映す
「良くない相が出てるね」
薬とも煙草ともつかない煙を吐き出した老婆が魔女のように喉の奥から「ひひひ」と嗤った。
煙の充満した薄暗い店には香草から動物の首まで、薬と名のつくものが所狭しと並んでいる。老婆は店の奥の番台に座ったまま、水に溶けだした煙を細長い管から旨そうに吸い込んだ。
ディナンが無言で老婆に幾らかの金貨を番台のふちに投げると、皺のあいだから老婆が金貨を確かめるように伏せていた目を開ける。
「厄介事は御免だよ」
そう言いつつ、老婆は自分の懐から紙束を取り出してディナンへと投げた。ディナンは難なくその紙束を受け取るとすぐに開いて目を通す。
「あんた、厄介なものを拾ったみたいだね。いつから慈善家になったんだい」
「地獄耳は健在のようだな」
老婆のぼやきを聞き流し、ディナンは読み終えた紙束をすぐそばにあった燭台の炎を移してそのまま灰になる様子を見つめる。
「あんたがここに来て、何年になるかねぇ…」
無駄口などほとんど叩かない老婆の珍しい感慨にディナンは少しだけ視線を移して「さぁな」と応えた。素っ気ない返事でもあるだけいいということか、老婆は「ひひひ」と喉の奥で嗤う。
紙は燭台の上で灰になり、跡形もなくなった。それを確認するとディナンは踵を返す。その背中を老婆の声が押す。
「早く巣にお帰り、狼の坊や。子狼が泣いてるよ」
老婆の店の周りは細い路地の集まりで、知らない者が入れば早晩、死体か裸で放り出されるドゥルズの裏町だ。
昼間の路地に人通りが無いのは、ディナンに気配を察した住人達が息を殺して隠れているからか。
(知りたい情報はほとんど集まったか)
がれきとゴミの散乱する路地をほとんど音も立てずに進むディナンの足は速かった。ドゥルズに着いてからの数日、ディナンはほとんどの時間を情報収集に充てた。問題が無ければそろそろこの街を発たなければならないが、
(何かあったな)
老婆の言葉を信じるわけではないが、ディナンの腹の奥が落ち着かない。こういう時は、必ず都合の悪いことが起きている。
足を速めて路地を抜けると人混みをすり抜けるように歩きだす。そんなディナンを見つけたのか近寄ってくる気配を察して速度を落とすと、隣に顔の半分をマントの襟で隠した男が並んだ。
「――何の用だ。ガラット」
「アンタの弟子がバンディッシュに捕まった」
バンディッシュ、という名前にディナンは盛大に顔をしかめた。出来ればこの街で聞きたくなかった名前だ。
出かかった溜息を抑えながら、ガラットという男だけがあの娘の講師役をしていなかったなと不意に思いだす。ガラットは普段から影のように静かな男で、必要なことしかしない。そんな男がわざわざディナンを呼びに来るのだ。厄介事が目に見えるようだった。
ドゥルズという街は傭兵の街だ。
成り立ちは古く、そしてこの土地を治める領主でさえ介入できない治外法権を握っている。彼らは持ち前の武力で多くの領主に雇われている。そして兵力を貸し出し、一応の服従を約束する代わりに街を一つ手に入れた。
現在ドゥルズに駐在している傭兵団は五つ。彼らが街の治安と意思決定を担っている。この顔ぶれは常に変動をし続けているが、長くこの地に留まり続けている傭兵団が二つある。
一つはガルカンダが有する青銀の鷹、もう一つが獅子の牙。この二つの傭兵団は、非常に仲が悪いことで知られていた。
ガラットを連れ、ディナンは表通りを抜けた先にある裏通りを進み、一際大きな酒場の戸を押した。
店内に店員の姿はなく、ただ愛想の悪い強面たちが一斉にディナンを振り返りねめつける。その様子を何も言わずに睥睨し、目的を見つけてディナンはただ目を細めた。
