第二話 消えものしか贈れない
医務院の廊下は、午後三時を過ぎると独特のざわめき方をする。
午前の検査と外来がひと段落し、夕方の業務へ向けて各部署がもう一度動き始める時間帯だ。ワゴンの車輪が床を転がる音、遠くのナースステーションから飛ぶ短い確認の声、コピー機の駆動音、紙を揃える音。静かではない。だが騒々しいわけでもない。忙しさが表にあふれる前の、薄い熱だけが漂っている。
堀島はその廊下を、資料の束を抱えて歩いていた。
提出先の部署へ向かう途中、角を曲がったところで足を止める。少し先の休憩スペースで、他部署の女性職員が三人、紙コップを手に立ち話をしていた。
「今日医務院に行く用事があるから九条先生に会える」
弾んだ声で言ったのは、真麻という名前だった。
堀島は顔と名前が一致する程度には知っている。総務寄りの部署にいる、明るくてよく笑う人だ。
「えー、いいなー」
陽菜が身を乗り出す。
「私も今日なんか用事作れないかな」
「陽菜も医務院行く用事なんか作りなよ」
「そんな魔法じゃないんだから」
そこへ春奈が、紙コップの縁に口をつけたまま少し笑った。
「でも、九条先生って直接会うと緊張しそう」
「するよ、めっちゃする」
真麻が即答する。
「だよね」
「遠くから眺めてると目の保養なんだけど、近づくと心臓がやばい」
「わかる」
陽菜が何度も頷く。
「なんか、綺麗すぎて現実感ないんだよね。しかもちゃんと優しいし」
「そうそう。優しいのに、なんかこっちが勝手に距離取っちゃう感じ」
「わかる。別に冷たいわけじゃないのに、妙に近寄れない」
「たぶん、一人だけ空気違うんだよね」
春奈のその言い方に、他の二人が妙に納得したような顔をした。
「孤高っていうのかな」
真麻が言う。
「いる場所は同じなのに、ずっとちょっと遠い」
堀島はその場を通り抜けるタイミングを失い、資料を抱えたまま立ち尽くした。
たまたま聞こえてしまっただけの会話だった。覗き見のつもりも盗み聞きのつもりもない。だが、その何気ない雑談は、堀島自身がここ数日ずっと感じていたものを、妙なほど正確に言い当てていた。
綺麗で、優しい。
感じが悪いわけではない。
なのに、近づこうとすると一段奥へ退くみたいに、いつも少し遠い。
学会の集合写真から消えた時もそうだった。
明らかに自分で輪の外へ出たのに、誰にも責めようのない顔で戻ってきた。問いかけても、気持ちよくはぐらかされた。その感じのよさが、逆に距離の確かさを際立たせる。
「堀島?」
名前を呼ばれて、堀島は我に返った。
振り向くと、当の九条雅紀が少し先に立っていた。白衣の胸ポケットにペンを差し、手には薄いファイルを持っている。会話の最後のあたりを聞いていたのかどうかはわからない。少なくとも表情からは読めなかった。
「どうかした?」
「いえ、大丈夫です。ぼーっとしてました」
「珍しいな」
九条は穏やかに笑った。
その笑みの形だけで、さっきの会話の内容が現実味を帯びる。たしかに、遠くから見れば目の保養だろうと思う。整った顔立ちや立ち姿だけの話ではない。人当たりのよさと、ほとんど気配のない孤独が、同時に見えてしまうせいだ。
「何か持とうか」
九条が堀島の抱えている資料を見る。
「いや、これくらい平気です」
「そう?」
「先生こそ、どこか行くとこですか」
「会議室に一つお届け物」
「じゃあ俺、ついでに持ちますよ」
「自分の分を先にどうぞ」
優しい断り方だった。
断るのに、相手の善意を削らない。だが、それでもやはり断りは断りで、九条の手元に誰かが入り込む余地はあまりない。
その日の夕方、堀島は九条から小さな紙袋を渡された。
場所は医務院の事務スペースの端、備品棚の前だった。
日勤の職員が少しずつ帰り支度を始める時間で、蛍光灯の白さだけが昼より強く感じられる。
「これ」
九条が差し出したのは、落ち着いた生成り色の紙袋だった。
紐は深い緑。余計な飾り気はないが、安っぽくは見えない。中身が軽すぎず重すぎず、持った時の感触まできちんと計算されているみたいだった。
「この前、資料まわり助かったから」
「え、俺にですか」
「うん」
堀島は受け取りながら、また少し驚いた。
九条は人を見る。
