放して
朝日と共に街を出たあと、二人は細い街道を歩きだした。
街道に人がまばらに増えてくると、ディナンはジェニにそばへ寄るよう指先で招いて呼び寄せる。
何か話すつもりかと、ジェニは慌てて剣を胸に抱いたまま彼の隣に並ぶ。
「今日中に森まで歩くぞ」
森、とディナンが指したのは街道の向こうにこんもりと見える木の群れ。近いようにも見えるが、ここは平原だ。目測よりも遠いのかもしれない。
ジェニが目を細めると、ディナンは再び先へと歩き出した。
「お前、目は良い方か?」
突然何を聞かれたのか分からず、まばたきをするが「たぶん」とジェニは頷く。
「悪い方ではないと…」
「良いのか悪いのか、はっきりしろ」
無感動だがどこか苛立った応えにジェニは思わず俯いた。
「……ごめんなさい」
俯いた頭に浴びせるように、今度こそ呆れたような溜息が聞こえてくる。
「簡単に謝るな」
そう言って、ディナンは革袋をジェニに投げて渡してきた。寸でのところで受け取ると、彼はやはり無表情に彼女を振り返る。
「今日の行き先は言ってやったんだ。休憩は自分で判断してとって、勝手についてこい」
簡潔に言い残すと、ディナンは一段と足を速めていってしまう。
その背中を半ば唖然と見送ったものの、ジェニは慌てて茶色の頭を追いかけた。
(……これ、水?)
受け取った革袋にはたっぷりとした弾力がある。ディナンの持ち物であることには変わりないが、彼の水ではないのだろうか。
(追いかけないと)
それからはまるで軽いマラソンだ。
とにかくディナンの足は速く、そしてただ立っているだけならどうということもなかった剣が重い。片手でも重い剣を今や両手で抱えているが、重いマントは脱いではならない。街道に居るのは荷馬車を操るような農夫や商人ばかりで、剣を持った人間は目立つ。
昨夜のことを考えれば、恐らく剣を持つ者は珍しくは無い。
(でも、あのディナンも隠しているんだもの)
剣を抜けば手練れの山賊でさえ易々と斬り伏せてしまいそうなディナンも目立たないように剣をマントの下に隠している。武器を持つ者は珍しくはないが、目立つのだ。
人の目になるべく触れないよう、記憶に残らないように行動しなければならない今は、これ見よがしにさらして歩くことは避けたい。
そこまで思い至って、ジェニは溜息をつく。
(……私、何考えてるんだろう)
ほんの数日前までは制服を着て、学校へ通っていたはずだ。
ジェニ、などという名前ではなく、須崎潤子という名前で呼ばれ、普通に笑い、少しだけ落ち込んで家に帰って家族に囲まれていた。明日は当然のごとく、いつもの毎日が続くのだと信じて。
小さく切れる息の下、剣の鞘が鳴らないよう気をつけながら埃っぽい土の道を半ば走るように歩いているなど思いもしなかった。
人を殺し、友人に容易く裏切られることになるとは思いもしなかった。
ここ数日で見慣れた背中が遠ざかるのを他人事のように追いかけて、ジェニは足を動かし続けた。
ここでディナンを見失えば、ジェニは遅かれ早かれ死ぬことになる。
(死にたくない)
涙も枯れた、乾いた瞳で先を睨んで街道を走るしかないのだ。
しかし今まで運動らしい運動をしてこなかったためか、不機嫌な剣の罵倒も嫌がれないほど疲れ、休憩を幾度かしているうちにディナンの姿をあっさりと見失った。
街道を行き交う人が不安そうに歩くジェニを不審そうな顔で見ていくが、幸い声をかけてくる者はいない。
やがて革袋の水が尽きそうになる頃、ようやくジェニは森の手前までやってきた。
(……いない?)
見回してみるもののジェニの目にはディナンどころか人の姿すら見えない。
ただ、逃げ回った広大な森の記憶が足を竦ませる。
だが痺れそうな腕に抱えた剣が、人の気配を告げてくる。
(誰か、居るの?)
