眠って
しばらく潤子は渡された金と閉じられたドアを眺めていたが、戸の前にやってきた人の気配に驚いた。
今までの生活の中で、これほど明確に気配を感じられることはなかったのだ。
(この剣のせい……?)
ノックの前に分かっていたが、一応返事をすると、先ほどの中年の女性のようだった。
ディナンが頼んでいた水を持ってきてくれたらしい。
潤子は右手に剣を持ってマントの中に隠した。
潤子には会話のために必要だが、街で見かけた人のほとんどが武器など持っていなかったのだ。
それに持っていたのは男ばかりで、潤子のような若い女が表立って剣を持っていた様子はなかった。
護符を巻いてあるとはいえ、長さで武器だと分かるかもしれない。
ドアを慎重に開けると、女性は少し驚いたような顔をしたが、ベッドの脇に水の入った小さな桶と綺麗な布を置いてくれた。
「お連れさんは?」
「出かけました」
「そうかい……」
潤子の答えに女性はますます顔をしかめる。
「あの、何か?」
「いや。アンタは別に出かける用事はないんだろう?」
この世界のことを何も知らない潤子が、一人で街へ散策に出かけられるはずもない。
だが、
「あの、おなかが空いていて……」
金を渡されたものの、どこで食べればいいのかすら分からない。
「ああ、だったら夕方、下に降りておいで。晩飯を出してやるから」
そう言って、女性はふくよかな顔に笑顔を浮かべるので、潤子は少しだけ頬を緩める。
じゃあ後でね、と言いおいて女性が部屋を去った後は、どこか温かな気持ちになっていた。
改めて部屋を見回すと、ここが一人部屋だと知れた。
ベッドと書き物ができる程度のテーブルが一つだけ。
ディナンは思いつきではなく、潤子と行動を共にするつもりが元々なかったようだ。
水に手を浸すと、誰のものだか分からない血と泥が広がって、溶けた。
手足だけの汚れを拭うと、どっしりとした疲れが潤子にのしかかってきたが、昼間の喧噪に潤子は眠れず、結局夕方までベッドに横たわったまま過ごした。
窓の外の喧噪が夜独特の、大人たちばかりのものになった頃、潤子はようやく起き出して部屋を出た。
よく考えれば鍵を渡されていない。
盗られて困るような物はディナンに渡された金ぐらいだったが、潤子は自分の唯一の荷物である剣を持って階段を降りた。
階下では、やってきた時分には分からなかったが奥が食堂になっており、昼間には見かけられなかった人種がたむろしていた。
ほとんどが男だ。
あからさまに剣を持った者も多く、皆酒を飲んでいるようだった。
酒場などに足を踏み入れたことのない潤子はたじろいだが、店の中年の女性をカウンター越しに見つけた。
マントを頭から被って近づくと、彼女は少し訝しんだが、潤子だと分かるとカウンターの席を勧めてくれた。
「少し待ってな」と彼女が出してくれたのは、温かいスープと堅いパンだった。
ナイフの添えれたパンはスープにひたさなくてはならなかったが、二日ぶりの温かい食事だ。
潤子はゆっくりと噛みしめるようにして口に運んだ。
スープは肉と野菜を煮込んでスパイスを入れただけの簡素な物だったが、冷えきった潤子の腹を満たしていく。
じんわりと血の通うような心地になって、潤子はようやく人間らしい思考を取り戻したような気がした。
生きていくのか、死ぬべきなのか。
それすらも分からない。
けれど、帰る方法を見つけるには、生きなければならなかった。
生きるには、金が必要だ。
宿屋に泊まるにも、何かを食べるにも金が必要だ。
カウンター越しの店主であるらしい中年の女性に次々と支払われていく銅色の貨幣を見つめながら思う。
(いつまでも、あの人のそばに居るわけにはいかない)
ディナンは潤子を金で買ったと言ったが、彼の真意は分からない。
それでも、彼は対価を支払ったというなら、潤子も彼になにかしら支払わなくてはならないだろう。
背中の怪我のこともある。
(怪我が治るまで、ディナンについていってこの世界のことを学ぼう)
学んでいけば、忌まわしい剣をどうにかすることもできるかもしれない。
楽観的にも思えたが、潤子にはここに来て初めてぼんやりとではあるが道筋が見えたようにも思えた。
物事には対価が必要だ。
ディナンが帰って来たらそれを含めて相談しよう。
けれど、と残り少なくなった皿の底を潤子は乾いた瞳で見つめて思う。
自分がこの世界に落ちた、その不幸の対価はいかほどになるのだろうか。




