4.勇者の交通事故
金曜日の深夜二時。
俺はまた、あの路地裏に立っていた。
蒸し暑い夜だった。雨上がり特有の、泥とカビが混ざったような湿気が、肌にまとわりつく。目の前には、あの日と同じように、アスファルトの裂け目から生えたような黒いテントが鎮座している。
逃げ出したい。踵を返して、明るいコンビニへ駆け込みたい。
だが、俺の足は泥沼に嵌ったように動かなかった。
「……確かめるんだ」
自分に言い聞かせるように呟く。
俺は狂っていない。あの日見た予言も、モールの転落事故も、すべては不幸な偶然だ。テントの中には、ただのボケた老婆がいるだけ。そう確認すれば、この薄気味悪い妄想は終わる。
俺は震える手で、湿った重たい布をめくった。
むっ、と鼻をつく獣臭さ。そして、古い線香の匂い。狭い空間の奥、揺らめく蝋燭の灯りの中に、あの影は座っていた。
「……いらっしゃい。また来たねぇ」
しわがれた声。フードの奥から覗く口元が、三日月のように歪んでいるのが分かった。
「……インチキだ」
俺は開口一番、そう吐き捨てた。声が裏返る。
「あの事故は偶然だ。あんたは、適当なことを言って……たまたま当たっただけだ」
「偶然?」
老婆はケタケタと笑った。まるで、積み木遊びをする子供を見るような、無邪気で残酷な響き。
「あの子は飛ぼうとしたんだろう?三階から、笑顔で。……重力なんていう、この世界の絶対的なルールを忘れて」
「ッ……!」
「トマトみたいに潰れたねぇ。可哀想に。ここは『魔法』なんて便利なものが使える場所じゃないのに」
俺は言葉を失った。
なぜ、知っている?ネットの書き込みを見たのか?いや、あんな詳細な描写はどこにも――。
「さて、次の占い(ニュース)といこうか」
俺の動揺など意に介さず、老婆は水晶玉のようなものを指先で撫でた。
その指は枯れ木のように干からびていて、関節が一つ多いようにすら見えた。
「次は火曜日。場所は、駅前の大通りにある交差点だ」
駅前の交差点。俺がバイトへ行く時に必ず通る場所だ。
「男が一人、死ぬよ」
「……男?」
「ああ。トラックに轢かれてね。……ミンチだ」
老婆は淡々と告げる。まただ。また、天気予報のように。
「その男はね、自分が『無敵』だと思っているんだよ。どんな刃物も通さない、鋼の肉体を持っていると信じ込んでいる」
「……なんだそれ。また薬物中毒者か?」
「いいや。……かつて別の世界で、魔王軍とやらを相手に無双した『勇者』のつもりなのさ」
心臓が、早鐘を打った。
別の世界。勇者。
その単語が、昨日の店長との会話とリンクする。
『最近ずーっと重いのよね、肩。……まるで、見えない鎧でも着せられてるみたい』
嫌な汗が背中を伝う。
「その男は、信号無視のトラックが突っ込んできても、逃げない。……逃げる必要がないと思っているからね。『防御スキル』があれば、トラック程度は小石と同じだと思っている」
老婆の声が、低く、重く響く。
「だが、ここは現実だ。スキルなんてものは、うんともすんとも言わない。鉄の塊が全速力で突っ込めば、人間なんて紙屑さ」
俺の脳裏に、店長の気怠げな顔が浮かんだ。
まさか。
違う。あの人は、ただのやる気のない独身女性だ。勇者なんて、そんな馬鹿げた――。
「……その男の特徴は?」
俺は震える声で尋ねた。聞きたくない。でも、聞かなければならない。
「特徴かねぇ……」
老婆はフードの奥で、ニタリと笑った。
「他人には見えないようだが……背中に随分と大きな『大剣』を背負っているねぇ。錆びついた、呪いのような剣を」
――ヒュッ、と喉が鳴った。
見えた。
昨日、雨のコンビニで、店長の背後に揺らめいていた、あの陽炎のような影。
俺はそれを「大剣のようだ」と思った。それが、一致した。
「嘘だ……」
俺は後ずさりした。テントの布に背中が当たる。
「嘘だ、嘘だ嘘だ!店長が……そんな……!」
「おやおや、知り合いだったかね」
老婆は楽しげに、水晶玉を爪でカチカチと叩いた。
「なら、特等席で見られるねぇ。……勇者が、ただの肉塊に変わる瞬間を」
俺は叫び声を上げそうになるのを堪え、テントを飛び出した。外の湿った空気を吸い込み、ぜいぜいと荒い息を吐く。
逃げなければ。この場所から。この予言から。
だが、走り出そうとした俺の視界が、ぐにゃりと歪んだ。
「……え?」
路地裏の風景が、ノイズの走ったテレビ画面のように明滅する。
ブロック塀の影から、無数の「目」がこちらを覗いているような感覚。そして、自分の両手が、黒く変色しているように見えた。
一瞬の幻覚。
瞬きをすると、手は元の肌色に戻っていた。だが、強烈な違和感が残る。まるで、俺自身がこの世界から浮いてしまったような。
『火曜日。駅前の交差点』
老婆の言葉が呪いのように頭にこびりついて離れない。火曜日まで、あと四日。俺は知ってしまった。あの気怠げで、でも面倒見の良い店長が、トラックに挽き潰される未来を。
助けなければ。
いや、でも、どうやって?「トラックに轢かれるから気をつけて」なんて言えば、それこそ頭がおかしいと思われる。
それに、もし老婆の言う通り、店長自身が「逃げない」のだとしたら?
俺はよろめく足取りで、闇に沈む街を歩き出した。その背中には、自分では気づかないほどの小さな「黒い染み」が、じわりと広がっていた。




