持って
オアシスを経由する旅は過酷だった。
人里が離れているといっても山の中であれば、食糧となる獣も草木もある。
だが高い木すら珍しい荒野では水の確保すら難しい。
ガルカンダ達の持つ地図ではオアシスとなっている場所も水脈の影響で枯れていることもあった。
そのためオアシスでは樽に水を汲み貯めるのだが、その労働にも水を失う。
ドゥルズでの快適な生活が夢に出るほどになると一行は一様に幾らか痩せたが、その頃には遠くの地平線に街が見え始めた。
国境の街、ヘインズである。
「やっと着いたぁ!」
国境の関所を抜け、街に入るとアーリルが大きく伸びをしながら言った。
「早く宿に行こうぜ。酒、肉、それから女!」
「うるさい」
アーリルの後ろからキルフが槍の柄でアーリルの頭を小突く。
「宿で一泊するけれど、あまり目立つようなことはしないでくれよ」
やれやれといった様子でアーリルをたしなめたのはセオンだ。
目立たないというのは難しいかもしれないな、とジェニは彼らを横目に街を見渡した。
ここは普通の街だ。
ドゥルズのように剣を持つ人はほとんど見かけられないし、甲冑をつけているのは街のあちこちに居る衛兵ぐらいだ。
関所から通りを挟んだ市場には瑞々しい野菜や果物が並び、ドゥルズが原色の街と呼ぶなら、ヘインズは穏やかな暖色の街と呼べるだろう。
剣を持たない人々のあいだを、二頭立ての荷馬車を引いてマントや布で武器を隠しているものの明らかに雰囲気の違う傭兵たちはちらちらと人々の視線を集めていた。
ガルカンダたちは足早に大通りを抜け、街に少し裏側、娼館や酒場などが立ち並ぶ地域に入る。そこには様々な人が入り乱れていたが、ドゥルズの雰囲気を漂わせている。
その一角にある酒場と併設の比較的大きな宿屋に一行が入ったが、皆休みはしなかった。水や食料の補給をしなければならないからだ。
馬車の脇で軽く埃を落としているうちにガルカンダやディナンはいつの間にか出掛け、取り残されたジェニはセオンに声を掛けられた。
「買い出しに行こうか」
もう一人残っていたはずの巨漢のイゴールは馬の世話をするという。
「荷物持ちが多い方がいいからさ」と付け加えたのはルドだ。彼も買い出しに行くらしい。
あとの荷車の番を誰がするのかといえば、ほとんど話したことのないガレットが荷馬車の荷台に寝転がっている。
何もしないという選択はないので、ジェニはありがたくセオンについて行くことにした。
買い出しの当番は特に決まっているわけではないが、大体がセオンやアーリルの仕事だ。ただアーリルは余分な買い物もするので自然、ガルカンダはセオンにその役を割り振っているようだった。しかしセオンは穏やかな性格で礼儀正しいが外見はいかにも剣士や騎士然としているので、こういった街の場合はルドが着いて行くことが多いという。若いルドがいるだけで、人々の視線は和らぐらしい。
「彼と私の年齢差だからね。親子までとはいかなくても弟子と師匠にも見えるんだよ」
実際セオンが果物屋で保存用の柑橘類を買う時、店主はセオンの顔を見て一瞬身構えたがルドが後ろに控えていることとセオンが礼儀正しいことにすぐ気付いて態度を改めた。
「値段の交渉はセオンがするよ。計算が早いんだ」
そういう交渉事は苦手だ、とルドが苦笑いし、セオンは「得手不得手があるのは当たり前だ」と首を振る。
「かくいう私も交渉事を覚えたのは傭兵になってからでね。最初の頃は失敗ばかりだったさ」
果物を相場の倍の値段で買わされたり、それほど必要もないのにランプの油をたくさん買ってしまったり、とセオンは面白おかしく話してくれた。
それでもこうしてガルカンダに交渉事を任されるのだから、セオンは元々そういうことに向いているのだろう。
ルドとセオンの話はほとんどが傭兵の仕事とは関係のないお金の話や物の値段の話で始終し、ジェニは新鮮な心地で彼らの話を聞いた。
(こういうことは、何かに書いておければいいのにな)
