思えた。
「何?」
「別に。それより、お前はよくやってると思う。本当だ」
その言葉に、華凪は嬉しそうに微笑んだ。
「えへへ、ありがと。でも、君はまだ私を認めてくれてないよね?」
「どうしてそう思う?」
「悩みを打ち明けてくれないから。私じゃ役に立たないって思ってるんでしょ?」
「……いや」
つい間を空けて答えてしまった。
彼女の前だと、仕事の時のような調子が出ない。
「ほら。悔しいけど、君に認められてないってことは、君から見た私は、まだ弱いってことだよね」
「無理しなくていい。自分の身は自分で守れる。お前に心配されるほど、俺は弱くない」
「ふーん。昔は弱虫だったくせに」
悪戯っぽく、華凪は言った。
「むし返すな。今は……」
言葉の途中で、口を噤んだ。
昔と何一つ変わっていない。今でも悪夢を見るし魘される。
「今は、何?」
「昔とは違う」
「そう? 今でも、たまに魘されてるでしょ? ちゃんと聞こえてるんだよ」
本気で心配しているのだろう。声で判る。
「どんな夢なの?」
黒希は小さく息を吐き、
「お前が出てくる。恐ろしい顔で追っかけてくる夢だ」
真実を含ませず、冗談だけで答えた。
華凪は、からかわれたのだと直感し、頬を膨らませた。
「正夢にしてあげようか?」
「勘弁しろよ」
「もう、真面目に答えてよ。真面目に訊いてるんだから」
「話す気はない。お喋りしたいなら、家に帰って母親としたらどうだ?」
華凪の母、白銀美花は帰国して、今は家にいる。
「黒希も家族だよ。家族の悩みは、みんなで協力して解決しなきゃ」
「俺は、お前らを家族だとは思ってない」
「私は想ってる。だから、話してよ」
駄々をこねるように、華凪は言う。
「……俺の意見は反対だ」
と言って、右腕を少し上げた。華凪がどんな表情をするか気になった。
華凪は寂しそうな表情を浮かべていた。
「……そっか」
彼女の声は、少し震えていた。
「……」
言い過ぎた。気付いた時には、華凪は立ち上がっていた。
「そろそろお昼ご飯にするから、帰って来てね」
「……分かった」
防波堤から降り、歩く華凪の後ろ姿を黒希はじっと見つめていた。
「……何してんだか」
小さく呟き、唇を噛んだ。
自分の卑劣さに嫌気がさす。
黒希はゆっくりと立ち上がり、家に帰ることにした。




