書いて
女の遺体は街はずれの林で燃やされた。
暁の時間から、ディナンは女の体が灰になるまでずっと火の番をし続けた。
彼について薪を集めていたジェニは、乳白の空に細く長くたなびいていく煙をじっと見続けた。
女の体が完全に灰になるとディナンはそこに土を盛り、墓石も積まなかった。その簡素な墓がディナンと女の間を物語るようで、ジェニは一言も口に出来なかった。
ディナンは、女の体を街からずっと大事に抱え、そして丁寧に血を拭ってから女の体に火をつけたのだ。彼女が持っていたのはディナンとジェニを容赦なく攻撃した三本の剣だけ。
ディナンは三本の剣さえ彼女から剥ぎとって、墓には何も供えなかった。
「――行くぞ」
しばらく女の墓をじっと見つめていたディナンが踵を返すので、ジェニは慌てて辺りを見回す。
(あった…!)
ジェニは墓の周りにあった小さな花を摘むと盛り土に供えた。
軽く手をあわせるジェニをディナンは見下ろしたが、何も言わないまま街へと歩き出した。
死んだ女の顔は、穏やかだった。ディナンの剣は正確に彼女の心臓を貫いていたものの相応の苦痛を感じていたはずだが、女は眠るように息を引き取った。
ディナンを兄と呼んだ女は、彼に殺されることをまるで分かっていたようだ。
彼らはどちらも本気だった。
そしてどちらにも、戸惑いどころか恨みつらみや憎しみさえジェニの瞳には映らなかった。彼女は静かに死を受け入れ、そしてディナンはそれを叶えたようにも見えた。
(もしも私が死んだ時)
ディナンは彼女のように埋葬してくれるだろうか。
(……きっとどこかに捨てられる)
きっとそうだとかぶりを振りながら、ジェニはディナンのあとを追う。
ディナンはどこまでも冷酷な男だ。
妹を刺し貫いた時でさえ顔色一つ変えなかった。
彼女が本当に妹なのかさえジェニには何一つ教えはしないだろう。
けれど、妹を抱く彼の瞳は吸い込まれそうなほど深く暗い深緑に染まっていた。
昨夜の騒ぎをすでに聞き及んでいたガルカンダ達は、早々に出立を決めた。
ドミナ・リィの差配の元、荷馬車はすぐにいっぱいになり、顔見知りの傭兵たちもすぐさま武器を積み込んだ。
手持無沙汰のジェニは中庭の片隅でデッキブラシを手に掃除を命じられた。
血痕を洗い流すためだ。
しかし女の赤い血は驚くほどすんなりと水に溶けて消え、ジェニはブラシを数回こするだけで掃除を終えた。
まるで彼女には何の未練も無かったのだというように、中庭から彼女の気配は消え去った。
(どうして、恨まずにいられたの)
兄妹で殺し合うなど尋常なことではない。
事情をまったく知らないジェニでさえ、その異常に胸が悪くなるというのに当の本人たちは私情すらほとんど挟んでいない。
掃除が終わって水跡さえ消えた頃、ガルカンダ達の準備は終わった。
「元気でね」
嵐のように差配をふるっていたドミナ・リィとその使用人たちに見送られ、傭兵たちの荷馬車は再び旅に出ることになった。
ドゥルズの街を出るとそこは見渡す限りの荒野になる。
オアシスにある街は荒野の過酷さを忘れさせるものだった、と気付いたのは荷馬車の隣を歩き出して数分で額に汗が流れた頃だ。
交代で荷馬車の中で休憩しつつ歩いて、次の無人のオアシスまで辿りついたのは夕刻が迫っていた。
広大な地平には夕日を遮るものはなく、遥か遠くにあるはずのドゥルズの街影がぼんやりと見えるのではないかと思うほどだった。
オアシスに幾らかの魚はいるものの、捕えて食べるにはオアシスの池は深く暗い。
現地調達は諦めて水辺で備蓄の食糧を取り出して食べることになった。
今夜は街から持ち出したばかりの野菜や肉でキエフがスープを作った。野宿を忘れかけた体がほっと一息つく。
そうしているうちに、ジェニは知らぬ間に荷馬車の隣で眠っていた。
――よほど疲れていたのか。
腹に物を入れたのは朝以来だと気付いたのはスープを口にしてからだ。
以前と変わらない傭兵たちの静かな会話が波のように揺れ、ジェニは声とも音ともつかないさざ波に意識を委ねていった。
さざ波の向こうには、女が立っている。
夜と朝の境目の空の下、波の向こう側でジェニをじっと見つめたかと思えば、静かに口を開く。
声は聞こえなかった。
ただ彼女はジェニに向かって何かを話し続け、
――さようなら。
この言葉だけ残して霞みのように消えて行く。
波間に浚われるように優しく微笑んで。
こつり、と顔に何かが当たったと気付いて、彼女は完全に消え失せた。
ジェニが目を開いて広がっていたのは、薪の明かりを呑みこむような夜空だった。
「起きろ。火の番をしろ」
改めて見上げると、無愛想な師がいつもと変わらぬ横暴ぶりでジェニの頬を枝先でぴしりと叩いた。
荷馬車の隣で寝ていたはずが、いつの間にかディナンの隣で寝転がされている。ガルカンダたちはすでに思い思いの場所で寝静まっているようだ。
寝起きの目に薪の明るさが眩しくて目をこすっていると、ぽん、とジェニの膝に何かが放り出された。
それは、女の短剣のうちの一本だった。
「これは…」
「お前が持っていろ」
ディナンはじっと薪の炎を見たまま、ジェニに視線をくれもしない。
「……どうして、私が」
ぼそりとジェニが呟くと、ディナンは手にしていた枝を折って薪に放り込む。
「姉弟子が死んだ時、妹弟子が形見を引き継ぐ決まりがある」
姉弟子、という言葉に短剣がずしりと重くなる。
やはり彼女はディナンの妹で、彼女の技はジェニが日々教え込まれているものなのだ。
(……何も教えてくれないと思ってたのに)
この無愛想な師に何を訊いたところで、彼はジェニに重要なことは何一つ答えはしないと思っていた。
けれど、この短剣はジェニに与えられた。
「――私も、いつかこの剣で誰かを殺すの?」
剣と技を与えられたジェニは、すでにディナンの言う決まりごとの内側にいるのではないのか。
そう尋ねたつもりだったというのに、ディナンは何も言わずにジェニが手にした短剣を一度取り返して裏返す。
その鍔の喉に文字らしきものが彫られていた。
それをなぞるように指差してディナンはジェニに短剣を返した。
「これは、俺があいつに贈ったものだ」
丁寧に彫られた飾り文字は、今まで幾らか目にしていたもののジェニには読めない。街で見かける看板は分かりやすい絵を描いたものがほとんどで今の今まで文字を読む必要が無かったのだ。
「メリーシャ」
ジェニが指で辿る文字をディナンが言葉でなぞった。
何の言葉か分からなくてジェニが彼を見遣るが、ディナンはそれきり黙りこんで一言も口にしなかった。
翌朝、火の番を終えて出立までのわずかな時間にジェニが地面に短剣の文字を真似ていると、それを覗きこんだルドが「誰の名前だ?」と尋ねてきた。
「名前?」
「そう。名前だろ、それ」
――メリーシャ。
これが名前であるなら、これは彼女の名前だ。
そして彼女の名前が、ジェニの覚えた最初の文字となった。




