5.勇者の最期
火曜日。予言の日がやってきた。
朝から、不快な湿気が街全体を包み込んでいた。空は低い雲に覆われ、今にも泣き出しそうな鈍色をしている。俺は重たい体を引きずるようにして、バイト先のコンビニへと向かった。心臓の鼓動が、嫌なリズムを刻んでいる。
『駅前の交差点で、男が一人死ぬ』あの老婆の言葉が、呪いのように脳裏にこびりついて離れない。
自動ドアをくぐると、冷房の効いた空気が肌を刺した。
レジカウンターには、いつものように気怠げな姿勢で頬杖をつく店長の姿があった。
「……あ、相沢くん。おはよぉ……」
その声には、生気というものが欠片も感じられない。目の下のクマは昨日よりも濃くなっているように見えるし、制服の襟元もだらしなく崩れている。だが、俺が何よりも戦慄したのは、彼女の背後だった。
揺らめいている。
彼女の背中から天井に向かって、陽炎のような「何か」が立ち昇っている。それは見る角度によって形を変えるが、俺の目にはやはり、錆びついた巨大な鉄塊――『大剣』のシルエットに見えた。禍々しい、死の予兆。それが昨日よりも明確な輪郭を持って、彼女に覆いかぶさっていた。
「……店長」
「んー? なに、顔色悪いよ」
「あの、今日……やっぱり早退しませんか?その、体調悪そうですし」
俺は精一杯の演技で提案した。
喉が渇いて、声が擦れる。だが、店長は大きなあくびを噛み殺しながら、面倒くさそうに首を横に振った。
「無理。シフト埋まってないし。オーナーうるさいし」
「で、でも! なんか嫌な予感がするというか……」
「大丈夫よぉ。……あー、肩重っ。なにこれ、岩でも乗っけてんのかな」
彼女はボキボキと首を鳴らし、自分の肩を乱暴に叩いた。その手が、背後の「大剣の影」をすり抜ける。
あなたは知らないだけだ。その重みが、ただの肩こりではないことを。
そして今日、自分が「質量と速度の積」によって、アスファルトの上の染みになることを。
俺は唇を噛み締めた。逃げられない。俺がここで何を言っても、彼女は本気にしないだろう。「中二病?」と鼻で笑われて終わりだ。なら、俺が物理的に止めるしかない。
◆
午後五時。
店長がシフトを上がり、店を出る時間が迫っていた。俺はバックヤードで制服を着替えながら、冷や汗を拭った。手足の震えが止まらない。まるで、これから戦場にでも向かうような気分だ。
「店長、俺、ちょっと銀行寄ってから帰りますんで」
「ん……おつかれぇ」
気のない返事を聞きながら、俺は逃げるように裏口から飛び出した。
嘘だ。銀行なんて行かない。店長が帰宅するルートは分かっている。駅前の大通りにある、あの大きな交差点だ。俺は全速力で路地裏を駆け抜けた。湿った風が頬を打ち、肺が焼け付くように熱い。間に合え。間に合ってくれ。
夕方の交差点は、帰宅ラッシュのサラリーマンや学生たちで溢れかえっていた。
信号待ちの人だかり。赤と青のライト。排気ガスのむせ返るような臭い。都市の喧騒が、今の俺には耳鳴りのように不快に響く。俺はガードレールの陰、電柱の裏に身を潜め、じっとその時を待った。
老婆の予言は絶対だ。今はそう信じるしかない。あとで後悔するよりは何百倍もマシだ。
なら、天気予報が雨を告げれば傘が必要なように、死の予言には「回避行動」が必要だ。トラックが来るなら、突き飛ばしてでも助ける。たとえ頭がおかしいと思われても、目の前で知人が肉塊になるよりはマシだ。
五分が経過した。
永遠にも感じる時間の長さ。そして、その姿は見えた。
人波の向こうから、気怠げにショルダーバッグを引きずるようにして、店長が歩いてくる。スマホを見ながら、うつむき加減で。
その背後には――やはり、ある。黒く、重く、澱んだ「影」。
それは周囲の通行人が避けて通るほどに、異様な圧迫感を放っていた。まるで、彼女を守護しているつもりで、その実、彼女を押し潰そうとしている悪霊のように。
(……来る)
直感が警鐘を鳴らす。
歩行者用信号が青に変わる。ピヨ、ピヨ、という電子音が鳴り響く中、店長がゆっくりと横断歩道へ足を踏み出す。
その時だった。
ブォオオオオン!
