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乙女は歌う  作者: ふとん
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見えて

 潤子が気がついたのは、誰かに頬を叩かれてからだ。

 わずかな刺激に目を開けると、淡い茶色の頭がこちらを覗きこんでいる。

 それがやたらと鮮明に見えるので、ようやく窓から日の光が差していることに気がついた。

 潤子は、部屋の端に座り込んでいるようだ。

 しかし生臭い部屋の中を見回して絶句する。

 赤いのだ。

 赤い飛沫が部屋中に飛び散っている。

 その赤い水溜まりの中に転がっているのは、どこかで見た覚えのある服を着た体だったり、腕であったり、足であったりした。

 せりあがってくるものを感じて思わず口を覆いかけた。

 だが、目の前のディナンは潤子の腕を素早く捕らえる。

 その潤子の腕も真っ赤に染まっていた。


「……あ」


「派手にやってくれたな」

  

 溜息をつくディナンの言葉が分かることにも驚いて、潤子は自分の右腕を見遣った。

 真っ赤に染まった柄と右手に護符が巻き付けられている。

 剣は目の前の男を殺せと苛立っていたが、護符のせいで動けないことと、すでに惨劇を繰り返したせいであまり強く潤子を支配しない。


 潤子の様子を一通り観察したのか、ディナンは死体のそばに立って男達の顔を確認していた。


「……手配書付きの札付きか」


 転がった腕を見下ろして、呟いて再び溜息をつく。

 その様子に、潤子は何とも言えない心地になった。

 まるで潤子のせいですべての面倒事が増えたとでも言うようだ。

 しかし、ディナンの方は潤子の視線など意に介さず、部屋を見回したあと再び彼女を見下ろした。


「そいつの首を引き渡せば金になる。その金でこの宿の女将を黙らせて発つぞ」


「ま、待ってください!」


 さっさときびすを返そうとするディナンに潤子は叫んだ。

 言いたいことはたくさんあった。

 潤子は襲われそうになった。

 泣いて叫んだところで、誰も助けになど来なかった。

 そもそも唯一の知り合いであるディナンが潤子を放っておいたせいではないのか。

 全部言いたかった。

 だが、結局潤子の口から出てきたのは気の弱い別れの言葉だった。


「わ、私を幾らで買ったのかは知りませんが、お金は必ずお返しします。ですから、このまま私を放っておいてください」


 さようなら、と言いかけて、いつの間にか俯いていた潤子の目の前が遮られた。

 少しだけ視線を上げると、見覚えのある野暮ったい上着が見える。


「どうやって金を返すつもりだ?」


「それは、働いて……」


「言葉の分からないお前が出来るのは娼婦ぐらいだぞ」


 娼婦、と聞いて潤子は押さえつけられた自分の腕を抱きしめる。


「どのみち、お前みたいな傷物に値段なんかつかないだろうがな」


 静かな罵倒にも近い声を聞きながら、そうだった、と潤子は顔を歪めた。

 どうして昨日は間違えたりしたのだろう。

 ディナンという人は、昨夜の下卑た男たちよりもずっと甘いような声で、もっと残酷な言葉ばかりを選んで話すのだ。


「……じゃあ、どうすればいいの」


 逃げ出したい。

 今すぐ、この惨劇からも、目の前の男からも。

 だが、潤子に行くあてなどあるはずもない。

 握りしめた潤子の右手には、呪われた剣があるだけだ。


「俺の弟子にでもなるか」


 弟子。

 聞きなれない言葉に潤子が顔を上げると、彼女の額に長い指が置かれた。


「お前が一人立ちするまでお前を弟子とする」


 まっすぐ見つめてくる新緑の瞳が、日の光を受けてぼんやりと不思議な銀色に見える。


「お前は俺を師として学べ。ジェニ」


 指の拘束を解くと、ディナンは再び潤子に背を向けた。


「服を調達してくる。お前は下の井戸で身なりを整えろ。すぐに出発する」


 振り返りもせずに部屋を出ていったディナンは、説明する気など微塵もないようだ。