しかも、自分が思っている以上に細かく見ている。手伝ってくれたこと、困っていたこと、その時こちらがどんな顔をしていたかまで、きっと覚えているのだろう。そうでなければ、こんなふうに絶妙な間合いで礼を渡せるわけがない。
「開けていいですか」
「どうぞ」
中には焼き菓子の箱と、小さな缶が入っていた。
焼き菓子は柑橘を使った季節限定のもの。缶のほうは香りの強すぎない茶葉で、以前堀島が「仕事のあと、甘い匂いのしないお茶が好きなんですよね」と何気なく言ったことのある種類に近かった。
「うわ」
思わず声が漏れる。
「先生、これ絶対うまいやつです」
「よかった」
「わあ、絶対うまいですって」
堀島は中身を見つめたまま笑った。
「しかも、俺の好みど真ん中なんですけど。なんでわかったんですか」
「前に言ってたでしょう」
「そんなの、覚えてるんですか」
「覚えてることもあります」
九条はそう言って、少しだけ目を細めた。
その表情の柔らかさに、堀島の胸が不意に温かくなる。見てもらえていたのだ、と思う。自分が何を好きだと言ったか、どういうものを選ぶか、ちゃんと記憶のどこかに置かれていた。その事実自体が、贈り物以上に嬉しい。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
「かなり嬉しいです」
そこへ、ちょうど真壁が通りかかった。
書類を脇に抱え、こちらを見るなり足を止める。
「何だ、また九条が何かやってる」
「またって何ですか」
堀島が笑うと、真壁は紙袋の中身を見て、ああ、と納得したように頷いた。
「らしいな」
「真壁さん、先生って昔からこうなんですか。こういうの、うますぎません?」
「うまいよ。気が利くし、人の好みも変に外さない」
「ですよね」
そのやりとりに、少し遅れて二階堂も加わった。
広報用の封筒を抱え、壁に肩を預けるように立つ。相変わらず、わざと力を抜いた立ち方がうまい。
「いいな、それ」
「二階堂さんにも自分で買えばいいじゃないですか」
「俺は九条に選ばせたいの」
軽口めいた言い方だった。
だが、目だけは紙袋の中身をじっと見ている。
「九条が人にやるものって、消えるやつばっかだよな」
空気が、そこで微かに変わった。
嫌味ではなかった。
ただの観察みたいな声だった。
だからこそ、その一言はごまかしにくかった。
堀島は思わず紙袋の中を見下ろす。
焼き菓子。茶葉。前にもらった差し入れも菓子だった。学会帰りに別部署へ渡していたのは小さな花束だったらしい。消耗品、食べ物、茶、花。確かに、どれも残らない。
「別に、扱いやすいでしょう」
九条は穏やかに言った。
「邪魔にもならないし」
「便利ってだけで選ぶなら、もっと適当なもんでもいいだろ」
二階堂の声は静かだった。
「お前のは毎回、ちょうどよく当たりすぎる」
「褒め言葉として受け取っておきます」
九条は笑った。
だが、指先がわずかに袖の端を押さえるように動いたのを、堀島は見た。
真壁も見ていたらしい。露骨に嫌そうな顔はしないが、視線だけが少し硬くなっている。
「そういえば先生」
堀島は会話を明るいほうへ戻そうとして、思いきって口にした。
「今度は俺がお返ししたいです。せっかくなんで、ちゃんと何か選びたくて」
九条がこちらを見る。
目元は優しい。
けれど、その優しさの奥で、何かが先に身構えるのがわかった。
「そんな、気にしなくていいよ」
「でも、もらいっぱなしって落ち着かないじゃないですか」
「しろやぎとくろやぎになるよ」
「それはそうですけど」
「じゃあ、消えるものがいいな」
九条は軽く言った。
軽く言ったつもりだったのだろう。だが、その言い方はかえって不自然だった。
「え?」
堀島が聞き返すと、九条は一拍遅れて笑った。
「なんてね」
堀島の胸に、小さな違和感が落ちた。
なくなるもののほうが困らない。
それは物の種類の話のはずなのに、妙に響きが深い。
真壁が何か言いかけたのを、二階堂が目だけで制した。
その視線のやりとりが、堀島にはかえって気味悪く見えた。二人とも、今の九条の言葉を、もっと別の文脈で理解している顔だった。
その夜、真壁と二階堂は警視庁近くの定食屋で夕食を取っていた。
