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7.観測者と魔女の告白

 その夜、俺はアパートには戻らなかった。


 繁華街の裏路地。血と鉄の臭いが漂う現場から逃げ出した俺のポケットの中で、スマホが短く、しかし強く震えたからだ。いつもの予言の通知音ではない。もっと緊急性を帯びた、警告音のような振動。


 俺は震える手で画面を確認した。そこには、いつものような「日時」と「場所」は表示されていなかった。


 ただ一言、黒い背景に白い文字で、こう書かれていたのだ。


 『すぐに私の店へ』


 俺は走った。


 深夜の住宅街を、息を切らして駆け抜ける。肺が焼け付くように熱く、心臓が早鐘を打っている。恐怖はあった。だが、それ以上に確かめなければならないという衝動が、俺の足を突き動かしていた。


 あのチンピラの、信じられないものを見るような死に顔。


 無機質な目でナイフを振るったサラリーマン。俺の脳裏に、どす黒い疑念が渦巻く。


 『俺が関わったから、彼らは死んだのではないか?』


 そんな馬鹿なことがあるか、と思う。だが、三度だ。


 三度とも、俺がその予言に関わった直後に、彼らは例外なく死んだ。


 モールの少女の時、俺は予言そのものを「くだらない嘘だ」と笑い飛ばし、退屈な日常が続くことを疑わなかった。その結果、彼女は重力に従って落ちた。


 交差点のストーカーと、路地裏のチンピラの時、俺は彼らの妄想を目の当たりにし、「そんな力あるわけない」と強く否定した。その直後、物理法則が牙を剥いた。


 知っていたかどうかなんて関係ないのかもしれない。


 俺が「この世界に不思議なことなど起きない」と信じていること自体が...いや、そんなことがあるはずがない。


 路地裏に着くと、あの黒いテントは闇に溶け込むように鎮座していた。周囲の空気は澱み、アスファルトの裂け目からは不快な湿気が立ち上っている。俺は荒い息を整えることもせず、乱暴に湿った布をめくった。


「……ハァ、ハァ……! おい、婆さん!」


 テントの中は、相変わらず獣臭さと線香の匂いが充満していた。蝋燭の炎が揺らめき、影が壁面で踊っている。だが、今日は何かが違った。狭い空間の隅、老婆の座る台座の脇に、見慣れない「ガラクタ」が置かれていたのだ。


 泥にまみれた、青い鳥の羽飾りのついた、携帯電話。レンズが蜘蛛の巣状に割れた、デジタルカメラ。そして、どす黒い血がこびりついた、派手なサングラス。


 俺は息を呑んだ。


 まさか、あれは死んだ彼らの――。


「……いらっしゃい。随分と早かったねぇ」


 老婆は水晶玉の奥で、ニタリと笑った。その顔は、初めて会った時よりも若返っているように見えた。いや、肌の艶が増しているような、不気味な生気に満ちていた。まるで、他人の不幸を糧にして若返る妖怪のように。