空気を震わせる、暴力的で低い唸り声。交差点の右折レーンから、一台の大型トラックが突っ込んできた。信号は?赤だ。歩行者が優先のはずだ。
だが、トラックは減速するどころか、アクセルを踏み込んだかのように加速している。ドライバーの居眠りか、あるいはブレーキの故障か。そんな理由は重要ではない。重要なのは、数十トンの鉄塊が、物理法則に従って店長の細い体を粉砕しようとしているという事実だけだ。
「店長ッ!!」
俺は叫んだ。
喉が裂けんばかりの絶叫と共に、ガードレールを飛び越える。アスファルトを蹴り、彼女のもとへ走る。周りの人々が悲鳴を上げ、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う中、店長だけが反応が遅れた。スマホから顔を上げ、きょとんとした顔でこちらを見る。
「……え、相沢く――」
間に合うか。俺の手が伸びる。
彼女の肩を掴み、突き飛ばそうとした、その瞬間。
世界が、スローモーションになった。
俺の視界の端。店長のすぐ真後ろ。誰もいなかったはずの空間から、「誰か」が弾かれたように飛び出してきた。
「――姫ェッ!!」
野太く、耳障りな絶叫。それは、店長に向けられたものでありながら、この世界の誰に向けたものでもない、狂人の言語だった。
ボサボサの長髪。薄汚れたチェックのシャツ。焦点の合わない、血走った眼球。見覚えがある。毎日のようにコンビニに来て、何も買わずに雑誌コーナーで立ち読みをしていた、あの薄気味悪い男だ。常にブツブツと独り言を呟き、店長を目で追っていた、あの「常連客」。
男は店長を乱暴に突き飛ばすと、まるで自らが盾となるように、迫りくるトラックの真正面に立ちはだかった。その顔は、恐怖に歪んでなどいなかった。むしろ、恍惚としていた。口の端から涎を垂らし、歪んだ笑みを浮かべていた。
彼は信じていたのだ。自分には、この鋼鉄の塊を止められる力が宿っていると。
ここが「剣と魔法の世界」であり、自分が愛する姫を守る「無敵の勇者」であると。
「我が身は城壁!絶対防御ゥオオオオッ!!」
男が両手を広げ、見えない障壁を展開するポーズを取る。その背中に、俺はずっと店長の後ろに見えていた「大剣の影」が重なるのを見た。
ドンッ。
鈍く、湿った音がした。トラックのバンパーと人間の肉体が衝突する音としては、あまりにも呆気ない音だった。
奇跡は起きなかった。
スキルも、魔法も、加護も、発動しなかった。現実は冷徹だ。運動エネルギーの塊となったトラックは、男の「絶対防御」ごと彼を弾き飛ばし、巨大なタイヤの下へと巻き込んだ。
グシャリ、バキボキッ。
生々しい破壊音が、アスファルトに響く。男は悲鳴すら上げる暇もなかった。ただの一瞬で、人間としての形を失い、赤黒い有機物の染みへと変わった。
キキィイイイイッ!