すぐに忘れてしまうわけではないが、咄嗟に出てこないこともある。そう思う時、隠し持っている生徒手帳のことを思い出すが、こちらの字を書くことができないジェニが筆記具がほしいと言えば不審がられる。
「ああ、そうだ。ちょっと待って」
肉や保存の効く塩漬けの魚、果物や芋を買いこんで手がいっぱいになったところでセオンが目についた店に入った。
見たところ食べ物を売っているようには見えなかったが、文字で書かれた看板はまだジェニの知らない単語だった。
「……あの、ルド。このお店、何と読む?」
ルドは最近、ジェニに文字を教えてくれている。地面が黒板の青空教室だが、彼は根気のいい教師だった。ただ、地面なので書きつけておくことは出来ない。
「ああ、ここは本屋だよ。――何か欲しい本でもあるのかな、セオン」
不思議そうに言うルドもセオンの目的を知らないようだ。
ルドに本屋のスペルを教えてもらっているとセオンは店から出てきた。
「おいで、ジェニ」
セオンが取り出したのは、
「これ…?」
小さな手帳だ。そしてそれに添えられているのはペン軸にペン先、それから小さな財布のような皮の袋に入ったインク。
けれどこちらの言葉での手帳という単語を知らないジェニは戸惑ってセオンを見上げる。
セオンは丁寧に「これが手帳、こっちがペン、それからこれがインクだよ」と説明してくれ、それらをジェニに手に取らせた。
「最近、字の練習をしているだろう? 覚えた単語を紙に書いておくといい」
セオンも知っていたのかと恥ずかしくなったが、それ以上に彼の心遣いが嬉しくてジェニは「うん」と礼もそこそこに大事に手帳を懐に仕舞った。
セオンたちと買い出しから戻ると、荷馬車にはガラットはおらず代わりに無愛想な師がジェニを睨んで待ち構えていた。
「何処へ行っていた」とディナンは無愛想に不機嫌を乗せているので、ジェニは「買い出しに行った」と告げ、それから自分の懐から手帳を取り出した。
「てちょう、もらった」
ディナンはジェニに手にある手帳を見て、その後ろで様子を伺っているセオンとルドを見遣り、再びジェニに視線を落とす。
「礼は言ったのか」
「お礼…?」
ディナンの指摘にジェニは首をひねる。そういえば手帳をもらったことに浮かれてきちんとお礼を言っていない。ジェニは慌ててセオンに向き直る。
「セオン、ごめんなさい。手帳、ありがとう」
「ありがとうございます、だ」
今度はディナンに後ろから小突かれる。
「……ありがとうございます」
ディナンの言う通りに言いなおすと、セオンとルドはとんでもなくおかしいものを見たように「あっはっはっは!」と笑い出した。
何を笑われているのか分からない、とディナンを見上げると彼は苦虫を潰したような顔になっている。
だんだん不安になってジェニが顔を曇らせるとセオンは「いやいや」と笑いを噛み殺した。
「ごめん、ジェニ。いや、いいよ。気にしないで使ってくれ」
「うん、ありがとう」
セオンの気遣いにジェニがほっとすると、セオンの方も穏やかに微笑んだ。
「どういたしまして」
買ってきた食料を荷馬車に積み、ひと段落ついたところでルドが手帳に何か書いてみろと言いだした。
「何書いたらいい?」
「うーん、そうだなぁ…」
ルドの方も考えながら、荷馬車の近くの地面にジェニが覚えた単語を書いてみて、「ああ、そうだ」とすらすらと文字を書く。
「これでジェニ、と読む。せっかくだから自分の名前を書いておけよ」
ルドは手帳の表紙を裏返して書いてみろという。
こちらの文字はアルファベットとのカタカナともつかない形で複雑だ。
それでもジェニはルドの文字をお手本に手帳に初めての文字を書いた。
“ジェニ”
すっかり馴染んだこの名前をジェニはじっと見つめる。
たまに暇を見つけては見ている生徒手帳のカレンダーを思い出す。
この名前を付けられてから、すでに半年が経とうとしていた。
遅れてすみません。




