落ちて
我に捧げよ。
その悲しみも憎しみも怒りも、すべて我に捧げよ。
さすれば、我はおまえに力を与えよう。
力をくれるというなら、元へ戻れる力が欲しい。
潤子は主のわからない声にそう答えた。
元に戻せる力。
(私を、私たちをあの夕暮れの時間へ返す力をちょうだい)
しかし、しわがれた声はさも愉快げに笑い、
それはできぬ。
と答えて潤子を撫でるように言う。
なぜなら、我の力はおまえがこちらに居てこそ与えられる力。
そも、贄であるおまえに、拒否できるいわれなどありはしない。
にえ。
生贄になどなったつもりはない。
潤子の答えに、声は冷笑する。
捨てられた娘よ。
おまえに我を否定することも、またできぬと知れ。
それは、あの時の罪だというのか。
あの時、すべてが憎いと思った、潤子への。
闇そのもののような声が遠ざかり、代わりに目に入ったのは現実の暗闇だった。
それが昼の薄暗さだと陽光で知れたが、昼間であろうとここは冷たく暗かった。
潤子は身を起こしかけて、唸る。
背中が引き裂かれんばかりに痛いのだ。
倒れ込んだ拍子に、自分が寝かされていた場所が堅い床の上に干し草を敷いてに布を被せただけの寝床だと知った。
がさりとした草は湿っていて、まるでスプリングの役目は果たさなかったが、それでも床に寝かされいるよりもいいと潤子は思うことにした。
そうして、今更ながら自分の上半身に服がないことにも気がつく。
ぎしぎしと痛む腕で探ると、肩から腹にかけて包帯らしき布が巻かれている。
潤子は背中から大きく斬られたはずだ。
だが、死んでいない。
そのことに呆然としながらも、困惑が生まれる。
ここは、何処だ。
潤子が視線を巡らせていると、ここに自分以外の人間がいることに気がついた。
ゆっくりと、背中に負担をかけないように起きあがる。
そして、暗い石壁にもたれかかってこちらをじっと見ている男と目が合った。
先ほど見た鎧に比べれば簡素な装いだ。平服なのだろうシャツとズボンだけで足には頑丈そうなブーツを履いている。
男の視線が自分の体にあることにようやく気づいて、潤子は自分の姿を思い出す。
スカートと靴はあるものの半裸なのだ。
カッと潤子の頭に羞恥心が昇るが、男は彼女の動揺などいかほども感じないのか、のんびりとした足取りで潤子の元へとやってくる。
「タルディ」
低いが、どこか甘いような声で一言呟いた男に冷たい視線で見下ろされ、潤子は困惑した。何かを言われたのだと感じたが、男の言葉が何を指すのか分からなかったからだ。
(外国語?)
男の顔立ちは日本人のものではない。
乏しい明かりを頼りに困惑のまま男を見上げ、彼女は淡い緑の瞳を思い出していた。
黒い剣を退けた、あの男だ。
ますます萎縮する潤子を、男はさして気にかける様子もなく観察していたが、何かを思いついたのか壁際に立てかけていた剣をとって、潤子に投げた。
とっさに手にとらなければ、と思ったのは偶然だったのか。
潤子の手に戻ったのは、あの黒い剣だ。
剣は潤子の手に戻った瞬間、男への怒りを剥き出しにして、潤子に剣を抜かせようといきり立つ。
だが、当の潤子の体は怪我と疲労のせいで思うように動かない。
剣の叱咤のせいで無理矢理立ち上がりかけたものの、あえなく崩れ落ちて床に膝をつく。
それだけの動作で肩で息をする潤子を眺めて、男は再び口を開く。
「俺の言葉がわかるか?」
思いのほか穏やかな声に驚いて仰ぎ見ると、男は潤子が自分の言葉を理解したと見てとったらしく続ける。
「お前は、異世界からこちらに来たらしいな」
異世界。
ますます意味が判らず見つめ返す潤子を眺め、男は床に膝をついて、彼女と視線を合わせる。
「お前は聖女を呼び出す儀式に巻き込まれ、このアッズーロ王国に落ちてきてしまったんだ」
儀式。
アッズーロ。
聞いたことも、触れたこともない単語の数々に目眩を起こしそうな潤子に、男は穏やかだが冷めた目で続ける。
「聖女は、お前と同じく呼びだされたチサトという少女だ」
千里。
そうだ、彼女はどうなったのだろう。
「千里は、彼女は無事なんですか!?」
潤子の急くような問いかけに、男は少しだけ眉をひそめた。
「お前は、彼女とどういう関係だ?」
「彼女は私の友達なんです」
「なら、今後はそれを口にするな」
冷たい視線に見合う冷たい声で断じられ、潤子は言葉を失った。