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乙女は歌う  作者: ふとん
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拭って

 辺りが明るくなってきた朝、稽古をする、と小枝を投げ渡されたあと、ジェニは容赦なく同じように小枝を持ったディナンに打たれた。

 言葉は分からないから何度も教えるようにジェニの手足や肩などを打ち、そうして自分と同じ動きを彼女にもさせるのだ。

 息がすぐ上がる彼女とは違って、彼も寝起きだというのに余裕の顔だ。

 ジェニにとっては長い時間、しかしほとんど太陽の傾きも変わらない頃合いで稽古から解放されると、起きたばかりだというのに倒れそうになる。

 しかしディナンは平気な顔でゆったりと踵を返し、荷物から顎が外れそうになるほど堅い干し肉とパンを取り出して同じように取りだした金串に刺した。


「デスタルイ」


 燻ぶっている程度には火の残る焚き火の前に陣取ったディナンは、今にもその場に寝転んでしまいそうなジェニに咎めるように言う。

 そういえば剣を持っていない、と起き上がると今度は革袋を投げ渡してくる。

 見覚えのある革袋にはたっぷりとした弾力がある。

 昨日、ジェニが水を空にした革袋だ。

 ディナンが水を見つけて汲みに行ったのだろうか。

 

 ディナンを思わず見上げると、彼は早く来いと促すように顎をしゃくり、いつもの無表情で金串に刺した干し肉とパンをジェニに寄越す。

 ほどよく焼けたパンと肉はかりかりとしていてジェニでも簡単に噛み切れそうだ。


(……噛めないこと、分かってたの?)


 ディナンは、ジェニのことなどほとんど何も見ていないような素振りしか見せない。

 

「あの」


 なぜ分かったのか、と問いかけようとして、今は剣を持っていないことに気がついた。


(もどかしい)


 言いたいことをすぐに言えないことが、これほどもどかしいとは知らなかった。

 だが、当のにわか師匠はすでにジェニのことなど忘れたように干し肉とパンにかぶりついていた。


(……言葉を、覚えよう)


 せめて言いたいことが言えるようになれば、この得体のしれない男の考えを少しでも読み取れるようになるかもしれないのだ。


 ようやく体が熱を持ってきたように思えて、両手に抱えた朝食を食べることにジェニは集中した。


 朝食を終えるとすぐに火を始末し、ディナンはすぐに発つと彼女に告げた。

 その際、昨日のように剣を胸に抱えるジェニを見てまた溜息をつく。


「昨日、剣帯をやっただろう」


「けんたい?」


「これだ」


 そうディナンは自分のマントをめくって見せた。彼の腰には太いベルトが巻いてあって、細身の剣が二振りも下げてある。他にも小さなナイフが備えてあって、このベルトだけでどれほどの重さになるのかとジェニは青くなった。彼は身一つにこれだけの重量を抱え、更に荷袋も抱えていても昨日のような速さで歩くのだ。


「金具をつけてやっただろう。同じように下げてみろ」


 それ、と指差す剣を布ごと巻きこんだ金具をベルトに下げると、彼と同じように剣は体に沿って下げられた。


(これで、いつでも剣を抜きやすくなった)

  

 こうして歩かねばならないと突きつけられて俯くジェニを放って、ディナンは森へと視線を向ける。


「ヴェニ・ク」


 剣を下げても言葉は分からないらしい。

 歩き出したディナンを追って、ジェニはそっと剣の柄を握った。


 街道と違って森には道はない。

 しかしディナンは地図もコンパスもなしに迷いなく森を進んだ。

 時折何かを確認するように辺りを見回すが、ジェニが追いつくとすぐに歩き出す。

 お前の足に合わせていては、と言っていた通り、今日はある程度彼女の足に合わせて歩いてくれているようだ。

 しかし、同時にジェニの足に合わせていては森に抜けるには時間がかかる。


(足手まとい……)


 世間知らずのジェニが役に立てることなど何もないが、さらに足を引っ張っているとなると居たたまれない。

 ディナンにしてみれば、ジェニは剣の付属品に過ぎないのだろうから。


(……でも)


 今朝の稽古といい、彼はジェニに教えようとしているのかもしれない。

 この世界での生き方、それから剣の扱い方。

 連れて歩くにせよ、せめて足手まといにならないようにと思ったからかもしれない。

 やり方は乱暴で、一つも親切なところはないが、いくら失敗しようとディナンはきっと、ジェニに焚き火の用意をさせるだろう。

 出来ない時も、出来るようになってからも。


(いったい、何がしたいんだろう)


 生き方も分からない娘を親切心で面倒を見るような男ではないのは、もう知っている。

 かといって、金を得ようと努力をする人間にも見えない。

 例えばジェニを更にどこかへ売り飛ばそうとするような、熱心さもないのだ。

 だが、こうして立って歩くのさえ精一杯のひ弱なジェニを放り出すこともしない。


(……変な人)


 本人は歴史学者だと言っていたが、何処の世界に暗殺者を軽くあしらえる歴史学者がいるものか。

 それぐらいはジェニにも分かる。

 彼はもっと、彼女では想像もつかない中身をあの地味な容姿にいくつも持っている気がした。


 それからどれほど歩いたか、二人無言で森を進んでいると、不意にディナンが片手を上げてジェニを制止する。

 訝る彼女を小さく振り返り、音も立てずに荷袋をその場に置いた。

 そして静かにしゃがむとここに居ろと言うように地面を指差す。

 その様子に訳も分からずジェニは彼と同じようにその場にしゃがむ。

 彼女の様子を見て取ったディナンは、森の茂みに目を遣った。

  

(空気が…)


 今まで聞こえていたはずの鳥の声さえ、彼の周囲から消え失せる。

 水に潜ったような一瞬の息苦しさがディナンに集まったかと思えば、それは瞬きも許さないうちに鋭く放たれた。


ギャン!