遅い時間だったが、店はまだそれなりに混んでいる。
簡易仕切りで区切られた半個室風の席に通され、互いの顔は正面から見えるが、隣の席の客の顔は見えない。声だけが近い。油の匂いと、味噌汁の湯気と、箸の触れる音が絶えず漂っている。
「ここ、来るたび思うけど、仕切りの意味あるのか」
真壁が箸を割りながら言う。
「顔見えないだけマシだろ」
二階堂は水を飲んだ。
「深く踏み込んだ話はしやすい」
「お前が人の見えないところで余計なこと聞くからな」
「九条のこと?」
「お前、今日もだいぶ刺してただろ」
二階堂は答えず、メニューを閉じた。
その時、隣の席から若い男たちの賑やかな声が聞こえてきた。四人いるらしい。口調からして、警視庁の一年目が二人、二年目から三年目あたりが二人、といったところだろうと真壁は思う。
「まあ、お前ら遠慮すんな。今日は吉田のおごりだ」
「俺かよ」
「あざーす」
「ごちになります!」
真壁と二階堂は、思わず同時に黙った。
若手の空気だ。声の明るさと遠慮のなさが、聞くまでもなくわかる。
「職場には慣れたか?」
「んー、少しずつ?」
「人の顔と名前覚えるのがまだっすね」
「多いからなあ」
「抑えるべき人たち抑えとけば大丈夫じゃね?」
「抑えるべき人っすか?」
「あー、たしかに」
「例えば?」
「警視総監」
「それはそうだろ」
真壁が無言で肩を震わせた。
二階堂が口元だけで笑う。
「神谷警視とか、松本警部とかな」
「あー、そこは抑えといたほうがいいな」
「神谷警視と松本警部ですね」
「魔のトライアングルは?」
「あそこは必修科目だ」
「魔の……?」
「なんかすごそう」
「いや、悪い意味じゃなくて、仕事できる人たちってかんじ?」
「そうそう。あと、雰囲気が独特」
「どんな人っすか?」
「一人はお前も知ってるよ。広報課の二階堂主任」
二階堂が「え」という顔をした。
真壁がそれを見て、露骨ににやつく。
「あー……確かに、めっちゃ仕事できる人ですよね」
「少し怖い」
「少しどころじゃないぞ」
「多分、俺の知る中じゃ一番怒らせたら怖い」
真壁は無言で爆笑した。
肩を震わせ、声を出さないまま笑っている。二階堂は嫌そうな顔をしたが、否定はしない。
「ひえええ……怒らせないようにしないと」
「どんなとき怒るんすか?」
「まあ、雑な仕事しなきゃ大丈夫だと思うけど」
「理不尽に怒りちらかす人じゃないし」
「怒鳴られる?」
「ってより、笑顔で人を斬るかんじ」
真壁が深く頷く。
二階堂は「お前あとで覚えてろ」という顔で真壁を見た。
「こわ……!」
「あとの二人は?」
「もう一人は一課の真壁警部補」
今度は真壁が固まった。
二階堂がすぐさまにやにやし始める。
「あ、聴いたことある」
「有名人だもんな」
「あの人は万能だから」
「怖いんすか?」
「いや、むしろ逆」
「逆?」
「怒って見えるけど、すっごい懐が広い感じ」
「頼れる兄貴ってかんじだぞ」
二階堂が「ええ?」という顔をした。
真壁はにやにやしながら深く頷く。
「そして最後が……?」
「医務院の九条先生」
「プリンスな」
真壁と二階堂が、揃ってその呼び名に反応した。
目が合う。
どちらからともなく、無言で笑う。
「ああー」
「知ってます。女子たちが騒いでた」
「背高くてイケメンですよね」
「はかなげな感じの」
「そうそう」
「怖いんですか?」
「怖いってより、なんだろう?」
「無駄がない? 近寄りがたい? みたいな」
「なんかわかります。きれいすぎて近寄りがたい感じしますもん」
「あと、二階堂主任と九条先生の会話がすごい」
「それな!」
二階堂が「また俺?」みたいな顔をする。
真壁はまた無言で笑い始めた。
「会議のときのやりとりとか、何言ってるか半分以上わかんないけど、なんか高度なやりとりしてるんだろうなってかんじ」
真壁はついに声を殺しきれず、短く吹き出した。
二階堂は水を飲みながら、嫌そうに眉を寄せる。
「仲悪いのかと思ったら、そうじゃないしな」
「仲いいんすか?」
「たぶん?」
「なんか、相棒? 悪友? みたいな感じ。信頼してるんだろうなってかんじの」
そこで店員が会計伝票を持ってきたらしく、若手たちの席がばたついた。
