6.愚かな鑑定士
週末の繁華街は、腐った果実のような甘ったるい臭いがした。
アルコール、香水、嘔吐物、そして行き場のない欲望の臭い。ネオンサインが水たまりに反射し、毒々しい色彩をアスファルトに撒き散らしている。
俺は雑居ビルの隙間に身を潜め、通りを行き交う人々を観察していた。
老婆の予言は、今回も簡潔で、そして絶対的だった。
『土曜日の夜。繁華街の裏路地で、「鑑定士」が死ぬよ』
鑑定士。
ブランド品や宝石の目利きのことかと思ったが、老婆は「人の値踏みをする愚か者さ」とだけ言って、愉しげに笑った。その意味が分かったのは、ターゲットとなる男を見つけた時だった。
男は、派手なスカジャンを着た若いチンピラだった。
痩せぎすで、猫背。眼球が異様に動き回り、通行人の顔を舐めるように見回している。
その口元には、薄気味悪い笑みが張り付いていた。
「……ヘッ、雑魚ばっかだな」
男の独り言が、風に乗って聞こえてくる。
「レベル3……レベル5……おっ、あいつはレベル12か。ま、俺の敵じゃねえけど」
俺は溜息をついた。
またか。また「あっち側」の人間だ。彼は自分の目に、他人の強さが数値化されて見える「鑑定スキル」が宿っていると信じ込んでいるのだ。
RPGやネット小説でよくある設定だ。相手のステータスが見えれば、自分より弱い相手だけを選んで搾取できる。
彼はこの街を、自分の狩り場だと勘違いしている。
「……馬鹿な奴だ」
俺は冷ややかな目で男を見た。
レベル?ステータス?そんなもの、どこにも表示されていない。
俺の目に見えるのは、栄養不足で肌が荒れ、喧嘩慣れもしていない、ただの虚勢を張った若者の姿だけだ。腕は細く、足元はおぼつかない。もし本職の格闘家や、凶器を持った人間に襲われたら、一たまりもないだろう。
◆
時刻は深夜一時を回っていた。
男はターゲットを定めたようだった。
繁華街の裏路地。酔っ払ってふらついている、一人のサラリーマン。小柄で、猫背で、疲れ切ったような中年男性だ。
「……ビンゴ。レベル1の村人発見」
男はニヤリと笑い、サラリーマンの背後に忍び寄った。
「おい、おっさん。ちょっとジャンプしてみろよ」
古典的なカツアゲの文句。サラリーマンがビクリと肩を震わせ、振り返る。その顔は恐怖に引きつり、脂汗が滲んでいるように見えた。
「か、金なら……ありません……」
「あぁ?『鑑定』によれば、財布に五万は入ってるはずだぜ?ドロップアイテムは確実なんだよ」
男はサラリーマンの胸ぐらを掴み、路地裏の奥へと引きずり込む。
俺は息を殺して、その後を追った。止めなければ。だが、どうやって?
警察を呼ぶか?間に合わない。俺が出ていくか?いや、俺には何の力もない。
躊躇している間にも、事態は動いた。
ドンッ、とサラリーマンが壁に押し付けられる音がした。
「早く出せよ。俺はレベル50だぞ?お前みたいなレベル1の雑魚、ワンパンで沈められるんだよ」
男が拳を振り上げる。
その拳は、遅かった。素人目に見ても、隙だらけのテレフォンパンチ。男の脳内では、それは音速を超える神速の一撃だったのかもしれない。スキル補正が乗った、必殺の拳だったのかもしれない。
だが、現実は残酷だ。
物理法則は、ただの「質量の移動」として処理される。
サラリーマンの目が、すっ、と細められた。怯えの色が消えた。そこにあったのは、無機質で、冷徹な「作業」の目だった。
シュッ。
空気を裂く、鋭利な音。サラリーマンの懐から、一筋の銀閃が走った。男の拳が空を切る。それと同時に、男の脇腹に、深々と何かが突き刺さっていた。
「……あ?」
男の動きが止まる。
サラリーマンの手には、細身の果物ナイフが握られていた。コンビニでも売っているような、安っぽいナイフ。だが、人間の柔らかい腹部を切り裂き、内臓を傷つけるには十分すぎる「攻撃力」を持っていた。
「が、ぁ……?」
男は目を見開いた。
理解できない、という顔だった。
なぜだ。相手はレベル1のはずだ。村人のはずだ。攻撃力など皆無で、俺の防御力を抜けるはずがない。ステータス画面には、そう表示されていたはずなのに。
「……うるさいんだよ、ガキ」
サラリーマンが、低い声で呟いた。その手際には迷いがなかった。ナイフを引き抜き、今度は躊躇なく男の太腿を刺した。ドスッ、という嫌な音が響く。大動脈を狙った、プロの手口に見えた。あるいは、ただキレた一般人の暴走か。どちらにせよ、結果は同じだ。
男は崩れ落ちた。
大量の血が、アスファルトの窪みに溜まっていく。HPバーが減るのではない。ただ、血液という生命維持に必要な流体が、物理的に体外へ流出していくだけだ。
「レ、ベル……なんで……ひょ、表示が……エラー……」
男は痙攣しながら、虚空に手を伸ばした。
そこには何もない。
ウィンドウも、ログも、蘇生魔法もない。
サラリーマンは血のついたナイフをハンカチで拭うと、足早に路地裏の闇へと消えていった。残されたのは、血溜まりと、ピクリとも動かなくなった「自称レベル50の鑑定士」だけ。
◆
俺はゆっくりと、死体に近づいた。鉄の臭いが鼻をつく。
男の目は見開かれたまま、虚空を凝視していた。最期の瞬間まで、彼は見えないステータス画面を見ていたのだろうか。
「……レベルなんて、ないんだよ」
俺は誰に言うでもなく呟いた。
人間は、ナイフが刺されば死ぬ。どれだけ自分が強いと思い込んでいても、どれだけ相手を見下していても。皮膚の厚さは数ミリだ。筋肉も脂肪も、鋭利な刃物の前ではバターと変わらない。それが現実だ。
でも。
ふと、奇妙な感覚が俺を襲った。
もし俺が、彼を「弱そうだ」と思わなかったら?もし俺が、「この男は本当に何か特殊な力を持っているのかもしれない」と、少しでも疑っていたら?
あのナイフは、男の皮膚で止まっていたのだろうか。サラリーマンの攻撃は、見えないバリアに弾かれていたのだろうか。
馬鹿な。そんなわけがない。俺は頭を振った。これはただの、チンピラが返り討ちに遭っただけの事件だ。よくある話だ。
「この状況で俺もおかしくなっちまったのかな...くそっ」
だが、俺の意識の底で、何かが冷たく囁いていた。
『お前が見た通りになったねぇ』と。
俺のポケットの中で、スマホが震えた。いつもの通知音。画面を見る前から、俺には分かっていた。次の予言が来ている。
そして俺は、またそれを「確認」しに行くのだ。
俺は路地裏の闇に向かって、小さく問いかけた。
「……俺は一体どこに向かっているんだ?」
返事はなく、ただ遠くでパトカーのサイレンが鳴り響くだけだった。