日はすでに傾いて、夕暮れが近い。
恐る恐る森へと踏み込むと、辺りが途端に暗くなった。
「――ようやく来たか」
「ひっ」
飛び上がりそうなほど跳ねた心臓を抑えて振り返ると、地味な格好の男がうんざりしたような顔で立っていた。
その顔にはあれほどの速度で歩いていたというのに汗一つない。
「今日はこの森で野宿だ。……お前の足に合わせていたら、あと数日は野宿だが」
すでにがくがくと震えている膝を見破ったのか、ディナンは深く溜め息をついて森へと踏み入った。
その背に一抱えもありそうな荷袋があるのを知って、ジェニははっとなる。
旅をするにはもっと色々なものが必要なはずだ。
それをジェニは一つも持っていない。
持っているのは剣と空っぽの革袋だけ。
(私も、荷物なんだ)
ディナンにしてみれば、ジェニなど歩いて喋る荷物のような物だろう。
役立たずだと突きつけられて、ただ黙ってディナンについて歩いていると、少し草地の多い開けた場所で彼は荷物を下ろした。
「薪を拾って火をおこせ」
いつものように端的に言って寄越すと、ディナンは大振りのナイフをジェニに渡した。
「それから剣を置いて行け」
「え…」
剣が無ければ言葉が分からない。それ以上に、呪われている物だろうがジェニの身を守る唯一の武器であり盾だ。
「大丈夫だ。主が定まっている以上、俺に取り憑いたりしない。そいつは俺こそ斬りたくて仕方ないだろうからな」
ディナンがぞんざいに指差すと剣が呪布の中で暴れ出す。それを何とか抑えながら、ジェニはディナンを見上げた。
「……大丈夫なんですか。その…襲われたりは…」
何が潜んでいるのか分からない森のことだ。怖いのは人だけではない。
「いいから行け。獣も人も近くにはいない。暗殺部隊はほとんど殺してしまったからな。しばらく活動らしい活動もできない」
何食わぬ顔で言うディナンに、肉を断つ感触を思い出してジェニは知らずに腕をさすった。その様子を見て取ったはずのディナンだが、顔色すら変えずに手を突きだした。
「寄越せ。どうせお前以外持つことが出来ない剣だ。盗って失くしたりしない」
いっそのこと失くしてくれればいい。
落ちていく日のように暗い感情に呑まれながら、ジェニは剣をディナンへ渡してナイフだけ手に森に分け入った。
小枝を拾うと言ってもそのまま焚きつけにできるような木は少ない。
落ちている枝を拾い、持ちやすい長さに切らねばならない場合もある。恐る恐るナイフを手にやっているうちに、一抱えほどになった。
それを集めて戻る頃には辺りはすっかり暗い。
ディナンが木の根元に腰かけているのが見えるのは、彼が灯したランプのお陰だ。それでもやはり暗いと感じるので、木を組もうとするが上手くいかない。
見かねたディナンが何やら作業していた手を止めると、ジェニに剣を押しつけて薪から追い払った。
「よく見てろ。次からはお前がやるんだ」
そう言ってディナンは手際よく木を組み、最後にランプの火を枯れ枝にとって投げ込んであっという間に焚き火を作ってしまう。
もう何度目か分からない溜息をついてから、彼は先ほどまで細工をしていたらしい物をジェニに投げて寄越した。
「ベルト…?」
皮と金属で出来たベルトはこれだけでも重いが丈夫そうだ。古いが使いこまれて皮が柔らかい。
「それを腰に下げろ。そいつと一緒に」
そいつ、と指されたのは剣。
よく見れば剣には呪布ごと革ひもが巻きこまれて見慣れない金具で留められていた。
「利き手とは反対側に下げておけ」
言われた通りに左にベルトの金具と剣の金具を繋いで止める。
足には当たらないが沿うように垂れた剣は少しだけ不機嫌を直すようにカチリと鳴る。
吸い込まれるように柄を握ると、片手に鞘を持つよりも楽に剣が傾いた。
抜刀の速度は落ちても、格段に剣を抜きやすい形。
背筋が凍った。
(今…私何を…)
ごくごく自然に、いかにして剣を抜くかを考えた。
それはこの剣の場合、人を殺すことに他ならない。
(いや…)
口元をおさえて震える肩を抱きしめる。しかし震えは止まらない。
今まで忘れていた背中の傷が疼いてたまらない。
いつのまにか側にやってきたディナンは震えるジェニを見下ろして、カタカタと鳴る剣の柄を彼女の手ごと握りこむ。
ぶわりと剣の殺気が広がるが、自由に動けない剣は強烈な苛立ちをジェニに向けてくる。
息苦しいほどの八つ当たりにジェニはディナンを見上げるが、彼は冷たく告げるだけだ。
「怖がるな」
冷たく緑の瞳の男は言う。
「そいつは確かに特殊だが、ただの道具だ。お前の持ち物である以上、お前がそれを扱え」
扱う?
いったいどうやって。
この剣は、殺す以外に何もできはしないのに。
「泣いても喚いてもどうせ逃げられないんだ。支配してやるつもりでこいつを扱え。――やり方は、俺が教えてやる」
鈍く光った緑の瞳に、銀色が混ざり合った。
(怖い)
見下ろす男が得体の知れないことなど分かっていたはずだ。
だが、今は手にした剣以上にこの男が何を考えているのか分からず恐ろしく思えた。
(でも、誰が助けてくれるっていうの)
ジェニに助けは来ない。
あるのは、いつも選択だけだ。
生か死か。とても単純で、簡単にジェニの人生を狂わせる。
ジェニは握らされていた柄を自分で強く握った。
「……あなたは、何を考えているの」
睨み上げたジェニを少しだけ意外そうに見遣ったディナンは、彼女から僅かに目を逸らした。
「簡単に死なれては、買った甲斐もないからな」
そう呟くように言って、ディナンは不意に握りこんでいた手を放す。
ごつごつとした硬い手が放れていく様を見送ったジェニは、手の中から現れた自分の手の小ささに少しだけ驚いた。
彼女の手ごと覆っていた手は思いのほか大きかったのだ。
まるで守られていたような感覚に、ジェニは戸惑った。
(……変な人)
彼女が集めてきた薪を焚き火に投げ入れる背中を見ながら、ジェニは複雑な心地でそっと柄から手を放した。




