残って
恐怖にひきつった顔。死の間際の悲鳴。
現実味はまるでないが、確かに自分で引き起こした悲惨な地獄の一端は、今も取れない生臭い異臭が雄弁に事実だと語っていた。
目を閉じても肉と骨を断ち切る感触は取れず、潤子はじっと寝床にあった布を被って干し草の上に座り込む。
人を斬る感触と、刃に裂かれる感覚を一度に受けたのだ。潤子の混乱と疲労は体から溢れんばかりだったが、ついていかない理解は未だ霞みがかっていて、目の前にあったはずの死体をまるで映画でも見るような心地だ。
それでも、腰より長かったはずの髪は肩ほどに切れている。
ざんばらに切れていることからも、背中の傷の大きさを推測できた。
部屋の隅に追いやった剣は、今の何もできない時に潤子を支配するつもりはないようで、彼女と同じく大人しく沈黙している。
(どれぐらい経ったんだろう……)
ぼんやりとしていた頭でディナンから聞き出せたのは、国の名前とここが牢屋ということだけだ。
しかし、それ以外の情報が必要になるのは、この牢屋から出られなければ意味はない。
(千里……)
ディナンの言葉がすべて本当なら、聖女となった千里は潤子のことを思い出してくれないだろうか。
あの時は、あまりの惨状に混乱していただけなのだと。
そうやってうずくまったまま背中の傷の痛みに慣れてきた頃。
牢に靴音が響いた。
息を呑んで顔を上げれば、明かりと共に複数の人間が潤子の牢屋に近づいてくる。
目に慣れない明かりがランプだと判ると、幾人かの鎧の男たちが鉄格子越しに立ちはだかっていた。
ディナンは王国と言っていた。
ならば、彼らは国の兵士なのか。
牢の奥から目を眇め、様子を見守っている潤子に、兵士の一人が声を掛けてくる。
「ヴェニ・ク」
言葉がわからないことには、どうしようもないので、潤子は痛む体を引きずって部屋の隅に置いていた剣に手をかけた。
兵士たちがざっと身構えたが、剣は動く気はないようで、静かに潤子の手に収まっている。だが、警戒している彼らに近づくことも憚られて、潤子は牢屋の奥へと戻る。
「――まぁいい。そのままで聞け」
潤子に声を掛けてきた兵士は、横柄に言って続ける。
「聖女さまの格別のご配慮により、お前はその剣と共に国外追放が決まった」
「そんな、千里は……」
抗議を口にしかけて、兵士たちの間から見覚えのあるふんわりとした髪の小さな影を見つけて潤子は叫んでいた。
「千里!」
立ち上がりかけたが、その影は怯えたように彼女のそばにある大きな体に隠れてしまう。
「千里、私は……!」
化け物なんかじゃない。
すべてこの剣が悪い。
そう言い募ろうとしたが、小さな影は一向に潤子に応えようとはしなかった。
「――お前のような呪われた者を殺さず国外追放すると決めたことに感謝しろ」
代わりに応えたのは、千里が隠れた影の方だった。あの、黒髪の男だ。
端麗な容姿には、ただ嫌悪だけがあった。
「一刻も早く去れ」
凍てつくような嫌悪の目よりも、潤子はただ親友だと思っていた少女の声を求めて叫んだ。
「千里、私よ。潤子よ! ねぇ、こんなわけのわからない場所に連れてこられて聖女なんておかしいよ!」
召還したと言えば聞こえはいいかもしれないが、応じた覚えのない勧誘は誘拐だ。
「ねぇ、帰ろう! 千里!」
冷たい石壁に潤子の声が反響する。
残響が終わろうかという頃になって、小さな影はようやく男の傍らから顔を出す。
だが、親友の顔は潤子の求めていたものではなかった。
「潤子のふりをしないで」
嫌悪に歪んだ白い顔は、まっすぐ潤子を見つめて叫ぶ。
「化け物のくせに、私の名前を呼ばないで! さっさといなくなって!」
真っ白な美しいドレスを着たかつての親友は、憎悪すら宿して叫んでいた。