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乙女は歌う  作者: ふとん
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誘われて

 一体何が起きたのか。


 ジェニにはほとんど分からなかった。


 ただ路地裏で女性を助けに入り、暴漢と思しき二人の男を地面に叩き落としただけだ。彼らはディナンに比べれば数段腕が落ち、ジェニの相手ではなかったがそのあとが良くなかった。

 ジェニはエラムに頼んでガルカンダ達を呼びに行ってもらったが、その一人になった隙に男たちの仲間に殴られ気を失い、気付けば彼らの溜まり場らしい酒場に放り込まれていた。

 あとはなし崩しに周囲に居た男たちと戦い、けれど多勢に無勢であっという間に殴られ蹴られ、男たちに押さえつけられてしまったのだ。

 男たちの話をつなぎ合わせると、どうやら助けた女性は彼らの仲間で、ジェニは彼女たちに騙されたようだった。あの女はああやって暴漢に襲われているふりをしてジェニのようなカモを待ち、男たちが逆に引っ掛かった間抜けから恐喝していただけのようだ。


 少ししてやってきた師と男たちの頭目らしい男が話をしていたが、殴られ慣れていないジェニは痛みにぼんやりとした頭で聞き流していた。だが、こちらにやってきたディナンに掴み上げられ、放り投げられ蹴られた時にようやく、師が怒っているらしいことに気が付いた。

      

(……また私、失敗した)


 もう動けない体を抱え上げられ、今度はディナンに背中の服をめくりあげられる。突然のことに体は震えたが、もう悲鳴も出ない。

 ディナンは本当に酷い人だ。

 ジェニが失敗すれば失敗しただけ報復するように手酷い罰を与えてくる。

 今回は、殴られるだけの失敗をしたということだ。

 背中の傷を曝すほど。


(どうしてこんな人に)


 弱音を吐けば冷たい視線を寄越すだけのこの人に、どうして縋りつかなければならないのか。

 ジェニに酷い仕打ちをしたというのに、この人はどうして壊れ物をすくいあげるように優しく抱え上げるのか。 


 ぼんやりとした頭では、何も分からなかった。



 それからすぐにガルカンダの声が聞こえた気がしたが、ジェニはそれきり意識を無くした。

 温かい人の腕に抱え上げられ、そのまま揺れるゆりかごのような心地に眠りに誘われて。




  

 ジェニが目を覚ましたのは、ベッドの上で消毒液を塗られている時だった。酷い痛みに目を開けさせられたのだ。


「あ、気が付いたのね」


 ドミナ・リィがこちらを覗きこんでいた。


「まったく酷い師匠ね。女の子の顔をこんなになるまで」


 傷にしみる消毒液をドミナ・リィは容赦なくジェニに塗りつけ、包帯や湿布を張りつけてようやく彼女をベッドに寝かしつける頃には、ジェニはくたくたになっていた。

 幸い骨まで折れるような怪我ではないが、包帯だらけの体からは薬草の匂いが鼻をついた。


「しばらくゆっくりなさい。熱が出ると思うから」


 ドミナ・リィはジェニに布団を深く被せ、ゆったりと彼女の額を撫でる。


「……あなたは、怒らない?」


 ジェニの気が緩んでつい口に出た言葉だったが、ドミナ・リィは少し目を丸くし、次に微笑んだ。


「怒られるようなことをしたの?」


「……分からない」


 額を優しく撫でられていると不安になる。

 もう会えないと言われた、家族を思い出しそうになるから。


 ドミナ・リィは「可愛い子猫ちゃん」と微笑み、目を細める。


「たくさんお勉強なさい。あなたの知らないことなんて、世の中にはたくさん転がっているのよ」


 優しい手はいつまでもジェニの額を撫で続けている。

 熱のせいなのかジェニの目蓋は重くなり、次第に瞳を閉じた。


「――生きるために、たくさん学ぶの」


 ドミナ・リィの言葉を耳に残して、ジェニは再び眠りについた。




 ドミナ・リィに安静を言い渡されてから数日、顔見知りの傭兵たちが代わる代わるジェニの見舞いに訪れた。

 陽気なアーリルなどは甘い菓子などを持って現れて、あることないことをジェニに吹き込んではドミナ・リィの叱られて部屋を追い出される始末であった。


「まったくあいつは。あの性格だけは死んでも治らんな」


 見舞いに顔を見せたガルカンダはどかりとベッドのふちに腰かけて、「調子はどうだ」とジェニを見遣る。

 今日もシャツにズボンの軽装だが、腰には護身用らしい細身の剣を佩いている。

  

