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胡蝶の放課後。

「あのね、好きなの」

 目が覚めるような、しかし級友が突如前振りも無しに虚空へと投げかけた夢のような、であるからその言葉を受け止めうる人影が私しかいないことを確かめたのちに私は戦慄した。夕刻の、がらんどうの教室に残っているのは私と彼女だけで、それで否が応にも彼女の言葉の大体は、独り言を除いて私に向けられるものであって、それに彼女は独り言を多発する類の人格ではない。

 私は告白されたようである。相手は級友の女性だった。

「……ムツガイ、その言葉は私に向けて言ったのか?」

「他に誰がいるのかな?」

 ムツガイは揃えた膝の上で小さくこぶしを作りながら、目線は上目遣いに、瞳は熱を持って濡れている。先ほど水を入れ替えたばかりの花瓶の花、担任教師の趣味でロッカー上で飼われるグッピー、それから、開かれた窓ではなく、細いわずかな隙間しかない廊下側のドアから忍び込んできた物好きな羽虫がこの教室で生きる私たち以外の全てだが、私を見つめて潤む瞳を見る限りにおいて、彼女の今の台詞が「あのね、(グッピーが)好きなの」とかでないことは容易に想像できた。

「好き、とは、恋愛感情としての、好きか」

「……そういうこと、聞かないでよ、恥ずかしいんだからっ」

 そういってますます頬を赤らめるムツガイは私の目にも確かに魅力的に映って、そもそも彼女とはクラス替えがあった半年ほど前から仲良くしているから、私としては彼女に対して悪い印象など持ち合わせる理由はなく、しかし私が彼女に好かれている理由については見当がつかないので、私は首をひねる他なかった。

 この級友、ムツガイは、立ち居振る舞いのとことんまでが私のイメージする「女の子」そのもので、必要なところで可愛く、必要なところで賢く、また必要なところで愚かな少女である。その比率の完璧さといえば黄金比と言って差し支えの無いもので、どれほど美しいとされる数式を前にしても見劣りしない、そして彼女の魅力とはその比率だけに留まるものではなかった。派手すぎず、しかし埋もれすぎることなく、淡く光る水玉のような、ムツガイの持つ雰囲気というのが、それにあたる。あれはまさに、他に例を見ぬと言い切るに足る特徴であった。

 もう一度、重ねて言う。私が彼女に好かれている理由に、とんと見当がつかない。先に言ったとおり、私とムツガイが相応に仲良くしてきたというのは紛れようもない事実であり、その一点においては、私と彼女の距離間といったものが他の級友とは比べのつかない段階にあったことは認めよう。だがその上で断言するに、これまでの関わりの中で、彼女が私に対して友人を越える距離を感じさせる言動をしたことは一度もないし、彼女の好意が誰かに向いた時、彼女のとことんなまでの「女の子」が、可愛く、賢く、そして愚かにその好意を男に伝えずにいるはずが無いのだ。

 無いのだが、今のこの状況はどうだろう。私はわずかにも、彼女からの特別な好意をいうものをこれまでに感じ取ったことはなかった。

「ね、あのさ、何か言って欲しいな」

 そっと窺うようにムツガイが言って、私と視線があった途端に俯き加減になって、上背がもともと私の肩くらいまでしか無いムツガイが頭を下げ両手で制服のすそを握り締めていると、ただでさえ小柄な体躯がますます縮こまって見えるので、上気した頬や潤む瞳も相俟ってひどくか弱い、小動物めいた印象を与えられる。当然私はたじろいだ。

「何か、と言われてもな。何を言ったものか」

 茶を濁すような、濁しきれない私の発言に、ムツガイの眉がむっとした風に寄って、実際に彼女は唇を尖らせて、責めたてるように私の視線のその寸分も違わぬところに憤慨の眼差しを寄越した。

「告白したんだから、君の気持ちが知りたいな、私は」

「私の気持ち、か」

「うん。もう一度確認しておくね。私は、君が好きです。だから、君さえよければ、私とお付き合いしてくれませんか」

 確認に加えて交際の申し込みを受けたため、ただ私の気持ちを伝えてこの場を終わりにすることは出来なくなってしまった。一言好き、と言えば、私と彼女はその瞬間から戻りえぬ関係性へと踏み出すことになり、しかしここを曖昧に誤魔化そうものなら、これまで築いてきた彼女からの信頼は全て無に帰すに違いなく、つまり何気のない放課後がムツガイのたった一言によって、二人の人間の間柄を決定的に変革させる不可避のイベントに転回されている。ムツガイの告白は私にとってとても可愛らしく、私の逃避を予め断じた点で賢く、すでに後戻りの利かぬ、発言者である彼女自身をも追い詰めてしまう意味で愚かであり、この展開はそういう点では非常に彼女らしく、しかし発揮された愚かさというのは、彼女にとって必要なときにも発揮される能力の一つであることから、果たしてやはり、真に追い詰められているのは私唯一であるようだった。「なんて言われても後悔しないつもりだけど、やっぱり緊張しちゃうね」などと、今言うのは反則ではないのか。

