放す
(起きない、な)
薪を弄びながら焚き火の向こうで体を丸くして眠る娘をディナンは眺めた。
背中の傷に化膿止めを縫ってやる際にはあれほど嫌がって暴れたというのに今は静かなものだ。
羞恥からか真っ赤になっていた背中を丸めて、木の根元で眠る猫のように縮こまってその中心に剣を抱いている。
この世でたった一つ縋れる物だと言うように。
事実、彼女にとっては剣だけが頼りだろう。
得体のしれないディナンをすぐ信用できるはずもない。
しかし、彼女はディナンの言葉はあまり疑わない。
信用できないと思いながらも、この世界で彼女の素性を知る数少ない人間だからか。
(刷り込みのようなものか)
卵からかえったばかりの雛は初めて見た動くものを親だと思う。
彼女にしてみれば、自分を初めて助けた人間がディナンだということになる。
(助けたというにも、語弊はあるが)
ディナンにしてみれば、自分の持ち物の管理だ。
奴隷を持つ趣味はないが、呪われた剣と共に買ったのは事実。
しかし、当面の主だった理由もなく世話を焼く必要がないというのも事実だ。
買われた娘の方が不思議な顔をするのは当然だと思われた。
初めて街に入った時のように宿に放り込んでおいた所で何の問題もない。
(あの時は仕方なかった)
何故か言い訳をして薪を火に放り込む。
馴染みの娼婦に情報を仕入れに行っていたのだ。何せ山暮らしでは目の前の暗殺者ばかりで国の動きも兵の動きも分からない。今後の行き先を決めるにも、情報が必要だったのだ。
その夜は久しぶりに酒を飲み、そのまま娼婦とベッドを共にしたのも仕方のないことだ。
だがその罪滅ぼしのように、娘を弟子にする必要も無い。
(大体何に対しての罪だ)
娘は剣の付属物である限り、殺さない程度に衣食住の面倒を見ていれば観察はできる。
ここ数日で、剣と娘について分かったことは幾らかある。
まず剣から手を放すと彼女は言葉を解さないこと。そばにあるだけでは彼女は剣の恩恵を受けない。
それから彼女はどうやら剣の機嫌のようなものを感じていること。
こちらに向けられる殺気はディナンにも感じ取れるが、それ以外のことは分からない。
恐らく事情を知らない者は剣からの殺気か彼女からの殺気か分からないだろう。常識的に考えて、彼女からの殺気だと思うはずだ。
このことから分かるのは、剣が常に意思を持っているということだ。
今は呪布に包まれているから寝ているか大人しくしているのだろうが、それでも娘に感情をぶつけている。
思考し、主を行動させ、自分の意思を伝えることができる、生きている剣なのだ。
他の文献に残る、いわゆる呪われた剣というものは、持ち主の意思を完全に奪い、獣のように得物を探して回るという原始的なものだ。この場合、持ち主の体のことなど一切お構いなしで、持ち主が朽ちれば次の主を待つ。
しかし、娘の持つ剣は幾度も死にそうになる娘を奮い立たせ、ともすれば理性を失いかけている彼女を強引に正気に戻して死地へと放り込んでいる節がある。
そうとしか考えられなかった。
起きる気配のない厄介者を見つめてディナンは溜息をつくように目を細める。
怪我の治療に何度も触れた体は細く、たった数日で傷だらけになった手足は細くか弱い。昼間のこともそうだ。ディナンが普通に歩きだした途端に彼女は追いつけなくなった。これでは急ぐことも出来ない。背中の傷のこともそうだ。幾ら強めの痛み止めを与えているとはいえ、普段の彼女であれば、ベッドから起き上がることすら難しいに違いない。
恐らく、剣の支配が体を無理矢理持たせているのだ。
元から剣を扱うにも、旅をすることさえできそうにない弱い娘なのだ。
何せ、干し肉もなかなか噛み切れないほどのお嬢様育ちだ。夕食のパンと干し肉を何度も水で流し込んでようやく食べていたほどの。
殺さない程度に、とディナンが気を付けていても、次の朝には冷たくなっているのではないか。
薄情だと自覚しているディナンでさえ不安にさせる、そんな少女。
彼女が剣を扱えるようになる必要はないのだ。
だが、と彼女が集めてきた薪を一つとって弄ぶ。
名前を与えた。食事をさせ、服を与え、今度は知識も与えようとしている。
(……今日のところは、俺が火番をするか)
寝る前に交代しろと言った言葉を自分で呑んで、ディナンは薪を焚き火に放り込んだ。
翌朝、日の光もままならない頃に叩き起こし、ディナンは残しておいた短い薪を彼女に投げ渡した。
何のことだかさっぱり分かっていない娘に「剣を握れ」と指して告げる。
「これから毎朝、俺と稽古だ。枝をとれ」
娘の顔がこの上もなく不思議そうに歪んだ。
彼女に言葉は通じない。
そのためディナンは容赦なく小枝で彼女の手の甲や肩口を突いた。そして突いて終わりではなく、それを彼女に真似させる。
それはディナンがこれまで叩きこまれてきた忌わしい術の模倣だったが、必要なことだとディナンは自分に言い聞かせた。
この娘が剣を扱える必要はない。
だが、扱えなければ彼女は遅かれ早かれ死ぬだろう。
殺そうとした相手に殺されるかもしれない。この世界でろくに生きる術を持てなくて死ぬかもしれない。
たとえ生きていられたとしても、いつか剣の支配に殺されてしまうだろう。
ディナンにとって、この生きて動く厄介者は厄介以外の何物でもない。
ひゅん、と風を切って娘の喉に小枝を突き付ける。
何度も繰り返しているせいか、彼女はもう泣き出しそうだ。
(いっそ泣いてしまえばいいものを)
そうして大人しく丸まっていれば、猫のように慰めてやる気も起きるかもしれない。
だが、立っているだけでも弱弱しいというのに彼女は一向に泣きもしないし喚きもしない。ただ唇が切れそうなほど噛んで、ディナンを睨み上げてくるのだ。
外見は柔らかな果実のようだというのに、中身は小石のような娘だ。
だからつい、面白くなってディナンは彼女を蹴飛ばしてしまう。
「イタイ!」
聞いたことのない発音で発せられる言葉の意味は分からない。言葉が分からないのはお互い様だ。
小枝の持ち手を酷く打って、彼女の小枝を高く放り上げる。
「今日はこれで終わりだ。飯にするぞ」
言っても分からないと思いながら、そう言い残してディナンは彼女に背を向ける。
その背を彼女が睨んでいると知りながら。
(荷物のくせに生意気な)
きっと、頭の悪い娘ではないからディナンが彼女を荷物程度にしか思っていないことは分かっているだろう。
それでも睨んでくるのは、抑えきれない負けん気か、ただ悔しいからか。
(生意気な口は、言葉が分かるようになってから利くんだな)
この上もなく面倒なはずの娘を面白いと思うからいけない。
それでも甘やかす気はない。
森では学ばせることも多い。
手始めに狩りを教えてみるか、と算段を立ててディナンは自分でも意地の悪い笑みを溢す。
狩りは生き物を殺すだけではなく、食べることもしなくてはならない。
あの箱入り娘は動物の解体などやったこともないだろう。
(どんな顔をするのか見物だな)
そうやって面白がっていることなどついぞ知らない娘は、律儀にディナンの後に着いてやってきて、不機嫌な目で彼を見上げてくるのだった。




