映して
じくじくと痛むその傷の姿をジェニは初めて目にした。
ドミナ・リィが用意してくれた浴室はこじんまりとしていたが清潔で温かく、猫足のついた陶器の浴漕には湯が張られていた。タイル張りの浴室はこの世界では初めてだ。
タオルと一緒に用意された石鹸で久しぶりに体を洗うと、細かい手足の傷がしみたが浴漕の湯に体をひたすと疲れが少しずつ滲みだしていくようだった。
そうして風呂を出たジェニだったが、浴室から続く洗面所には大きな鏡があった。
きっとドミナ・リィの美しい肢体を映すのだろうそれに今映るのは、痩せた少女だ。脂肪をぎりぎりまでそぎ落とされた体には筋肉のすじが出来ている。今までもがりがりでお世辞にも美しいとはいえなかった体が、今や少年のようになっていた。
(ああ…)
ジェニは溜息ともつかない息をついた。
(私はもう、女でもない)
胸に残る膨らみはジェニを女に留めているようだったが、それ以外はまるで少年だ。女でもない、少年にもなれない、そんな中途半端で危うい少女が一人、暗い瞳で鏡に映っている。
ドミナ・リィが絶句した背中はどうだろうか。
ぼんやりとジェニは鏡に背中を見せて首だけで振り返る。
そこには、
(ああ…ディナンもドミナ・リィも嘘をついていなかった)
背中を斜めに走る傷は赤黒く、縫合の痕も生々しく残ったそれは今にも血を吐き出しそうなほど痛ましいものだった。
なるほど、こんな傷では娼婦は務まらないだろう。
見る者を何とも言えない心地にさせる傷などあっては、ジェニにはもう女としての価値はない。
ジェニは、まだどこかにあった少女としての甘えが馬鹿馬鹿しくなった。
(私はもう、何者にもなれない)
そう心が決まれば、ジェニは不思議と清々しい気分になった。
絶望とも諦めとも違う、新たな自分を見いだしたような。
現実は待ってくれないし、優しくない。
ジェニの孤独は誰にも分かりはしない。
けれど、そんな世界にジェニは生きている。
(生きてる)
自らの命を握るように、ジェニは手を握りしめた。
ガルカンダとディナンはこの傭兵の街に数日の滞在を決めたらしい。ドゥルズに着いてからというもの、ディナンは毎日のように一人で出掛けている。
必然的に残されたジェニは手持無沙汰を余儀なくされた。ドゥルズでは他の顔見知りの傭兵たちも何かしらの用事があるらしく、あまりジェニの様子を見に来ないのだ。
それを見かねたのかドミナ・リィはジェニに台所で野菜の皮むきをさせたり、庭の掃除をさせたりと使用人の小僧の仕事をさせていた。
「ジェニ、そっちはもういいぜ」
そう声をかけてきたのは、初日にジェニの荷物を運ぼうとした少年だ。エラムと呼んでくれといった彼は自分より下っ端が出来たのが嬉しいのかジェニに丁寧に仕事を教えた。初日のことはもう気にしていないそうだ。
今も中庭の掃除を二人で終えて、エラムが昼食を厨房から取ってきてくれたところだった。
「これを食ったら買い出しに行くからな」とエラムはナンのようなパンに肉や野菜をたっぷり挟んだサンドイッチと爽やかな柑橘の味がする水をジェニに渡してくれる。
「かいだし?」
食べながら首を傾げたジェニに「市場に買い物に行くんだ」とすでに半分以上サンドイッチを平らげたエラムが言い足した。
ものの十分も経たないうちに昼食を終え、エラムとジェニは市場へ出かけることになった。
「ドミナ・リィから小遣いももらったんだ。一つずつ好きな物買っていいってさ」
エラムは嬉しそうに銅貨を三枚ジェニに渡す。ドミナ・リィに雇われているわけでもないジェニが小遣いをもらっていいものかと迷っていると、エラムは早く銅貨を仕舞えと注意する。
「スリに気を付けろよ。多いからな」
言われた通りに懐に仕舞うとエラムは満足したように市場へとジェニを連れて踏み出した。
市場はとにかく人が多い。色とりどりの果物や野菜が並び、肉は捌かれたまま吊るしてある。簡単な料理を作って売る屋台も多く、食べる人と買い物をする人でごった返している。
そしてエラムの言う通りスリも多かった。買い物をしている最中でも懐をまさぐられそうになるので、ジェニは不心得な手を幾度もすり抜けなければならなかった。
時折剣にまで触れられそうになるので、剣を握ると鍔鳴りに驚いて逃げて行く子供のような手も多い。
この街では剣を提げている人間の方が多く、ジェニが布に包まれた剣を提げていても目立ちはしなかったが、やはり武器を持つ人間は恐ろしいらしい。
最後に重い芋を買い、二人で両手いっぱいの荷物になったところでエラムがジェニに感心したように言った。
「よくスリに遭わなかったな。すぐにスられると思ってたぜ」
悪気のない顔でにかりと笑われて、怒る気も失せてジェニは曖昧に「うん」とだけ答えた。
「でもお前、すぐに団長たちとすぐに発つんだよなぁ」
せっかく子分が出来たのに、とジェニと変わらない身長の少年が口を尖らせた。
「俺、いつか金を貯めて自分の剣を買うんだ。それで戦場に出ていっぱい稼ぐ」
きらきらと光るエラムの瞳には、現実を映す目と夢を見る目が入り混じっているようだった。彼はジェニよりも身にしみて世間の厳しさを分かっているが、この少年は剣の重さを知らないし血塗れで横たわる死体の重さを知らない。
そんなちぐはぐな危うさにジェニは何も言わずに視線を落とす。
かける言葉を見つけられなかった。たとえ、自由に言葉が操れたとしても、ジェニはその言葉をもてなかっただろう。
もどかしさを沈黙に変えていたジェニだったが、路地の奥から何かが聞こえて立ち止まる。
「ジェニ?」
エラムも立ち止まって路地の奥を見遣る。
「きゃあああ!」
女の悲鳴だ。
そう改めて確認したジェニは、荷物を放り出して駆け出していた。
どうして駆け出しているのか、何がしたいのかも分からないまま。