トラックが急ブレーキをかけ、嫌な音を立てて停止する。
静寂。
そして数秒後、交差点は割れんばかりの悲鳴とパニックに包まれた。
◆
一時間後。
現場は赤色灯の明滅に染まっていた。規制線が張られ、ブルーシートが敷かれる。野次馬たちがスマホを向け、その惨劇を拡散しようと群がっている。
俺と店長は、歩道のガードレールに座り込んでいた。店長は突き飛ばされた時に擦りむいた膝の手当てを受けながら、彼女は震える手でタバコを吸っていた。
「……なんなの、あれ。マジで」
彼女の声は乾いていた。
「あの人、うちの店によく来てたよね?なんで……急に飛び出して……」
「……分かりません」
俺は嘘をついた。
分かっていた。分かりすぎて、吐き気がした。
そこへ、事情聴取を終えた初老の警察官がやってきた。彼は気まずそうな顔で、証拠品袋に入った「デジタルカメラ」を店長に見せた。
「あの、少しよろしいですか。……実はお亡くなりになった男性の所持品から、これが」
警察官が操作すると、カメラの小さな液晶画面に画像が映し出された。
店長だった。コンビニのレジ打ちをしている姿。ゴミ出しをしている姿。帰り道を歩く後ろ姿。そして、アパートのベランダに干された洗濯物のアップ。
数え切れないほどの、隠し撮り画像。そのすべてに、日付と時刻、そして異常なほど細かいポエムのようなコメントが書き込まれていた。
『今日も姫は美しい』『魔物が近づかないよう監視中』『僕が守る』
「……ストーカー、だったみたいですね。住所不定の無職で、近隣でも不審者として通報歴があったようです」
警察官の言葉に、店長は「ひっ」と息を呑み、口元を押さえた。
「うわ……気持ち悪っ……。なにこれ、ずっとつけられてたってこと?」
俺は、寒気がした。背筋を虫が這い上がるような、生理的な嫌悪感。
そういうことか。すべてが繋がった。老婆が言っていた予言。『男が一人、死ぬ』。
俺はずっと、それを「店長の前世が男(勇者)」という意味だと思っていた。だが、違った。老婆は文字通りのことを言っていたのだ。
俺に見えていたあの禍々しい「大剣の影」は、店長自身の魂ではなかった。店長の背後に、文字通り常に張り付いていた、この男の影だったのだ。
男は狂っていた。
自分を異世界の騎士か何かだと思い込み、店長を「守るべき姫」だと信じて疑わなかった。俺に見えていた影は、彼の一方的で、歪みきった「守護の意志(ストーカー行為)」そのものだったのだ。
『自分は無敵だと思っている』『トラック程度は小石だと思っている』
その妄想の代償として、彼は予言通り、ミンチになった。
彼は最期の瞬間まで、自分が英雄的な死を遂げたと信じていたかもしれない。だが、現実は違う。
これは「愛する人を守った英雄譚」ではない。ただの「精神異常のストーカーが、信号無視のトラックに勝手に突っ込んで自爆した事故」だ。それ以上でも、それ以下でもない。
「……はは」
乾いた笑いが、喉の奥から漏れた。
なんて救いがないんだ。物理法則は、あまりにも残酷で、そして正しい。
「……ねえ、相沢くん」
ふと、店長が呟いた。彼女は規制線の向こう、高圧洗浄機で道路の染みを洗い流す作業員たちをぼんやりと眺めていた。
そして、自分の肩をトントンと叩いた。
「なんか……すっごい不謹慎だし、変な話なんだけどさ」
「……はい」
「肩、軽くなったわ」
彼女は少しだけ首を傾げ、本当に不思議そうに言った。
「ここ数ヶ月、ずっと誰かにおんぶされてるみたいに重かったんだけど……すっきりした。……憑き物でも落ちたみたい」
俺は何も言えなかった。
彼女の背中を見る。
そこにはもう、あの不気味な「大剣の影」は、欠片も残っていなかった。綺麗さっぱり、消え失せていた。
物理法則という名のデバッグ機能は、正しく作動したのだ。この世界にとっての「バグ(勇者気取りのストーカー)」を物理的に粉砕し、排除したことで、店長の体は正常に戻った。
世界は、こうして修正されていくのだろうか。血と肉の匂いを漂わせながら、冷徹に。
俺のポケットの中で、再びスマホが震えた。
ブブッ、ブブッ。無機質な振動。カレンダーの通知だ。
通知を見るのが怖かった。
だが、俺は震える手でスマホを取り出した。
この街にはまだ、「駆除」されるべきバグが潜んでいるのかもしれない。
そして俺は、その断末魔を特等席で見届ける「観測者」に選ばれてしまった。そんな気がした。