そこには、男二人に腕を押さえつけられた数日ぶりに見る弟子が力なく座り込んでいた。
ぴくりとも動けない様子を見ると痛めつけられたようだが、骨まで折られていないようだと見て取って改めてディナンは店の奥で悠々と酒をあおる男の元へと歩を進めた。
「弟子が迷惑をかけたようだな」
ディナンの声に真っ先に顔を上げたのは、男に押さえつけられていた弟子だった。こちらを見上げたその顔にはひどい青あざが出来ている。ディナンの瞳に見下ろされ、震えるようにすでに歪んだ顔を更に歪めた。
「いいや? そうでもないぜ」
一拍遅れるようにしてディナンに応えたのは、店の奥で酒瓶を片手にしている男。手入れをした金髪こそ撫でつけた優男風だが、優雅とは言い難い粗野な笑みを浮かべている。この、獅子の名前を冠する傭兵団をまとめるバンディッシュという男は、ドゥルズでは目を遭わせてはならないと噂されるほど残忍で狡滑だ。
バンディッシュは弟子の様子を見てもぴくりとも表情を動かさないディナンの様子を面白げに笑い、自分の脇に転がっている男二人に視線をやった。気を失っているのか動けないのか、男たちは床に這いつくばったままだ。
「おたくの弟子とやらが、こいつらをコテンパンにのしてくれたんだ。笑ったぜ。百戦錬磨の獅子の牙の傭兵がこんな坊主によ!」
それが、とバンディッシュが目を向けたのは、男たちの向こう側で居心地が悪そうに自分の体を抱きしめる女だ。
「うちの娼婦が逃げ出したのを捕まえにいったらしいんだが、連れ戻してる最中をどうやら襲われてると勘違いしたらしくてなァ。お前たちのボスは誰だとここに乗り込んでくるもんだからついつい俺たちも頭に血が上っちまったわけだ」
多勢に無勢、屈強な男たちに殴りかかられてはあの娘ではどうしようもなかったのだろう。今後の課題を見つけてディナンはバンディッシュに向き直る。
「それは本当に迷惑をかけたな」
早々に連れて帰る、と言いかけたディナンだったがバンディッシュは「まぁ、待てよ」と彼の際先を制した。
「傭兵団の兵士はいわば商品だ。商品を台無しにされちゃあ、ウチとしても黙っちゃいられねぇ」
「金か」
端的にディナンが口にするとバンディッシュは含み笑いをする。
「話が早いのは助かるが、そうじゃねぇ。しばらくの間、この弟子とやらを俺のところに預けてみないか」
話が妙な方向に向かいだした。
ディナンが無言で先を促すとバンディッシュは芝居がかったように大きく腕を広げる。
「坊主の年で傭兵二人をどうにかできちまう腕は将来有望だ。預けてくれりゃあ、立派な傭兵にしてやるぜ」
バンディッシュの言葉に、周りの男たちがど、と「そりゃあいい!」と口々に笑いだす。
「なぁに、怪我なんざすぐ治る。今日のことはお互い水に流して仲良くしようじゃないか」
囃し立てる男たちの熱気はぐっと盛り上がったかに見えたが、ディナンは醒めた心地で彼らを眺めた。男たちの後ろでは娼婦がバツが悪そうに顔を背けている。
そもそも逃げ出した娼婦がこの場に居るのは普通に考えておかしい。バンディッシュが経営する娼館は足抜けが難しいことで有名で、逃げ出した娼婦は折檻部屋に軟禁される。それに稼ぎの少ない娼婦には道端で恐喝をさせている。傭兵の男たちにわざと娼婦を襲わせ、助けに入った馬鹿なカモを逆に返り討ちにして金品を脅し取るのだ。この街に少し詳しい者なら子供でも知る、バンディッシュの悪行の一つであった。
もっとも、騙されるのは傭兵の街に入ったばかりの新参者か物見遊山の冒険者で、稼ぎの良い商売でもないようだが。