「腕は動く」


 ジェニが腕を動かしてみせるが、ガルカンダの表情は晴れない。


「顔の傷はまだ治らんか…」


 体の方は大分良くなってきたが、顔の傷の治りは遅いようで腫れは幾らか引いたもののまだ傷自体は治っていない。


「ジェニ」


 呼びかけられてガルカンダを改めて見遣ると、彼はいつもの陽気さを収めてその灰色の双眸でジェニを射るように見つめていた。


「何も知らなかったこととはいえ、お前はバンディッシュの傭兵たちに手を出した。この先、どんなことが起こるか分からんが、覚悟と注意はしておけ」


 バンディッシュ、という男の名すら初めてきちんと耳にしたジェニだったが、脳裏に先日の酒場で私闘の音頭を取っていた男が浮かぶ。きっとあの男が彼らのボスだったのだ。

 バンディッシュという男がボスならば、ディナンは他の傭兵団のボスの所へ乗り込んでいったということになる。

 ディナンとジェニは影に潜むようにして国境を目指している。ディナンは目立たないよう細心の注意を向けているし、ジェニにもそれを徹底させていた。


(……怒られて、当然だ)


 ディナンの身が危なくなるということは、ジェニの身も危うくなる。その逆もしかりなのだ。


「……迷惑かけた、ごめんなさい」


 ディナンとジェニを預かっているガルカンダにも何かしらの迷惑をかけたことになるし、これからも迷惑をかけることになる。申し訳なくて視線を下げると、「……ああもう」と面倒くさそうにガルカンダはほう髪を乱暴に掻く。


「お前の迷惑ぐらいどうってことはない!」


 苛々とした様子で言われ、ジェニが目を瞬かせるとガルカンダは呆れたように息を吐き、すぐにいつものように口の端を上げて笑う。


「俺のことより自分のことを考えろ。まずさしあたっては、傷を治すことだ」


 ガルカンダが差し向けた手はジェニの頬に触れかけたが、するりと頭の方に向かってくしゃりと髪を撫でられた。


「そういや、ディナンは見舞いに来たのか?」


 来るはずがない。

 手当てはドミナ・リィがしてくれている。


 ジェニがやんわりと首を振るとガルカンダは「横暴な師匠を持つと苦労するな」とまた呆れて溜息をついた。

 

   

 ジェニが顔の傷を残して動けるようになったのは、それからまた数日あとのことだった。 旅をしながらであったならもっと傷の治りは遅かっただろうが、幸いにしてドミナ・リィの看護は手厚く、毎日出される食事は温かいスープと柔らかいパンと肉で栄養と休養は十分だ。


(少し動こう)


 ジェニがそう思い至ったのは、ベッドで一日過ごすことに飽きてきたからでもあったが、体がやはり鈍ってきているのを如実に感じたからでもあった。

 ドミナ・リィはまだジェニに部屋の外に出ての訓練を禁じているが、動くぐらいなら問題ない。

 それでもこの屋敷を取り仕切るドミナ・リィの言いつけを破るのは気が引けて、ジェニは夜を待って部屋を抜け出し長い回廊を歩く。

 簡素なズボンにシャツ、そしてベストを着込んで少し迷って剣帯に剣を吊るした。

 腰に剣を佩く習慣などジェニの人生においてもっとも縁遠いはずが、すでに剣の重みに体が慣れている。  

 普段は抜かない剣がすっかりジェニの一部になってしまったようでジェニの心は沈んだが、それでもジェニは剣を抜かないと決めていた。


 バンディッシュ達に誘拐された時もそうだ。一度剣を抜けば、彼らを退けることは容易だった。けれど、きっと彼らの一人でも殺していれば、ディナンはジェニを斬っていただろう。ガルカンダの話でそれは確信している。

 ジェニの行動一つで、誰かを危険に巻き込んでしまうのだ。


(いつか…)


 いつかジェニの力でこの剣を扱えるようになれば、ディナン達を危険に巻き込まずに済むのだろうか。


(そうすれば…)


