答えて
火番は結局ジェニに一度巡ってきただけで終わり、夜明けと共にディナンはジェニを叩き起こした。
そしていつものように小枝を握らせて複雑な手捌きや体捌きを彼女に覚えさせているうちに他の男たちも起き出して、一行は朝食もそこそこに野営地をあとにする。
山岳のふもとをぐるりと回るような山は緩い坂道で、馬車はたびたび馬を休ませるために休憩を挟まなければならず、歩みは遅い。
「じゃあ、やるか。ジェニ」
馬を休ませるために休憩に、ジェニはぽい、と何か投げられて反射的に受け取る。木刀だ。投げ込んできた先を見遣ればガルカンダが少し離れた場所で投げた木刀と同じようなものを肩に担いでいた。
「休憩の暇つぶしだ。少し遊ぼうぜ」
そう言って、木刀を巨体が振りかぶるからたまらない。
振り下ろされた木刀を避けてジェニは慌てて体をよじる。剣先をすり抜けるようにして避けながら木刀を退けると、ガルカンダはニヤリと口の片端を上げて間髪いれずに剣を引き戻してジェニを打つ。
まともにガルカンダの一撃を受けたジェニの木刀は衝撃でびりびりと震え、彼女の手はしびれで木刀を取り落とす。ひどい馬鹿力だ。小枝でのディナンの鋭い一閃では受けたことのない痛みだった。
「おいおい、しょうがねぇな。ちょっと教えてやるよ」
そう言ってガルカンダはジェニに再び木刀を持たせて、自分の木刀との剣先を合わせた状態で距離を作る。
「いいか。こうして距離を測るんだ。攻撃するか、防御をするか。相手によって違う」
ガルカンダは説明をしながら、軽く木刀をジェニに伸ばした。それを避けようとしたジェニを制して木刀を引っ込めると、ガルカンダは木刀を指しながら説明を続ける。
「今みたいに、俺が届く距離とお前が届く距離が違う。これを間合いといって、攻撃するか防御するかを判断する。これが基本だ」
間合いは相手との境界線のようなもので、相手よりも早くその境界線を越えることが最大の攻撃となる。
例えばジェニとの先ほどの打ち合いなら、ジェニはガルカンダの懐に飛び込んだが剣を避けて剣先を跳ねるやり方もあったし、剣の勢いを刃で殺してを巻きこむように逆に攻撃するやり方もあった。懐に飛び込むならガルカンダの腕を捕まえて剣を奪う方法もある。
その方法をガルカンダは一つ一つジェニに検証させて、再現させた。
こうしたガルカンダの講義はふもとで休憩をするたびに続いた。
ディナンとの打ち合いと違って体力はそれほど使わないが、ガルカンダの戦法はまるで数学の公式だ。彼の剣術は恵まれた体格を生かした力技だけでなく、ひどく理論的だ。剣を一振りにするにも、どうやって相手を仕留めるかを考えられた動きがある。
野営をするために一行が辿り着いた雑木林では今度はディナンがジェニを呼び、ガルカンダに教えられた戦術を試させた。
今まではディナンの小枝にばかり目がいってしまっていたが、ガルカンダの戦術では剣だけでなく体も武器になる。
そこで小枝を打つふりをしてディナンの足を捕えようと身を低くし、腕を伸ばしたがジェニの襟首を掴んでディナンは彼女をひっくり返す。どう転がされたか分からないままディナンが靴底でジェニの腹を踏みぬこうと足を振り下ろしてくるので、どうにかジェニは彼から距離をとると「小賢しい」とディナンは凶悪に口の片端を上げた。
結局、その日のジェニは息も絶え絶えになるほど打ちすえられて、ルドに夕食だと呼ばれるまで地面を這いつくばることになった。
しかし、そんなガルカンダの講義はその日だけでは終わらなかった。
二日三日、と野営を続けるうちに傭兵の同行者たちもジェニに得物を持たせて講義をするようになったのだ。
「そうそう、上手いよ。槍を取られないように」
かん、かん、と打ちすえられながらジェニが振り回しているのは槍に見立てた長い棒だ。慣れない長い得物に悪戦苦闘しながら、鋭くジェニの急所を狙ってくる切っ先を避ける。
初心者のジェニにも容赦なく切っ先を向けてくるのは、物静かなキエフだ。キエフは筋肉質の長身で性格に見合った暗い色の髪を長くしている以外に彼はほとんど目立ったことはしないし、無駄口を叩かない。
だから先ほどからジェニに教えているのは傍らで二人の打ち合いを見ているアーリルだった。アーリルは中肉中背で明るい茶色の髪を武人らしく切りそろえていなければそうとは傭兵だとは思えないほど、キエフとは対照的に陽気で明るくよく喋る。
