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8.聖女の祈りと、世界を騙す嘘

 日曜日の正午。世界は、残酷なほど静謐な光に満ちていた。


 俺は、街を見下ろす高台へと続く急な坂道を登っていた。肺が焼け付くように熱い。額から流れる汗が目に入り、視界が滲む。すれ違う人はいない。遠くで聞こえる選挙カーの演説と、まとわりつくような蝉時雨だけが、ここが日常の延長であることを主張している。


 だが、俺には分かっていた。この坂の先、焼け落ちた廃教会の向こう側で、世界が今まさに「終わろう」としていることを。


 足取りは重かった。行きたくない。行ってしまえば、俺はまた「観測」しなければならない。俺がこの目で見て、「そんなことはありえない」と否定することで、その「聖女」の夢を殺す。それは同時に、彼女自身をこの世界から「異物」として排除し、死へと追いやることを意味していた。


 老婆は言った。『死人が生き返るわけがないという、冷徹な眼差しで見ろ』と。それが俺の役割だと。誰であろうと、俺は殺さなければならない。俺の愛する、この退屈で平和な日常を守るために。


 頂上に着き、錆びついた鉄門を押し開ける。ギィィ、という嫌な音が、静寂を引き裂いた。


 目の前に現れたのは、数年前の不審火で半壊し、黒い骸骨のように晒された廃教会の残骸だった。だが、今のここは違った。鼻を突いたのは、濃厚な「百合」の香り。まるで葬儀場をそのまま煮詰めたような、むせ返るほどの甘い死の匂い。


 光の柱が、真っ直ぐに祭壇へと降り注いでいる。その中心に、彼女はいた。


 真っ白な法衣のようなドレスを纏い、長い髪が微風もないのに揺らめいている。その背中から立ち上るオーラは、これまで見たどの「被害者」たちよりも禍々しく、そして神々しかった。あれが、聖女。この世界のことわりを書き換えようとする、最大の歪み。


 俺は、震える声を絞り出した。


「……何をしているんですか?」


 俺の言葉に、彼女がゆっくりと振り返る。その顔を見た瞬間、俺の思考は停止した。


「……帰って。今は、大切な時間なの」


 聞き覚えのある、気怠げで優しい声。振り返ったその顔は、間違いなく俺の上司――コンビニの店長だった。だが、その瞳はいつもの濁った魚のような目ではない。クリスタルのように透き通り、狂気的なほどの「純粋さ」を宿していた。


「……て、んちょ……?」


「……あ、相沢くん。……」


 店長は、困ったように眉を下げた。彼女の視線の先。祭壇の奥の闇には、三つの影が蠢いていた。トマトのように潰れた少女。ミンチになった男。血まみれのチンピラ。彼らが、店長の祈りによって、この世界のルールを無視して「こちらの世界」へ引きずり戻されようとしている。


「まさかこんなところで、会うなんてね。私ね、相沢くん。……子供の頃から言われてきたの。『天使の生まれ変わり』だって」


 店長は静かに語り始めた。かつて救えなかった命への後悔。自分を偽物だと罵った人々へのトラウマ。そして、夢の中でだけ許される「本物の聖女」としての自分。


「夢の内容を確かめに来たのよ。もし、私が本当に祈って何も起きなければ、私はただの『妄想癖のある痛い女』ってことで諦めがつく。……でも、もし本当に彼らが蘇ったら?私は、あの時の失敗を取り戻せるかもしれないの」


 彼女の祈りが強まる。轟音と共に、教会の壁に亀裂が走った。限界だった。


 老婆の言う通りだ。彼女の力は本物だ。俺がこのまま黙っていれば、死者は蘇り、世界は狂う。俺が「ありえない」と否定すれば、世界は守られるが、店長は「異物」として消滅する。


 どちらも選べない。

 

 なら、どうする。


 その時、俺の脳裏に、ある記憶がフラッシュバックした。去年の冬、大学のグループワークでこの周辺を調査した時に見つけた、崖下の不法投棄現場。何十枚もの古びたマットレスの山と、放置された大量の業務用塗料の缶。


 突如、俺に一つの案が浮かんだ。これが俺の案なのか、世界の意思ってやつなのか。馬鹿げている案。


 だが……俺が求めるモノを手に入れるには、これに賭けるしかないと思った。

 

 俺が「死」を演じ、店長に「蘇生魔法」を使わせる。


 だが、俺は死んでいない。「生者を蘇生する」という論理的矛盾パラドックスを発生させ、世界を騙し、まぎれもない彼女自身に聖女の力を否定させる。


 それは残酷なことかもしれない。いや。


「――店長ッ!!」


 俺は叫び、店長に向かって走り出した。


「嫌っ!来ないで!」


 店長が拒絶し、見えない力が俺を弾こうとする。俺はその衝撃を利用し、彼女の横をすり抜け、迷わず崖の方へと加速した。


「え……?」


「店長……俺も、そっち側へ行くよ!!」


 俺は鉄柵を乗り越え、虚空へと身を躍らせた。


「相沢くん!?嘘、なんで――」


 視界が反転し、重力が俺を地面へと叩きつける。俺は空中で体をひねり、眼下のグレーの山を確認した。


 ――ドォォン!!