 だが、剣に護符を巻いて、言うとおりに宿の外にある井戸で血まみれの顔や手を洗い流していると、約束通りに新しい衣服を差し出してきた。

 彼は本当に、潤子を弟子とするつもりらしい。

 渡された服は男物だと分かったが、黙って井戸の近くの部屋の陰で身につけた。

 シャツは柔らかなものだったが、ベストと上着は堅く頑丈な生地で、潤子の少女の体型を覆い隠す。

 靴下をはいて頑丈そうなブーツにはきかえると線の細い少年のようだ。

 着替えた潤子から黒装束を受け取ったディナンはそれも潤子の制服のように燃やしてしまう。

 まだ朝の早い時間だから居ないのかと思っていた宿の女将だという昨夜の中年の女性は、挨拶もなく出ていく二人を部屋の奥から強ばった顔で見送っていた。

 ディナンから事情をすでに聞いたのだろうか。

 ひと気のない路地裏を、無言の背中を追いながら俯いた潤子に、無愛想な言葉が投げられた。


「誰彼構わず信じようとするな」


 死ぬぞ、と呟かれて潤子は右手の剣を握る。


「あの女将は、お前をあいつらに売ったんだ」


 温かいスープの味が薄れていくようだ。

 彼らは、潤子が部屋で一人で居ることを分かっていたようだった。

 そんなことを知る人間は限られてくる。


 ふと、前を歩いていたディナンが立ち止まって潤子を振り返る。


「命を狙われているんだ。これからは行動に気を使え」

  

「……どうして、殺されなくちゃいけないんですか?」


「あの聖女さまを保護しているのが、この国の王だからだ」


 お前が切りかかった黒髪の男だ、と言われて潤子はあの蔑みに満ちた冷たい瞳を思い出した。


「王は、聖女と一緒にやってきたお前が居ること自体を消したい。だから、お前が居ることを知っている俺も消し去りたいんだ」


 なら、この男も殺されそうになっているのだ。

 だが、新緑の瞳を見返してもディナンは一向に慌てた様子もない。


「……あなたは、どうしてそこまでして、私を買ったんですか?」


 こうして理由を聞かされれば、確かにディナンが言ったように潤子は厄介事以外の何者でもないのだ。


「言ったはずだ。俺はその剣に興味があった」


 それ以外に興味はないと言うように、ディナンは再び歩き出す。


「まさか誰かに取り憑いた状態でお目にかかれるとは思っていなかったからな」


 溜息のように言う彼は、嘘を言っているようには見えなかった。

 路地裏を抜け、大きな通りに出ると木を組んだだけの門が立っている。

 そこが街の出入り口らしい。

 門番も居ないその入り口からは大きな森と平原に続く細い道が見える。

 その先から、高く昇ろうとする太陽がじりじりと大地を明るく照らし始めていた。


「行くぞ、ジェニ」


 肩越しに振り返る茶色の髪が日の光に透けた。

 ディナンは自分のことを信じろとは言わない。

 きっと、潤子に剣の他に頼るものがないことを知っているからだ。


「ディナンさんは、何者なんですか?」


 潤子の問いかけに彼は少し足を止めて、考えるように数瞬だけ黙って、やがて答えた。


「歴史学者」


 淡々と言ったディナンの顔を、潤子はまじまじと見つめた。

 暗殺者も簡単に殺してしまうような、呪われた剣をあしらうことのできる男が、歴史学者だというのだ。


「……本当ですか?」


「これでも学会に論文を出してる」


 訝る潤子を見遣って、ディナンは「行くぞ」と再び告げる。


「ジェニ」


 得体の知れない男だ。

 でも、と潤子は朝日が照らし出す細い道の先を見つめた。

 彼が潤子をジェニと呼ぶのなら、これからはジェニと名乗ろう。

 彼の弟子として学び、いつか呪われた剣を手放して、日本に帰る。

 雲をつかむような望みに思えた。

 けれど、この儚い望みを胸にしなければ、潤子、ジェニは生きていけないようにも思えた。


(いつか、きっと)


 淡い望みを噛むように、ジェニはディナンの背を追った。



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