「そこだ! ジェニちゃん、突け!」
アーリルの指示通りにキエフの肩口を狙って突いてみるが、その隙は囮だったようであっさりとジェニの得物はキエフの槍に絡め取られて空中へと放り投げられた。
「――余計なことを言うな」
キエフはうんざりしたようにアーリルに言うが、アーリルの方は「ごめんごめん」と軽く口にするだけだ。キエフはアーリルに溜息をついてジェニへと振り返る。
「ジェニ、お前は槍の切っ先を見過ぎだ」
そう簡潔に言うと、今日の講義は終わりなのかキエフは休んでいる馬の方へと向かっていった。
「相変わらず愛想のねぇ奴」
アーリルはジェニに放り投げられた得物を投げ返して、彼女の前に立つ。
「疲れただろうけど、俺たちも行こっか。すぐ出発するから馬車で寝ててもいいよ」
アーリルの言葉にジェニは首を傾げる。
「……今日はここで休まない?」
ジェニの疑問に「わお、ジェニちゃんの声が聞けるなんてラッキー」とアーリルは持ち前の軽口を叩いたが、すぐに真面目に答えてくれた。
「ここは駄目。危ないから」
そう言われてジェニは改めて辺りを見回す。
山のふもとにほど近い平原にあるここは、かつて街があったのだろう廃墟だ。建物のほとんどは打ち崩されていたが、風避けになるぐらいの壁があり、野営には向いた場所だと思われた。
今もキエフとの打ち合いにちょうどいい街の名残であろう舗装された広場があって、そこで今の今まで打ち合いをしていたのだ。そこへ通りがかったアーリルがキエフの代わりにジェニへと助言を投げ出したのである。
ジェニの疑問ももっともだとアーリルは「そうだね」と頷いて、しかし「ここは駄目なんだよ」と繰り返した。
「この街はつい一週間ほど前までちゃんと人が暮らしてた街だったけど、もう人っ子一人居ない。これだけ大きな街だ。何かあったとしても孤児や病人ぐらいは残ってそうなものだけど、誰もいなかった。この意味分かる?」
大分会話を聞き取れるようになってきたジェニにとって、アーリルの話は分かりやすいものだったが、彼の真意をはかりかねて首を横に振る。
そんなジェニにアーリルは「これは推測だけどね」と前置きして話しだす。
「誰かに攻められたんだ。とてもしつこく。だからもうこの街には誰も寄りつかないと思う」
「……どうしてそんなことが分かる?」
ジェニの質問にアーリルは彼女の頭をぽんぽんと撫でることで答えた。
「この街全部の井戸に毒が投げ入れられていたから」
「だから飲んじゃ駄目だよ」と馬車へと足早に向かうアーリルの後ろを重い足でついて歩き、建物の残骸を映す目の端をかすめた井戸から目を逸らした。
地図の読めないジェニにとって、ディナンやガルカンダたちの道程に関する会話は到底ついていけるものではなかったが、自分たちが国境を目指していることは知っていた。
だから、しばしば目にするようになった廃墟に疑問を抱いていた。
アッズーロ王国の山城から、ディナンと辿ってきた行程はジェニにとって生易しいものではなかったが、それでも人の行き来があり、要所に街もあった。ディナンと二人で商隊に潜り込めていたのもそのためだ。
だが最後の街を抜けてからというもの、街と呼べるものはなく、小さな耕作地を持つが村があるだけでほとんど人の往来はない。ガルカンダたちがようやくやってきた客人だったらしく、村人と香辛料や塩(ガルカンダたちは自分たちの報酬を幾らか交易の出来る品に替えている)と旅に必要な干し肉などといった食糧を交換して、村人たちに感謝されていたほどだ。
山と平原を繰り返す地形は複雑だが、そこには確かに街道と呼べるものがあったのだろうと思わせる標識のようなものもあるというのに、道にはろくな人影もない。
街道沿いの街はほとんどが荒れていて、国境へ近付くにつれて廃墟も増えているようだった。
人の営みは消えたとはいえ、人工物はやはり野営しやすい場所なので時折野営に使われていたが、いよいよその野営に使えない街が出てきた。
その意味の答えはどこにあるのか。
ジェニに答えなど出せそうにはなかった。
ただ、その暗闇で満たされた沼に手を差し入れるようなことをすれば戻って来られなくなる。
それだけは分かるような気がした。
――その日は夜中に雨が降った。
ランプを一つ灯して全員で幌馬車に雑魚寝することになったが、ジェニは背中の傷の疼きに一晩中うなされた。