「……これは、なんだ」



 俺は震える指で、隅のガラクタを指差した。声が掠れる。


「ああ、それかい?ただの戦利品トロフィーさ。夢破れた旅人たちの、ね」


 老婆は愛おしそうに、割れたカメラのレンズを指先で撫でた。


「飛べなかった小鳥。守れなかった勇者。見抜けなかった鑑定士。……みんな、お前さんが送ってくれたプレゼントだよ」


「……ふざ、けるな」


 俺は一歩踏み出した。怒りと恐怖が混ざり合い、視界が赤く染まる。


「あんたが……殺したのか?予言なんて嘘っぱちで、あんたが裏で手を回して、事故に見せかけて殺したのか!?」




「まさか」


 老婆は肩をすくめ、心外だと言わんばかりに首を振った。


「私はただの占い師さ。予報を出しただけだよ。雨が降るよ、台風が来るよ、とね。……実際に彼らを殺したのは、現実さね。重力であり、運動エネルギーであり、鋭利な刃物」


 老婆はそこで言葉を切り、濁った瞳で俺を射抜いた。


 その瞳の奥には、底知れない闇が広がっていた。


「だが、その物理法則ルールのスイッチを押したのは誰だい?」


 心臓が、ドクリと大きく脈打った。


 スイッチ。


 その言葉の意味を理解するのを、脳が拒絶する。


「……俺だと、言いたいのか」


「...お前さんは、素晴らしい『目』を持っているねぇ」


 老婆は恍惚とした表情で、俺の顔を覗き込んだ。


「疑い深く、夢を見ず、現実しか信じない。その退屈で強固な常識こそが、この世界を守る最強の盾なんだよ」


 彼女は水晶玉を爪でカチカチと叩いた。


 その音が、俺の神経を逆撫でする。


「この世界にはね、時折、異物が紛れ込む。別のことわりを持った、厄介な連中だ。彼らは魔法を使い、空を飛び、物理法則を無視しようとする。……放っておけば、この世界は綻びだらけになってしまうだろうね」


「だから……殺すのか」


「修正さ」


 老婆は淡々と告げた。


「だが、私には力がない。私はただ、どこに世界の歪みがあるかが見えるだけ。……だから、お前さんが必要だったんだ」


「……偶然だ」


 俺は震える声で遮った。


「俺はたまたま、あの夜、通りかかっただけだ。あんたの店を見つけたのは、ただの偶然だろう!」


「偶然?」


 老婆は可笑しそうに、喉を鳴らして笑った。


「おやおや。まだそんな『おとぎ話』を信じているのかい? いいや、違うね。あれは必然だ。私が、お前さんの鼻先に店を『置いた』んだよ」


 俺は息を呑んだ。


「この街にはね、何万人もの人間がいる。だが、お前さんほど『空っぽ』な人間はいなかった。指先に染み付いた油の臭い。冷めたフライドチキン。公園のベンチで、死んだような目で空を見上げる男。お前さんの魂からは、強烈な『退屈』の腐臭が漂っていたのさ」


 老婆の顔が近づく。


 その瞳に、俺の蒼白な顔が映り込んでいる。


「お前さんは心の底で願っていただろう?『こんな世界に奇跡なんてあるわけがない』『明日もどうせ退屈な一日だ』と。その強烈な『諦め』こそが、私が探し求めていた才能だ。だから私は、お前さんの通り道に網を張った。お前さんなら、必ずあのテントに入ってくると分かっていたからね」


 背筋に、氷柱を突き刺されたような悪寒が走った。


 偶然ではなかった。俺がフライドチキンを買い、公園へ向かうあのルート。あの時間の、あの気まぐれな寄り道。そのすべてが、この老婆の手のひらの上だったというのか。



「……俺を、選んだ?って」



「選ばれたのは私の方かもしれないねぇ。……お前さんのような『強力な毒薬』がいなければ、私はとっくに異物に食い殺されていただろうから」


 老婆はニタリと笑い、俺の眼球を指し示す。


「一回目のあの子……お前さんは現場にはいなかった。だが、予言を聞いた時、どう思った?『そんな馬鹿なことあるわけない』と信じて疑わなかっただろう?その『無関心な常識』が、あの子の翼をもぎ取ったんだよ。二回目と三回目は、もっと直接的だったね。お前さんは目の前で奇跡を否定し、『物理的にありえない』と断じた。だから、彼らは物理法則に押し潰された」


 老婆の声が、鼓膜ではなく脳に直接響くような感覚。


 俺の足元が崩れていく。


「魔法も、スキルも、奇跡も。……観測者が『ない』と決めつければ、この世界の箱の中身は『死』に確定する。お前さんはね、歩く現実固定装置アンチマジックなんだよ」


 俺は後ずさりした。背中がテントの布に触れる。


 否定したかった。そんなオカルトじみた話があるわけがないと、笑い飛ばしたかった。だが、俺が今ここで「そんな非科学的なことがあるか」と否定すること自体が、彼女の理論を補強してしまうという矛盾。俺の「否定」こそが、彼女の武器なのだ。