「悪い話じゃあねぇだろ? お師匠さんよ」
バンディッシュの赤ら顔や周囲の男たちを見回し、ディナンは軽く息をつく。
この男たちには嗜虐の色しか見えない。
恐らく、新参の子供に前線に立たせ、この世の毒を一斉にぶちまけたような戦場でありとあらゆる悪行をやらせて泣き叫ぶ様を楽しみたいだけなのだろう。少年兵を手っ取り早く傭兵に堕とす、バンディッシュが好むやり方だ。
(――俺も似たようなものか)
ディナンは騒がしい店内で困惑する弟子を一瞥して自嘲をおぼえた。
剣を握らせ、人を殺す術を教え込んでいるディナンと彼らはやり方が違うだけで根本的には大差などない。
(泣きはしないがな)
あの娘は泣きはしなかった。
どんなに悲惨を目にしても、どんなに辛酸を舐めても。
ディナンは珍しく笑うように目を細めた。
それを了承と取ったのかバンディッシュは「支度金ならこっちで用意してやるよ」と鷹揚に言うが、
「断る」
ディナンの大きくもない言葉に店中が静まり返った。
沈黙の中でバンディッシュは「おいおい」とおどけたように苦笑する。
「何のために弟子なんぞとってるんだよ。うまい働き口を探してやるのも師匠の務めだろ?」
バンディッシュは一瞬にして顔に泥を塗られたことを繕おうと余裕を顔に張り付けているが、ディナンはそれを無視して男に押さえつけられている弟子の前に立った。
「詫びならしよう」
そう言うなり、ディナンは弟子の胸倉をつかみ上げる。片腕で掴み上げているにも関わらず、男二人をあっという間に引きはがして小さくはない弟子の爪先を軽々と宙に浮かせた。
「う…く…っ」
無理矢理引き上げられた弟子はたまったものではない。苦しげに初めて呻き声を上げている。それを気遣いもせず、ディナンは弟子を持ちあげた肩腕を軽く振ったと思えば、そのまま壁へと弟子を容赦なく放り投げた。
ドッ!
重い音と共に弟子は壁にずるずると崩れ落ちる。ディナンはそれを追って壁際の弟子へと追い打ちをかけるようにして重い靴底を弟子の腹へと沈ませた。
ドス!
辛うじて動けていたはずの弟子は呼気を吐き出し、床へと倒れ込んだ。それをディナンは再び胸倉を掴み上げる。
「お、おい…」
さすがのバンディッシュも声をかけるが、ディナンは彼を冷たく見遣った。
「しつけだ。黙っていてくれ」
ぱん!
ディナンの平手が弟子の頬を打ち、弟子は壊れたように床に転がった。それを無機質に見下ろして、ようやくディナンはバンディッシュに向き直る。
「これは傷物の弟子でな。仕方なく手元に置いて居るだけだ」
「き、傷物? あれだけの腕を仕込んでおいてか」
バンディッシュの動揺を笑い、ディナンは弟子を抱えて背を向けさせ、弟子の服を一気に引き上げた。
肩口に顔を押さえつけた弟子が突然のディナンの奇行に驚き、バンディッシュ達は彼女の背中の傷の息を呑んだ。
「腕があっても長くは持たない。遊び道具は他で探してくれ」
「その傷は…」
バンディッシュの喉がごくりと鳴る。それは傷の驚いただけではないだろう。
長い旅でも焼けることのない白い背中に走る傷は、怪我を見慣れた医者でも目を背けたくほど痛々しい。だが、娘の背は傷をもってしてもなお青い果実のように見えるのだ。
(忌々しい)
この期に及んでも、肩口に押さえつけた娘は震えるだけで泣きもしない。痛みのせいか、羞恥のせいか、力なくディナンに押さえつけられたまま抵抗も出来ないというのに。
「――邪魔するぜ」
ディナンの奇行に呑まれつつあった店に珍客が現れた。
「……ちっ。テメェか」
舌打ちしたバンディッシュは呆けた空気を霧散させ、珍客を睨み上げる。