 いつか家族の元に帰ることが出来るだろうか。


 淡い期待がジェニの心の浅瀬に灯ったが、それはすぐに暗い水に呑みこまれるようにして消え失せた。

 剣を扱えるようになったジェニが居なければ、剣は再び主を探して殺戮を重ねるだけなのだ。結局は、今の主であるジェニが剣を持っていなければならない。


(帰れない…)


 この剣を持っている限り、ジェニは何処へも行けない。

 それを砂利を噛むようにして思い知る。


(何度繰り返せばいいんだろう…)


 ジェニの暗い気持ちを知ってか知らずか、回廊を抜けた所にある中庭から空を見上げると丸い月が静かにこちらを見下ろしている。

 このふくよかな月は何処に居ても変わらないらしい。


 そう息をついて、中庭にジェニの他に人が居ることに気が付いた。

 ようやく気付いたのかと言わんばかりの眼に気圧されて、言葉も出無ければ動きも出来ないジェニに、その人はこっちへ来いと指を一振りした。


「――何をしている」


 中庭と回廊を隔てる花壇のふちに腰かけているのは、いつもと変わらない冷たい目をした師だった。ふと彼の脇を見れば、珍しく酒を飲んでいる。普段のディナンは酒場に行っても酒をほとんど飲まない。

 座れ、とまた指だけで指図されてジェニはディナンから少し離れた所に腰を軽く下ろす。

 その様子をじっと見ていたディナンは軽く溜息をついたが、何も言わずに酒瓶に口をつけた。小さくはない酒瓶がもう半分以下になっている。


 何か言われるのかと身構えていたジェニだったが、ディナンがあまりにも静かに酒を飲んでいるだけなので、彼の近付いてくる腕に気付くのが一瞬遅れた。


「いっ」


 ディナンの指先が捕えたのは、ジェニの頬にあった湿布だった。化膿どめを塗りつけたそれはほどよく頬に貼りついていて、急に剥がされるとテープを剥がされるように痛い。

 それを知らないはずはないだろうに、わざとディナンは勢いをつけて湿布を剥がしたのだ。

 彼は剥がした湿布を無造作に地面に投げ捨てる。


「いつまでも痛々しいふりをするな。鬱陶しい」


 元はと言えばディナンの仕打ちのせいでジェニの怪我は治りが遅い。この時ばかりは文句を言おうと口を開きかけたジェニだったが、ディナンは彼女の頬に無遠慮に触れてこすった。ジェニは抵抗して彼の腕を退けようとするが、ディナンは堅い指で乱暴に傷をこする。


「い、いたい…っ」


「こんな傷、早く治せ。お前のせいで出立が遅れているんだぞ」


 この街から更に国境へはまだ距離があるようなので、出発が遅れるのは確かに良くないことなのだろうが、ディナンの言い分はいささか理不尽だ。


「それは…!」


 言いかけたジェニの肩を、ディナンは唐突に弾いた。


キン!


 空気を裂くような音と共に突き飛ばされたジェニは花壇の花を散らしてひっくり返ったが、ジェニとディナンの間に突き刺さった短剣に身を翻して花壇から飛び降りる。

   

「剣を抜け!」


 鋭いディナンの声にジェニは咄嗟に身をよじる。

 いつの間に近付かれていたのか。

 白刃はジェニの脇をすり抜けていく。


 弾かれるようにジェニはその刃から距離をとると、その先には一人の女が佇んでいた。黒装束に身を包み、鋭い視線をこちらに向けてくる顔には覚えがある。


「あなたは…」


 彼女はバンディッシュの元にいた娼婦だ。ジェニが暴漢に襲われているものと勘違いして助けた、その女だった。厚化粧に派手な衣装を身に着けていた時とは様子の違う、一振りの短剣のように現れた女はまるで別人のようだ。


 女はジェニの一拍の隙も見逃さず、ジェニに剣を振りかぶる。彼女から漂ってくる圧倒的な気配は、まさしく殺気だ。

 ジェニは迷わず剣の柄に手をかける。

 今この時を誤れば、ジェニは確実に死ぬ。

 生きるか死ぬか、その場面でジェニは迷わなかった。

 女の刺突を目の当たりに、解かないと決めた剣の封印をジェニは破く。


 満月に届くような、剣の声無き快哉がジェニの体に鳴り響いた。


ガン!