 何処か遠くで悲鳴が聞こえて、思わず握った剣が声の死を伝えてくる。

 ジェニが顔を上げた時には、すでにディナンが茂みへと足を向けていた。

 長身を折って彼が茂みから掬いあげたのは、


「森に居る間に、お前もやってみろ」


 首元にナイフの刺さった、兎にも似た動物だった。


――それから後のディナンは、やはりというか非情だった。

 ナイフをジェニに持たせたかと思うと、彼女に解体をやらせたのだ。

 泣きそうになりながら肉に出来た頃には、すでに日は傾いていた。


 昨日と同じように薪を集めてディナンに火種を作れと命じられ、焚き火になった頃にはもう暗い。


(これで一日が終わるなんて)


 ディナンの目測よりも森を抜けるまで時間がかかるのではないか、と突きたくもない溜息が出た。

 今日の寝床は幸い湖が近い。手についた血の匂いが取れなかったが、手を洗うことが出来るのはありがたい。

 森に入って二日目にして兎というご馳走を食べた腹はうっかりすると眠くなるほど満ちている。


(あきれた)


 あれだけ怖がったというのに、肉を食べて眠くなっているのだ。


(……生きていけるのかな)


 ぼんやりと座り込んで眺めた手は、小さな傷でぼろぼろだ。


「ジェニ」


 慣れない名前で呼ばれて顔を上げると、焚き火の向こうでディナンが荷袋を開けて何やら箱を取り出していた。


「ヴェニ・ク」


 何事かの言葉にジェニは剣の柄を握ってみるが、翻訳は追いつかない。


「あの」


「何だ」


 そういえばあまり質問をしたことがないな、と思いながらもディナンが嫌がる様子もないので続ける。


「ヴェニ・クってどういう意味なんですか?」


 ここ数日、常に言われている言葉だ。

 しかし剣を握っていると自然に言葉が分かってしまうので、原文では意味が分からない。

    

 ディナンは少しだけ不思議そうな顔をして、「ああ、そうか」と頷いた。


「言葉を聞いただけでは分からないか」


「はい」


 今度はジェニが頷くと「そうか」とディナンは納得顔になる。


「こっちに来い、という意味だ。……早く来い」


 なるほど、とジェニの方も納得して彼のそばへと寄った。

 箱を広げた彼は小さな壺を取り出してジェニに手を差し出す。


「手を出せ。薬を塗る」


「え?」


「小さな傷でも化膿する」


「早くしろ」とディナンはもたもたとするジェニの手を取る。


(……どうして分かるんだろう)


 壺から軟膏のようなものを指に掬い取ってジェニの手に塗りつけていくディナンの手は硬い。ごつごつとした石のようで、雪解け水のように冷たい。

 そのくせそばに寄ると、焚き火とは違う人肌の温かさがある。


(親切でもない、冷たい人なのに)


 優しい言葉など一欠片もかけてくれないというのに。


「あの、……ありがとうございます」


 薬を塗り終えたディナンに、咄嗟にそう言うと彼は訝るように眉を歪めて無言でジェニの手から剣の柄を外させた。


「ラ・リングラツイオ」


「ら…?」


 首を傾げたジェニの手を再び剣の柄に触れさせると、ディナンは繰り返す。


「ありがとうございます、だ。言ってみろ」


 そう言って、柄から手を剥がす。


「ら…ラ、りんぐらついお?」


「シ」


 よし、ということか彼はジェニの手を剣の柄に戻す。


 わざわざ言葉まで教えてくれようというのか。

 薄情なのか律儀なのかよく分からない人だ。


 困惑したままのジェニを無感動に見遣って、ディナンは続けた。


「次は服を脱げ。背中の傷に薬を塗る」


「なっ…」


 カッと顔に血が昇ったジェニをやはり無情に見返す緑の瞳はどこまでも冷たい。

 治療と分かっていても羞恥が先に走るジェニの様子を眺めて、ディナンは無造作に彼女の服に手をかける。

 慌てて剣の柄を放してしまったジェニの背中をめくり上げて、ディナンは容赦なく包帯を外してしまう。


「ノ・ロモローザ」


 溜息混じりの声に罪悪感など塵の一つも感じられない。

 きっと、大人しくしろ、などという意味に違いない。


(この人は…!)


 直接背中の傷に触れる指は冷たく、薬が伝う傷は痛い。

 なぞる指が余計に冷たく感じるのは、彼女の体が羞恥に熱いせいだ。

 痛みと恥ずかしさで泣きたくなるのを堪えながら、ジェニはぎゅっと目をつむって身を丸めるのだった。     

 


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