「ご挨拶だな、バンディッシュ。うちの客を引き取りに来た」
銀のほう髪を天に向け、獅子を遥か上空から狙うようにガルカンダはバンディッシュに凶悪に微笑んだ。
「この二人は俺の客だ。返してもらって構わないな?」
そう言いながら、ガルカンダは愛用の長剣の先を床を突き破らんばかりに叩き鳴らした。どん、と軍靴のごとき振動に、バンディッシュたちは今度こそ剣の柄に手をやったが、
「あー、めんどくせぇ」
当のバンディッシュは乱暴に頭を掻いたかと思えば酒瓶を手に椅子にふんぞり返る。
「お前みたいな馬鹿に暴れられちゃあ店が壊れるだけだ。帰れ」
「ああ。言われなくとも連れて帰る」
バンディッシュはガルカンダの揚げ足にも応えず酒をあおった。もう興味はないということだろう。
ガルカンダはそんなバンディッシュには構わずディナンに「帰るぞ」と顎で指す。その後ろにガラットを見つけた。バンディッシュと聞いてわざわざガルカンダを呼びに帰ったらしい。
やれやれと腰を上げると抱えていた弟子が気を失ったようで重みが増す。服を正して抱え直すとバンディッシュが不思議そうな顔でこちらを見ていた。
何だと視線を遣ると、バンディッシュは「とんでもねぇ師匠だな」と肩を竦めた。
何の話か分からないことに返す言葉もあるはずがなく、ディナンが酒場を出ると外で待っていたガルカンダは彼を今にも殴らんばかりに睨みつけて腕を差し出してくる。
「まったく何て奴だ。殴られてる弟子を更に殴る師匠があるか」
ガルカンダはディナンに腕を差し向けたまま睨むことを止めない。どうやら自分にこの娘を渡せということらしい。
「お前のことだからどうせ説教の代わりに殴っただけだろうが、何も背中の傷まで…」
「見ていたのか」
ディナンの指摘にガルカンダはぐっと奥歯を噛むように言葉を詰まらせた。
「なるほどな。俺に殺気を投げていたのはお前か」
「俺が見ているのを知っててやったな!」
ガルカンダはこらえきれなくなったのか怒鳴り声を上げるが、ディナンは軽く首を傾げて少し遠ざかっただけだった。
「大体、お前はこいつを何だと思ってるんだ。まだ……子供なんだぞ」
娘、という言葉を出さなかったのは、まだバンディッシュの縄張りに中だからか。
そんなガルカンダにディナンは軽く息を吐く。
「幾ら厄介者でも覗きに渡すつもりはない」
「な…っ」
弟子を抱えたまま平然と歩くディナンに、ガルカンダは何がしか言い募ったがそれを無視してディナンは娘の腰に目をやった。
剣の封印はしっかりと巻かれたままで解かれていない。
剣に手をやる暇もなかったとも考えられるが、この娘は殴られている間も封印を破ろうとはしなかったようだ。
彼女が剣を抜く時は、必ず誰かが死ぬ時だ。
その現実を娘は理解し始めている。
ガルカンダの言う通り、口で説教をする前に痛めつけたのはそれだけ危険なことをしたのだと分からせるためと、剣を抜いたかどうか確認するためだ。もしも剣を握っていれば、ディナンは容赦なく弟子を斬っていた。
(面倒事には変わりないが)
愚痴のように胸にこぼし、ディナンは酒場からずっと追ってくる微かな気配に溜息を落とす。
(――来たか)
酒場でディナンに殺気を投げつけてきたのはガルカンダだけではない。
ディナンが溜息を落とすと肩腕に抱えた弟子が身じろぎをする。だが、顔にあざが出来ているというのに痛みも分からないのかディナンの肩口に頬を乗せたまま娘は目を開けもしない。
(……こいつは、俺のようにはならない)
自分の背に迫る暗がりを払うように、ディナンは弟子の頭を一度だけ撫でた。