椅子が引かれ、財布を出す音がして、四人はわいわい言いながら帰っていく。
残ったのは、仕切り越しの静けさと、微妙に気まずい沈黙だけだった。
「……はー」
二階堂が最初に息を吐いた。
「聴いてよかったのかね、あれ」
「帰るに帰れないしな」
真壁が味噌汁をすすりながら言う。
「来たばっかだったしな」
「俺の評価、だいたい合ってるの嫌なんだけど」
「笑顔で人を斬る」
「お前が頷くなよ」
「実際そうだろ」
二階堂は舌打ちまではしなかったが、それに近い顔をした。
真壁はまだ少し笑っている。
「お前のほうはずいぶん盛られてたな」
「頼れる兄貴、だっけか」
「悪くないだろ」
「懐広いってのは違和感しかない」
「あるよ」
「ない」
「ある」
短いやりとりのあと、二人とも少しだけ黙った。
笑いの余熱が薄れると、若手たちの会話の中で最後に残った名前が、妙に重みを持ち始める。
九条先生。
プリンス。
きれいすぎて近寄りがたい。
無駄がない。
遠くから見ると目を引くのに、近づくと距離を感じる。
「若いのも同じ印象なんだな」
真壁がぽつりと言った。
「何が」
「九条のこと。綺麗で、近寄りがたい」
「外から見てもそうなんだろうな」
二階堂は箸を置く。
「でも、あいつの近寄りがたさって、別に格好つけてるわけじゃない」
「わかってる」
「勝手にそう見えてるだけだ」
「それもわかってる」
真壁の声は低かった。
店の雑音に紛れる程度の小ささなのに、二階堂にはそこに苛立ちが混じっているのがわかった。若手たちへの苛立ちではない。そう見せるしかない九条への苛立ちでもない。もっと扱いにくい種類のものだ。どうにもできない事情を昔から知っている人間だけが持つ、行き場のない感情だった。
「今日、堀島にも言ってたな」
二階堂が言う。
「消えるものがいい、って」
真壁はすぐには返事をしなかった。
代わりに、箸で白飯を少し崩してから口に入れる。飲み込んで、ようやく言った。
「あいつ、人に何か渡す時だけじゃない」
「わかってる」
「自分の痕跡が残るのも嫌なんだよ」
二階堂は黙って聞く。
真壁のこういう声は珍しい。普段は言葉を削る男が、削るのをやめる時だ。
「写真もそうだし、贈り物もそうだし、多分、部屋に置くものとかもそうだ。残るもんには、終わりがついて見えるんだろうな」
「終わり」
「いつかいらなくなる。捨てられる。忘れられる。そういう先を、最初に見る」
二階堂はその言葉を頭の中で反芻した。
終わりが先に見える。
だから最初から、残るものを避ける。
「お前、今日あいつにどこまで言った」
真壁が問う。
「形に残るの苦手だろ、って」
「それで」
「図星だった。あと、捨てられる時のこと先に考えるだろ、とも言った」
真壁の目が、そこでわずかに細くなる。
怒ったわけではない。怒れないのだろう。二階堂が言い当ててしまうことを、真壁自身も否定しきれないからだ。
「お前、ほんと嫌なとこまで見るな」
「お前も見えてるだろ」
「見えてるから嫌なんだよ」
その言い方に、二階堂は少しだけ目を上げた。
真壁は真正面からこちらを見ている。いつもの不機嫌そうな顔だ。だが、その奥にあるのは単純な怒りではない。
「あいつ、ああやって先回りしとけば傷つかずに済むと思ってる」
真壁は言った。
「写真に残らない。物を残さない。人に残るものを渡さない。そうやって薄くしていけば、最後に捨てられる時も痛くないと、どこかで思ってる」
「実際は逆だろ」
「逆だ」
「薄くしてるつもりでも、変なところで残る」
「だから面倒なんだよ」
真壁は吐き捨てるように言った。
「学会の集合写真だってそうだ。写ってないくせに、写ってないことのほうが目につく」
二階堂は少し笑った。
「それ、俺も思った」
「笑い事じゃない」
「笑ってない」
ほんの短い沈黙が落ちる。
隣席の客が立ち上がり、仕切りの向こうで食器の触れ合う音がした。店員が注文を通す声が遠くで響く。そんな日常の騒音の中で、九条の名前だけが妙に生々しく残る。
「堀島は気づき始めたな」
二階堂が言う。
「気づくだろうよ。あんだけ露骨に困られたら」
「でも、まだ優しく行こうとしてる」
「だから危ない」
「何が」
「本気で優しい奴は、九条みたいなのを放っておけない」
