握って
森を見回しても、潤子には一向に方角らしい方角をつかむことはできなかった。
自然の森は草すらかき分けることが難しく、スカートの足の薄皮を少しずつ削いでいく。岩場は苔が根を張り、革靴の底を容赦なく浚う。
そのため、慎重に地面を探し、森をさまよわなければならない。
だが、夜の森は明かりもないのに腕を伸ばして届く範囲以上が見えるはずもなかった。
どこへ行けばいいのかすら判らない。
それどころか、この森を生きて出られるのかさえ、潤子には疑問に思えた。
体は全身が痛み、今にも倒れ込みそうだったが、今この場で気を失うわけにもいかなかった。
遠く、犬のような遠吠えも聞こえる。
恐らく、森の進入者を警戒する捕食者たちなのだろう。
潤子は剣を握りしめた。
剣は、静かに潤子へ森の住人ではない者たちも捉えて高揚しているのだ。
(来ないで)
小さく呟くように潤子は願った。
けれど、その願いが届かないことも、また知った。
びゅ!
剣が無理矢理潤子に体をひねらせる。
遅れて潤子が見たのは、手から飛ばすことに特化した小さなナイフだった。
避けたナイフが地面に刺さったと思えば、すでに次のナイフが飛んでくる。
びゅ!
ナイフを避けながら、剣はすでに潤子を囲んでいる闇夜に紛れた人々を察していた。
およそ動かない体のせいか、剣は最小限の動きでナイフをかわし、やがて焦れたように闇から抜け出てきたような白刃を抜刀で叩き落とす。
一人目。
剣がにやりと笑うようだ。
潤子ではまるで姿の見えない狩人の急所を剣は迷うことなく突く。
ドッ!
悲鳴はもう出なかった。
ただ、ごつりと骨のようなものが剣先に当たった感触が手に伝わって潤子は我知らず顔をしかめる。
刀身を抜き取った剣は、振り向きざまに二人の首をやすやすと刈る。そして死体の倒れざまに剣を奪うと、木の上へ向けて投げ撃つ。
ざっと人が落ちるさまを確認しようともせず、身を翻すと左右から鉤爪のような武器を振りかざす二人を見つけて、退くどころか全力で踏み出した。一瞬のうちに剣を平らかに構えて刀身で半円を描く。
半円上の鉤爪は持ち主の腕ごと弾き飛ばす。その半ば無くした腕を取り、背後から迫っていた槍へ向けて押しつける。
「ぎゃああああああっ!」
悲鳴と共に、槍を持つ人の首も剣は喜々として薙いだ。
それから幾人斬ったのか。
潤子が気がついた時には、羽織っていたはずの布は無かった。
体にかかった血はなかったが、肘から先はまるでペンキでも塗りつけたような有様だ。
血臭は夜の冷気にも溶けず、転々と散らばる死体から濃厚に漂っている。
不快で仕方なく、すべてから目を背けたいというのに、潤子は自分がすでに震えもしないことに絶望する。
殺戮の限りを尽くした剣は満足げに愉悦に浸っているようだった。
本当ならば、これほどの残酷な光景を目にして気が狂わない方がおかしい。
それが、吐き気をもよおしながらも潤子が正気を保っているのはひとえに剣のせいだ。
この剣は、あくまでも正気の潤子を主と選んだようなのだ。
意識を地の底まで堕としたい潤子と、剣の勝利の高揚が彼女の中でせめぎあっている。
潤子が正気を手放そうとすれば、剣は潤子に父母や妹の顔を思い出させるのだ。
潤子が十歳の時に建った小さな一戸建てに四人家族。仕事の忙しい父と、花壇作りが好きな母と、おしゃれな妹と。
特別なことは何もない。
今まで居て当たり前だった家族が懐かしくてならなかった。
そして、この剣を持った潤子が家族の元に帰れないこともまた知る。
この剣が斬るのは潤子の敵だけではない。
剣はそこまで告げて恐怖に立ち竦む潤子を嘲笑い、彼女の狂気をどこかへ持ち去っていく。
その繰り返し。
その繰り返しを重ねて、潤子は森の中で惨殺を繰り返したのだ。
でも、と潤子は思う。
このまま森を抜けなければ、いずれ潤子は死ぬだろう。
今までの日常からは遠かったはずの死が思い出したように肉薄してくるようで、まるで実感がない。
だが、潤子には目の前に躍り出てきた死の予感が希望の光のようにも見えた。
この絶望の夜が、明けるとは思えなかった。