「……俺を利用していたのか」


 絞り出すような声が出た。


「人聞きが悪いねぇ。これは『世界の掃除』さ。紛れ込んだ異物を、お前さんという拒絶反応で処理していただけのこと。……お前さんも楽しんでいただろう?退屈な日常が壊れるスリルを」


 老婆はケタケタと笑い、そして急に真顔になった。


 その表情には、初めて見る「焦り」のような色が混じっていた。


「さて、無駄話はこれまでだ。……最後の仕事ニュースが残っている」


「……最後?」


「ああ直に終わる。最後にして、最大の歪みが動き出したのさ」


 老婆は水晶玉を俺に突きつけた。


 その中で、どす黒い赤色の光が渦巻いている。これまでのどの予言よりも、禍々しく、強い光。


「日曜日の正午。場所は、街を見下ろす高台の廃教会だ」


 廃教会。数年前に不審火で焼け落ち、今は立ち入り禁止になっている場所だ。幽霊が出ると噂され、地元の人間は誰も近づかない。


「そこに『聖女』が現れる」


「……聖女?」


「死者を蘇らせようとする、狂った女さね」


 老婆の声が低く、地を這うように響く。


「彼女は、これまでに散った者たち――例えば、そう。空を飛べなかった少女、勇者気取りのストーカー、鑑定士のチンピラ。それら全員の魂を呼び戻し、この世界を『理の通じない世界』に書き換えようとしている」


 俺は絶句した。


 死者の蘇生。そんなことが、可能なのか?いや、考えてはいけない。「可能かもしれない」と思った瞬間、俺の「固定」が揺らぐ。だが、もし本当にそんなことが起きれば――。


「彼女の念は強大だ。放っておけば、彼女はここを『別の場所』に変えてしまうだろう。……実を言うとね、私の占いが通じない相手なんだよ。彼女の『奇跡』を信じる力が強すぎて、私のルールを書き換えてしまう」


 老婆は俺を指差した。


 その指先が、すがるように、そして命令するように震えている。


「だから、お前さんが必要なんだ。私の力が通じないなら、もっと根源的な『拒絶』をぶつけるしかない。行っておやり。そして、見てやるんだ。……『死人が生き返るわけがない』という、お前さんのその冷徹で、残酷な眼差しでね」


 俺は拳を握りしめた。爪が食い込み、血が滲む。


 行けば、また人が死ぬ。俺が見ることで、その「聖女」は儀式に失敗し、何らかの報いを受けて――おそらくは、無惨な最期を遂げるだろう。俺はまた、殺すことになる。


 だが、行かなければ?世界が狂う?あの惨劇の被害者たちが、腐った体を引きずって蘇り、この街を練り歩くことになるってのか?トマトのように潰れた少女が。ミンチになった男が。血まみれのチンピラが。俺の部屋のドアを叩く未来が来るのか?馬鹿な...


「……俺は」


 言葉が出なかった。どちらを選んでも、地獄だ。


「選ぶのはお前さんだ」


 老婆はフードを深く被り直した。その姿が、再び闇へと溶け込んでいく。


「夢を見るか、現実を守るか。……好きにしな」


       ◆


 俺はテントを飛び出した。


 外の空気は、今までで一番冷たく、澄んでいた。


 偶然ではなかった。俺の退屈な日常そのものが、この狂った仕組みの一部だったのだ。俺が「平和な日常」を望めば望むほど、この世界から「奇跡」は排除され、誰かが死んでいく。酷く喉が渇く。


 日曜日まで、あと一日。


 俺の手の中で、スマホはもう鳴らなかった。これ以上の通知は必要ない。俺自身が、その仕組みの本体だったのだから。


「俺は、あいつらにとっての死神だったって訳か、はは...それこそファンタジーじゃねぇか」


 足取りは重かった。


 だが、俺の足は、無意識のうちに高台の方角へと向いていた。

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