滲んで
日が高く天頂をさす頃になっても、鬱蒼とした森に温かい陽光の恩恵が届くことはなかった。
ただ夜よりも幾ばくか気温は上がっているのであろうことは、潤子の感覚にも分かった。
いずれにせよ、ローファは山歩きには決して適さないことは身を持って知った。
今、彼女が着せられているのは、ディナンが暗殺者たちの死体からはぎ取ってきた黒装束だ。上着やズボンは袖や裾を折れば着ることができたが、ブーツはどうしてもサイズがあわなかった。
下着以外の身につけていたものは燃やされた。
潤子のはいていたスカートのようなものはこちらの世界にはないそうだ。
追っ手をかわすためだと言われ、潤子は名残惜しい気持ちもあったが炎にスカートを投げ入れた。その代わり、ディナンは潤子の持っていたわずかな私物を取り出してくれていた。
生徒手帳と、リップクリーム。
携帯は暗い穴へと消えた鞄の中だったのでボールペンすらないが、自分の世界の物が手元にかろうじてあることに潤子は慰められた。
死体の衣服はごわごわとしてたがディナンが言うにはそこそこ上等なもので、街に着いたら売り払うと告げて、自分のマントも潤子に押しつけた。
体は冷えきっていたので、マントはありがたかった。
朝、連れられて行った川の水は冷たく、ようやく口にしたのは薬草とディナンから分けられた干した果物だけで、体温は一向に上がらない。背中の大きな傷から相当の失血があったことも、潤子の体力を奪っている。
剣を腕に抱えて、ディナンの背中を追いかけるのは、大変な重労働だった。
しかし、木々の根に足を取られても歩かねばならなかった。
決して優しくはない得体のしれない男が言うには、食料もあまりないから明日には森を抜けなければならないという。
潤子を振り返りもせず先を行くディナンは、朝からずっと歩き通しにも関わらず疲れた様子は見えない。
一見すれば学者のような外見だというのに、見た目からは想像もできないほどしなやかな膂力を兼ね備えている男だ。ざんばらに切られた淡い茶色の髪は前髪が伸びすぎていておざなりで、装いもどこか野暮ったい。
群衆に紛れれば、彼を見つけだすことは容易ではないだろう。
得体の知れない男であることには間違いないが、彼についていく以外に今の潤子には選択肢があまりない。
手に持つ黒剣で彼に襲いかかったところで、潤子が死ぬ確率が上がるだけだ。
生か死か、自分の希望すら分からない潤子にとって、目の前の男についていく以外に何が出来るはずもなかった。
ほとんど休憩も取らず、会話もなく森の中を進んで、ようやくディナンが足を止めたのは、川もほど近い湖のほとりだった。
傾きかけた太陽を避けるように、彼はぐるりと辺りの茂みに視線を巡らせて、「来い」と短い言葉で潤子を呼ぶ。
「そろそろ包帯を取り替える必要がある」
そう言って潤子を茂みの陰に座らせ、背中を向けさせると無言でマントを剥ぎとった。
「えっ」
慌てる潤子を後目に、ディナンは無造作に彼女の上着をめくりあげる。
「やっ」
ひきつった悲鳴が自分の口からのぼったことに、潤子は驚いて口元を押さえた。
顔が熱くなるのを感じながら、潤子はぎこちなく振り返る。
「でぃ、ディナンさん」
「ツィット」
無機質な低い声に、自分が驚くあまり剣を手放していたことに気づいたが、潤子が身じろぎする間に背中を冷たい指がゆっくりと這った。
悲鳴のような、声にならない感覚が潤子の喉を突き刺す。それでも口元を手で覆って耐えた。声になるであろう音は、さっきのような鼻を抜けるような音だと思ったのだ。先ほどのような情けない声をあげるぐらいなら、我慢した方がいい。
だが、服に手をかけるまでの乱暴さが形を潜めた指は、綿でも扱うように包帯に触れてくる。時折地肌を滑るそれはひどく冷たく、潤子を粟立たせた。