 さて、そろそろ、私の気持ちの問題について考察する頃合だろう。私のムツガイに対する想いというものは、まず間違いなく好意的な方向に大きく傾いているに間違いないが、その角度が、彼女から私に向けられている恋心と同質のものであるかについては、しっかりと考えたうえで結論を出す必要がある。どうであろうか。

 ムツガイと私が今のような関係性を築いたのは学年が変わって今のクラスに進級してからすぐのことだ。どちらが先に声をかけたというのではなく、単純に、今私たちが就いている学級委員長という役職柄、お互いに連絡事項などをやり取りする間に世間話などを混ぜるようになった。私と彼女はどうやらかなり気の合う類の人種だったようで、すぐに意気投合し、やがて委員会に関係しない時間の中でも、たとえば授業の合間の休み時間に、たとえば昼食時に、たとえば放課後の帰り道に、行動を共にするようになる。彼女と過ごした時間はほかのどの友人と過ごす時よりも楽しく思えたし、その分、経過するのも早く感じられて、だから私は、やはり彼女のことが、まず間違いなく友人関係以上のものとして、好きなのだ。では、ここから先、何をもってしてこの気持ちに恋か否かの判断をつけようものか。

 何をもって恋とするのか。共にいる安心感? 胸の高鳴り? それとも庇護欲とか、そういうポイントを押さえていることだろうか。思考は延々と応えの周りを右往左往していて、踏み込んだかと思えば、行き過ぎて退きなおして、また退き過ぎる。収まりどころを見つけられない。気持ちの持って行き方が難しいのだ。

「……、イチノセ?」

 そっと、可愛さも賢さも愚かさも、どこにも何一つ窺えないような、ただ不安の色を必死に覆い隠そうとした表情で、ムツガイが私を苗字で呼んだ。その場の雰囲気、テンションによっては無遠慮に呼び捨てることすらあるムツガイが、今は普段より数歩引いたところから、私の返答に身構えるように苗字で、私を呼んだ。まったくもって不可解なことに、この瞬間に、私の返答は確定したのだった。というか、答え自体は元より私の中にあったはずで、いわばその答えを、ようやっと私の脳が言語に変換することに成功したのだ。

「そうだな、ムツガイ、私はお前に恋をしているので、ゆえに返答は、了承だ。私でよいのならば、交際して欲しい」

 雰囲気やテンションに任せて彼女に名を呼ばれた時、私は決まって嬉しかったのだ。それは、あきれるくらいに明白な応えに他ならない。私はムツガイに恋をしていて、苗字より名前で呼んで欲しい。簡単な理屈だった。

 私の返答を得て、ムツガイはしばらくその内容を吟味するようにじっと床に視線を落としていたが、やがて理解が及んだと見えて、改めて私の顔を見つめると、これまでのどんな瞬間より可愛らしく、顔中で溶けるように、むしろ私を溶かさんばかりに笑った。目の覚めるような感覚を覚えて、これが夢で、本当に目など覚めてしまわないではないかと、私は俄かに疑った。このやっと得たムツガイとの幸福な関係性は、どころかこのムツガイなる少女も、睡眠状態にある私が心理に作り出した妄想の存在なのではないか――――。

 と、いつの間に私から目を離していたムツガイが、自らの両頬に手をやって、なにやらむにっと、つねっているのを発見した。疑問に思い問いかける。

「おい、ムツガイ、何をしているんだ」

 はっとしたように、ムツガイは私を見遣ると、両手は頬にやったまま、照れくさそうに微笑んだ。

「夢だったらやだな、と思って、つねってみました」

 ほとんど無意識で、反射的に、私は右手を自らの頬にやった。そのままおもむろに、持ち上げた手に力をこめる。

 こめた力の分の抵抗と痛みが、手と頬の両方に訪れた。私の様子をみたムツガイが、今度はおかしそうに、楽しそうに笑う。

「いたいね」

 だから大丈夫、夢じゃないよ。

 彼女の言葉にまた目の覚めるような感覚に襲われるが、瞬きした目を見開いても、目の前の彼女の笑顔はそこにあった。

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