3.飛べない鳥のSNS
翌日、空は泣き出したかのような土砂降りだった。
アスファルトを叩く激しい雨音が、店内のBGMを掻き消している。昨日の転落事故の影響か、それともこの悪天候のせいか、客足はまばらだった。
俺は品出しの手を止め、自動ドアの向こうの灰色の景色をぼんやりと眺めていた。昨夜の吐き気は治まったが、胃の奥には重たい鉛が居座っているような不快感が残っている。
「……ねえ、相沢くん」
レジカウンターの奥から、店長の声がした。
振り返ると、彼女は頬杖をつきながら、気怠げにスマホの画面を指先で弾いていた。
「暇すぎて苔が生えそう……。ちょっとこれ、見てよ」
「なんですか?」
「昨日の、モールの件。……ネットで特定班が仕事早すぎて引くんだけど」
店長がスマホを俺の方に向ける。液晶画面のブルーライトが、彼女の隈のある目元を青白く照らしていた。表示されていたのは、ゴシップ系のまとめサイトだ。
『【悲報】駅前モールの飛び降り女子、直前のツイートがヤバすぎると話題に』そんな悪趣味なタイトルが躍っている。
「……これ、本物ですか?」
「さあね。でも、時間の辻褄は合ってるみたいよ。……読んでみて」
俺は生唾を飲み込み、画面を覗き込んだ。
亡くなった女性のものとされるSNSのアカウント。アイコンは、真っ青な空の写真だった。最新の投稿から、時系列を遡るようにスクロールしていく。
『3時間前:モールの新作コスメ見に来た。三階まで上がるのエスカレーターだるい』
『3時間前:ここからなら、《風纏》でショートカットいけるかなー』
『3時間前:日本の重力ってバグってない?体が鉛みたいに重いんですけどー笑』
『4時間前:背中が痒い。羽の手入れサボってるからかな。換毛期?』
『5時間前:マナが薄いから肌荒れすごい。ポーション飲みたい、そういえば売ってるの見たことないなぁ』
指が止まる。
背筋を、冷たい雨水が伝うような悪寒が走った。
「……なんですか、これ」
「中二病、ってやつ?それともお薬キメてたのかな」
店長は欠伸を噛み殺しながら、他人事のように言う。
「目撃者の書き込みもあるよ。『落ちる瞬間を見たけど、悲鳴も上げてなかった』『笑顔で両手を広げて、まるでダイビングでもするように柵を越えていった』だってさ」
俺は言葉を失った。
自殺では、なかった。彼女は、死ぬつもりなんて微塵もなかったのだ。ただ、自分は飛べると思い込んでいた。三階から一階へ、階段を降りるような気軽さで、空を歩こうとした。その結果が、あの「トマトのような」肉塊だ。
――そこで人が死ぬよ。
老婆の言葉がリフレインする。
彼女は、ただ「死」を予言したのではない。あの子が「飛べる」と信じ込み、その妄想のまま空へ踏み出し――そして、現実という無慈悲な壁に激突して肉塊に変わる瞬間まで、すべて見透かしていたのではないか?
画面の中の彼女の言葉は、あまりにも日常的で、楽しげだった。風纏。マナ。羽。
まるで、ファンタジー小説の中の住人が、間違ってこの現実に迷い込んでしまったかのような。
「……可哀想にねぇ」
店長がスマホを引っ込め、ポツリと呟いた。
「飛べるつもりで飛んで、地面にキスして終わり。……現実は厳しいね。夢見てる奴には、特に」
その言葉には、どこか冷ややかな響きがあった。嘲笑とも、諦観とも取れるような、温度のない声。
「……店長は、こういうの信じないんですか?生まれ変わりとか、能力とか」
俺が恐る恐る尋ねると、彼女は虚ろな目を少しだけ見開いて、それからフッと鼻で笑った。
「まさか。……そんな疲れること、二度と御免だわ」
二度と?
俺がその言葉に引っかかりを覚えた瞬間、店長は「あー、肩凝った」と大袈裟に首を回した。
「なんかさぁ、最近ずーっと重いのよね、肩。……まるで、見えない鎧でも着せられてるみたい」
ボキボキ、と首の骨が鳴る音が、雨音に混じって店内に響いた。俺は息を呑んだ。
店長の背後に、一瞬だけ、歪んだ陽炎のような揺らぎが見えた気がしたからだ。それは、巨大な何か――例えば、大剣のようなものを背負っている影に見えた。
「……相沢くん? また顔色悪いよ」
「い、いえ……なんでもないです」
俺は慌てて視線を逸らし、逃げるように品出しのワゴンへと戻った。
心臓が早鐘を打っている。
……落ち着け。何を考えているんだ。
あの子は、ただの精神的な病気だったのかもしれない。あるいは、薬物の影響で幻覚を見ていただけかもしれない。
老婆の予言だってそうだ。たまたま、不幸な偶然が重なっただけだ。人が死ぬなんて、毎日どこかで起きていることだ。
それに、店長の背中に見えた影だってそうだ。
疲れているんだ。昨日のショックで、俺の脳が勝手に不気味な連想ゲームをしているに過ぎない。
そうでなければ――頭がおかしいのは、俺の方だ。
いい年して、占いだの異能力だの、中二病みたいな妄想に取り憑かれているのは俺の方じゃないか。
俺のポケットの中で、スマホが短く振動した。
カレンダーの通知だ。
『金曜日・深夜二時 公園』
……確かめなければ。あのテントへ行って、老婆の顔を見て、こう言ってやればいい。「あんたの予言なんてインチキだ」と。そうすれば、この馬鹿げた妄想は終わる。俺はまた、退屈で平和な日常に戻れるはずだ。
生存本能が、俺に告げていた。
「行け」と。
行かなければ、俺は一生、この薄気味悪い妄想に殺され続けることになるのだと。