だから、潤子は喉に篭もる声をいっそう押さえてこらえなければならなかった。
そっと包帯が緩み、肩から胸にかけての戒めがなくなると、直接森の空気が入り込んでくる。あまり外気に触れたことのない素肌が不安で、潤子は胸元をおさえた。
包帯を抜き取られると、素肌の背中をじっと見つめる視線を感じて肩が揺れる。
恐怖とも不安ともつかない心地で潤子が目を閉じる。
そんな彼女の様子を分かっているのか、冷たい指はことさらゆっくりと背中の傷をなぞった。
右肩から、背骨をまたぎ、左の脇腹の手前まで。
大きな傷だ。
「ケ・ドローレ?」
問いかけられて、我に返った潤子は慌てて剣を手に取る。
「この縫い跡は、痕に残るな」
風に紛れるような呟きに振り返ると、緑の瞳が彼女を見つめ返した。
「悪いが医者が縫ったんじゃないんだ」
「じゃあ、誰が…」
「俺だ」
潤子が驚いて見つめても、珍しくどこか不機嫌な男は無感動に嘆息する。
「骨まで断った覚えはなかったが、重傷には違いなかったからな」
放っておけば死んでいた、とあまりにも淡々と愚痴のようにこぼすので、潤子は返す言葉を見つけられずに口を閉じた。
「血はだいぶ止まったが」
事実を確認するように呟いて、ディナンは再び潤子の背中に手を置き、
「ひゃっ!」
冷たい手が潤子の腰を押さえつけたかと思えば、背中の傷口に生温い湿り気が当てられた。
「血が滲んでいる」
思いのほか低い声が近いので、潤子がかろうじて背中に目を遣ると、茶色の髪が自分の背に半ば押しつけられていることに驚く。
ふわりと背中をこする髪は湿気は帯びているはずがない。
押し当てられているのが唇だと気づいて、潤子はますますいたたまれなくなった。
傷口を、ディナンの舌がなぞっているのだ。
「な、何を……」
「黙ってろ。傷が開くぞ」
潤子には痛むばかりで傷口が開きかけていることなど分からない。痛みより、男の舌が背を辿っていることの驚きで頭の先まで沸騰している。
指よりも柔らかい舌は背中を縫いつけている縫合の糸目すら彼女に伝え、潤子は生理的な涙がこぼれそうになった。
「……んっ」
抑えていたはずの声が漏れる。
痛みと羞恥が一斉に潤子を逆撫でし、泣きそうになりながらとっさに両手で口を押さえた。
枯れたはずの涙がこんなことで戻ってくることにも、潤子は嫌悪すら抱いた。
この男は、まさか性的な目的で厄介な潤子を引き受けたのだろうか。
傷を癒すこともその一環なのか。
だが、潤子には剣がある。
いくら外見に反する剣の達人でも、油断をすれば剣はたやすく彼を斬るだろう。
それに、と涙をこらえて潤子は思う。
平凡な顔立ちに黒髪黒瞳の自分は、どう見繕っても美しくはない。
痩せぎすの体は病的に白いだけだ。
見捨てられた自分に、どれほどの価値があるのか分からなかった。
ようやく男の舌が傷口から離れ、彼が血止めの軟膏を塗る頃には、体の震えはとれなかったが涙はどこかへ去っていた。
新しい包帯をディナンは容赦なく巻こうとするので、潤子は胸に当てる包帯だけは自分で巻くと主張すると、彼は無表情に少しだけ呆れたような顔を滲ませる。
「治療をしたのは俺だと言っただろう」
服を脱がせたのも包帯を巻いたのも彼で。
無愛想で優しくなくて潤子を気遣うそぶりも見えないが、それでも彼は助けてくれた恩人とも言えて。
剣の敵であり、恩人であり、得体の知れない男であり。
潤子は自分の頭の中を駆け巡っている言葉を何一つ捕らえることはできなかった。
結局何もいえないまま、それでも包帯を自分で手に取り巻くことにする。
顔を真っ赤にして一心不乱に包帯を巻こうとする彼女に、幸いにもディナンは不平を漏らさず、ただ黙って彼女の作業に手を貸しただけだった。