 今の刺突を退けられると思っていなかったようで、女は一瞬怯んだがそれはほんの一瞬のことだった。

 次の瞬間にはジェニの額、首、脇腹、足の腱へと次々に斬撃と刺突を繰り出す。それを剣は正確に弾き、黒い刀身を怯みもせずに女へと向けた。

 女の方も、剣の斬撃をかわしてジェニへの攻撃の手を休めない。


(この人…強い!)


 この黒の刀身が対峙して今まで殺せなかった相手は、ディナンとガルカンダしか居ない。ジェニの驚きを他所に剣はこの展開を楽しんでいるようで、女の必殺の剣を退け続ける。


 女は焦りも怒りも見せなかった。白い顔立ちは悪くないのに化粧っけのない顔は能面のように無表情で、茶色の髪は腰に届くほど長いが特徴もなく、どうしてジェニがあの娼婦だと気付いたのかと思われるほど特徴が見当たらない。


(あれ…?)


 剣戟の中で女と誰かと重なる。

 急所を確実に狙う斬撃、相手の隙を縫うように傷をつける刺突、斬撃をかわす身のこなし。

 それは、いつもジェニが教えられている動きそのものだった。


 女が剣の斬撃を避けて身を低くする。

 それから来る攻撃は、ジェニには分かっていた。

 隙のない相手の隙を作るために、足を傷つけるのだ。

 そしてそれを封じる手を、ガルカンダたちとの訓練がジェニの体を動かしていた。


 剣を避けたその足で相手の武器を踏みつけて殺し、そのまま剣を相手の首元へ。


(だめ…!)


 この女は殺してはならない。咄嗟にどういうわけだかそう思った。

 ジェニを見上げたその瞳が、誰かと重なった。


 ジェニはそのまま振り下ろそうとする剣を引きとめる。

 無理矢理殺した勢いはジェニの体勢を崩し、女はその隙を逃さなかったが、


ガキン!


 女の剣は払われた。


 ひゅん、と空を飛ぶ剣を追いもせず、女が距離を取ったのは今まで手を出そうともしなかったディナンだ。

 ディナンは女に何も言わずにじっと見つめる。

 それは敵に対峙するというよりも、懐かしい何かに出会った時のような、そんな不思議な瞳だった。

 女の方もディナンの視線に応じるようにして彼を見つめていたが、やがて腰に隠し持っていた短剣を二本抜く。短剣を構える彼女は、ジェニと対峙していた時よりもずっと鋭く見えた。


 二人はジェニには目もくれず、一息にその距離を縮める。

 一合目が合わないうちにジェニは彼らと距離をとったが、その一撃目はまさに一瞬の攻防であった。

 女がディナンの剣を叩き折るようにして交差した短剣を彼の刃に向けたが、ディナンは短剣の一本を絡め取るようにして弾く。

 そしてそのまま女の首を狙って剣を突いたが、女は剣の軌道へ短剣を差し込みわずかにずらしてディナンの間合いから飛びのいた。

 それからすぐにディナンは彼女との間合いを詰めた。

 二合目、三合目と息をつく間もなく二人の攻防は続く。


 剣は彼らの攻防へ割って入ろうと疼いているようだったが、ジェニは二人の攻防をほとんど茫然と見ていた。

 日々の訓練のおかげでディナンと女の攻防は目で何とか追えるものの、とてもジェニが何か出来るとは思えなかった。

 あのディナンが手数を重ねても殺せない相手だ。

 彼女の鋭い剣を前にディナンが手を抜いているとは思えなかった。


 そして二人の動きは驚くほど似ていた。


 ジェニの心に悪い予感が音を立てている。無表情な顔立ちに、こげ茶の髪、そしてよく似た剣術。


(待って、その人は…)


 女の手数が次第に減り、ディナンが女の体を傷つけ始めた。女の体が傾ぐ。

 その隙を逃すディナンではなく、彼女は地面に転がされ、そしてディナンは彼女を跨いで剣を振り下ろす。

     


「待って…!」


 ジェニは二人に向かって駆けだしていた。

 長い髪がこちらを一瞬だけ振り向き、少し微笑んだような気がしたのは気のせいだろうか。それきり彼女はディナンへと視線を上げた。


 今日が満月でなければ。

 ジェニがこちらの言葉を覚えていなければ。



――さよなら、兄さん。



 ディナンの剣が振り下ろされる中、女の唇がそう紡いだのをジェニははっきりと聞いた。


 そして無情な剣は女の体へと深く沈んだ。



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