 凄まじい衝撃。全身の骨がきしむ音。俺の体はマットレスの山に深く沈み込んだ。同時に、衝撃で弾け飛んだ塗料缶から、粘り気のある赤い液体が爆発したように俺の全身に降り注いだ。激痛が走るが、意識はある。一か八かだったが、どうやら成功したようだ。


(いや、ここからだ)


 俺は全身を真っ赤に染めたまま、ぐったりと動かずに「死体」を演じた。


「あ……あぁ……っ!!」


 崖の上から、店長の悲鳴が聞こえる。

 

 彼女の「本気」が、俺という死を目の前にして爆発した。


「嫌……嫌だ!!相沢くん!戻ってきて!!お願い……!!生き返って……!!」


 カッ、と視界が白く染まる。

 

 かつてないほどの巨大な光が俺を包み込んだ。暖かい。これが「聖女」の力か。彼女は今、全霊を持って、因果律をねじ曲げ、俺を「蘇生」させようとしている。


 世界が軋む音がする。

 

 だが、俺は死んでいない。

 


 「生きている人間」に対して「蘇生」は成立しない。

 


(……今だ)


 俺はタイミングを見計らい、わざとらしく大きく咳き込んだ。


「……ごほっ、ごほっ!」


 そして、ゆっくりと起き上がり、崖をよじ登って聖堂へと戻った。そこには、光の中で祈り続ける店長がいた。彼女は俺の姿を見ると、顔をくしゃくしゃにして駆け寄ってきた。


「相沢くん……!よかった、生き返った……!私の祈りが、届いたのね……!」


 彼女は確信していた。自分の魔法が成功したと。


 俺は頭についた赤いペンキを拭いながら、ニカっと歯を見せて笑った。


「……なーんてね!店長、大成功です!これ、ドッキリですよ!」


「……え?」


 店長が呆然と立ち尽くす。俺はオーバーリアクションで両手を広げた。


「驚きました?いやー聖女がどうたらとか死者を蘇らせる!とか中二病みたいなこというからビックリさせてやろうと思いまして。ほら、この血だって、ただのペンキですよ」


 俺は自分の服についた赤い液体を指ですくい、舐めてみせた。


「うわ、まずっ。……ほら、業務用塗料です。崖下にマット敷いてあったの見えませんでした?」


「ま、待って。でも、光が……私は貴方を生き返らせて……」


「いいえ、生き返ってませんよ。最初から死んでないんですから」


 俺は断言した。

 

 その言葉が、くさびとなって世界に打ち込まれる。


 店長は「魔法を使った」と信じている。


 だが、現実は「物理トリックで助かっただけ」。この二つは両立しない。世界は、より強固な事実である「物理」の方を選択し、「魔法」の方を妄想として切り捨てた。


 パリン、と何かが割れる音がした。

 

 店長の背後に漂っていた三人の影が、ガラス細工のように砕け散り、霧散していく。

 

 彼らをこの世に繋ぎ止めていた「聖女の力」という概念そのものが、論理的矛盾によって否定され、消失したのだ。


「……あ、あれ?みんな……?」


 店長が空を見上げる。そこにはもう、禍々しいオーラも、死者たちの姿もない。あるのは、ただの埃っぽい廃教会の天井だけ。


「……そっか」


 店長がへたり込んだ。彼女の目から、透き通ったクリスタルのような輝きが失われていく。


「私、何もできてなかったんだ。……魔法なんて、やっぱりなかったんだね」


 彼女の言葉が、確定事項として世界に響く。


 俺は心の中で小さく謝った。ありましたよ、店長。あんたの力は本物だった。俺なんかが到底及ばない、素晴らしい奇跡だった。

 

 でも、それはこの世界には強すぎる。だから、俺が全部「嘘」にしておきました。


「……あははは!なにそれ、最悪!私、本気で悩んでたのに……っ!最低!崖からダイブなんてあんたやりすぎ、クビよ!絶対クビなんだからね!」


 彼女の泣き笑いの声が教会に響く。

 

 それは、聖女の重荷から解放された、ただの人間の声だった。

 

 同時に、世界の歪みは完全に修正された。


 俺は空を見上げた。空の色は変わらず、重力は等しく俺たちを地面に縛り付けている。老婆の気配が、不満そうに、しかしどこか感心したように風に溶けて消えていくのが分かった。


「……あーあ。マジで疲れたわ。服もドロドロだし」


 店長がため息をつき、膝の埃を払った。いつもの、気怠げで、どうしようもなく人間くさい店長だ。


「相沢くん。帰りにファミレス寄るわよ。あんたの奢りでね。……あ、でもその前に、その汚い色、なんとかしなさいよ。通報されるわよ」


「……了解です、店長。でもこれ、油性ペンキなんで落ちないんすよねぇ」


 俺たちは、代わり映えのしない、退屈で平和な日常へと歩き出した。

 

 指先に染み付いた油の臭いと、冷めた食事。

 

 俺が守りたかったのは、この「魔法のない世界」だけだ。


 俺のスマホには、もう二度と、次のニュースは届かない。

(´・ω・`)よかった

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