二階堂は水を飲みながら真壁を見る。
その言葉は、堀島について言っているようで、少し違う響きも含んでいた。
「お前もな」
真壁が先に言った。
「お前も、放っておかないだろ」
「俺は優しくない」
「知ってる」
「じゃあ何でだと思う」
「読めるからだろ」
二階堂はそこで、少しだけ笑った。
笑ったが、目はまったく笑っていない。
「読めるのに、最後までわからないからだよ」
真壁は返事をしなかった。
それが二階堂にとっては肯定に近かった。
「今日のあいつ、堀島に礼を言ってた」
二階堂は続ける。
「ちゃんと嬉しいんだよ。好意を向けられるのは。見てもらえるのもわかってる。なのに、残る形になった途端、駄目になる」
「だから厄介だ」
「自分で自分を物みたいに扱ってる」
その言葉に、真壁の箸が止まった。
「どういう意味だ」
「捨てられる時のことを先に考えるって、物に対する発想だろ」
二階堂の声は低い。
「贈り物も写真も、最後にどう片づけられるか。どう処分されるか。そういう見方をしてる」
「……あいつは」
真壁は言いかけて、やめた。
それ以上を今ここで言葉にすると、九条本人がいないのに、ひどくまずいところまで踏み込む気がしたのかもしれない。
「だから、お前は嫌なんだよ」
二階堂が静かに言った。
「昔から見てるぶんだけ、あいつがそうなった経緯までおおよそわかる」
「わかったようなこと言うな」
「外れてる?」
真壁は答えなかった。
それが答えだった。
しばらくして、店員が二人の定食を片づけに来た。
ご飯も味噌汁もほとんど残っていない。話している内容に比べれば、あまりに普通の夕食の終わり方だった。
「帰るか」
真壁が伝票を手に取る。
「今日は俺が出す」
「若手の影響か」
「違う」
「懐広い兄貴」
「うるせえ」
二階堂は口元だけで笑った。
それから席を立ちながら、何気ないふうを装って言う。
「九条の部屋、見てみたいな」
真壁の足が止まった。
「やめとけ」
「まだ何もしてない」
「する気だろ」
「読むには現場が必要だ」
「九条は事件じゃない」
「お前にとってはな」
真壁の顔つきが、そこで少し変わった。
怒りに近いものが一瞬だけ浮かび、それをすぐに押し込める。二階堂は見ていた。真壁が九条の話になると、平静でいようとするぶんだけ、逆に感情が輪郭を持つ。
「あいつは」
真壁が低く言う。
「読んでいい相手じゃない時がある」
「それ、お前が決めるのか」
「少なくとも、お前が決めることじゃない」
二階堂はしばらく真壁を見ていた。
それから、ふっと息を抜く。
「怖い顔」
「誰のせいだ」
「頼れる兄貴なのに」
「殴るぞ」
二階堂は肩をすくめ、先に店を出た。
真壁が後ろから続く。夜の空気は思ったより冷たく、さっきまで店内に籠もっていた油の匂いが急に遠のく。
歩道へ出たところで、二階堂がぽつりと言った。
「プリンス、か」
真壁が鼻で笑う。
「似合わねえ」
「遠くから見ればそう見えるんだろ」
「中身知ってたら言えねえよ」
「知ってても言う奴はいる」
二階堂の声は妙に静かだった。
「綺麗で、優しくて、近寄りがたい。しかも自分からは残ろうとしない。そういうの、いちばん目を引く」
真壁はそれに返事をしなかった。
ただ、わずかに歩幅を狭める。
「でもあいつは、憧れられたいわけじゃない」
二階堂が続ける。
「ただ、捨てられる前に、自分を薄くしてるだけだ」
真壁は夜道の先を見たまま言った。
「その薄くし方が下手だから、余計に残るんだよ」
二階堂は少しだけ笑った。
「ほんと面倒だな、お前の幼馴染」
「お前が言うな」
二人はそのまま駅のほうへ歩いていった。
夜の街は、帰る場所のある人間たちの灯りで満ちている。
だが真壁には、九条の部屋を思い浮かべるとき、いつも「帰る」という言葉がうまく結びつかなかった。
残るものを恐れる。
消えるものしか渡せない。
そしてたぶん、自分がどこへ帰るのかも、もう半分ほど曖昧になっている。
そのことを、真壁はまだ誰にも言っていない。
二階堂も、たぶんそこまではまだ読めていない。
けれど遠くないうちに、あの男はそこへも触れてくるだろうと、真壁はぼんやり思っていた。




