2.天気予報と肉塊
翌朝、目が覚めると、ひどい頭痛がした。
安アパートの薄いカーテン越しに、白々とした陽光が差し込んでいる。俺は重たい体を起こし、枕元に置いてあったペットボトルの水を煽った。生ぬるい水が食道を落ちていく感覚に、昨夜の嫌な記憶がフラッシュバックする。
アスファルトの腫瘍のようなテント。老婆のしわがれた声。そして、鉄の味がしたフライドチキン。
「……夢、だよな」
口に出して言ってみる。自分の声は、情けないほど震えていなかった。そうだ。あんなものは深夜のテンションが見せた幻覚か、あるいはタチの悪い新手の宗教勧誘に違いない。『明日、ショッピングモールで人が死ぬ』そんな馬鹿げた予言が当たるはずがない。今日という日は、昨日と変わらない退屈な一日として始まり、何事もなく終わる。そうでなくては困るのだ。
俺は頭を振り、着替えてバイト先へと向かった。
◆
午後一時。
俺が働いている駅前のコンビニは、昼のピークを過ぎて緩やかな空気に包まれていた。レジ打ち、品出し、揚げ物の補充。単調な作業の繰り返しが、逆に俺の心を落ち着かせた。この無機質で代わり映えのしない時間こそが、俺の求めていた「日常」だ。
「……あー、相沢くん。レジ、代わってぇ……」
バックヤードから、間延びした低い声がかかる。のっそりと顔を出したのは、ボサボサの髪を適当にまとめた、やる気のなさそうな女性だった。目の下にはいつもの濃いクマがあり、制服を着崩している。この店の店長だ。年齢不詳だが、俺よりは年上の「お姉さん」。常に気怠げで、世界のすべてに興味がなさそうにしているが、フリーターの俺をなぜか雇い続けてくれている。
「……私、もう無理。糖分切れた……死ぬ……」
「はいはい、了解です。休憩どうぞ」
俺は苦笑しながらレジに入り、彼女と交代する。店長は「ん……あとよろ……」と手をひらひらさせ、ふらつく足取りで事務所へと消えていった。この脱力感。いつも通りの平和な光景だ。昨夜の老婆の言葉が、急速にリアリティを失っていくのを感じた。やっぱり、気にしすぎていたんだ。
その時だった。
ウィーン、と自動ドアが開く音と共に、数人の高校生が駆け込んできた。彼らの顔色は悪く、興奮と恐怖が入り混じったような高い声で騒ぎ立てている。
「マジだって!俺、音聞いちゃったよ!」「やばいよ、あんなの初めて見た……」「写真撮った?ツブヤイターに上げる?」「無理無理!あんなグロいのバンされるって!」
不穏な単語の羅列に、俺の手が止まる。レジの前の客も、何事かと彼らを振り返った。高校生の一人が、震える手でスマホの画面を友人に見せている。
「ほら見ろよこれ……。モールの吹き抜けんとこ。ブルーシートかけられてるけど、血がはみ出してるじゃん」
ドクン、と心臓が跳ねた。
モール。吹き抜け。血。
「……おい、君たち」
俺は気づけば、レジカウンターから身を乗り出していた。客のことなど頭から消し飛んでいた。
「何があったんだ?」
高校生たちは、青白い顔をした店員の剣幕に少し引いたようだったが、すぐに興奮気味にまくし立てた。
「え、あ、駅前のショッピングモールっすよ!さっき、人が落ちて!」
「飛び降りかな?分かんないけど、三階からドーンって!」
「下にあったワゴン直撃して、もう……トマトみたいに……」
視界が、ぐらりと揺れた。店内の明るい照明が、急に彩度を失って灰色にくすんで見える。高校生たちの声が、水中にいるように遠く、こもって聞こえる。
――そこで人が死ぬよ。
老婆の声が、脳内で再生された。一言一句違わず。抑揚のない、あの天気予報のような口調で。
「……嘘だ」
俺は呻いた。
偶然だ。人が死ぬなんて、毎日どこかで起きていることだ。それがたまたま、近所のモールだっただけだ。確率論だ。そうに決まっている。
だが、俺の脳裏には、昨夜のテントの中の光景が焼き付いて離れなかった。あの湿った空気。線香の匂い。老婆は言った。『ニュースのようなものを占う』と。彼女は知っていたのだ。今日、この時間に、誰かが死ぬことを。雨が降るのを知っているかのように。明日が来るのを知っているかのように、当然の事実として。
「……相沢くん?何ボサッとしてんの……?」
事務所から戻ってきた店長が、不思議そうに俺の顔を覗き込んだ。その手には開封されたチョコレートの袋。気怠げな瞳が、わずかに細められる。
「うわ……顔色、最悪……。なに、ゾンビ?」
「て、店長……」
「……大丈夫?なんか変なもんでも食った?」
彼女の冷んやりとした指先が、俺の額に触れる。その感触に、俺は弾かれたようにビクリと体を震わせた。
「……死んだんですか?」
俺は乾いた唇で、質問になっていない質問を吐き出した。
「は?」
「モールで、人が……」
店長はきょとんとした後、気のない様子で「ああ」と頷いた。
「……さっき配送の人が騒いでたね。警察と救急車、すごいらしいよ……。若い女の子だって」
店長はチョコレートを口に放り込み、他人事のように呟く。
「……あーあ。嫌だねぇ……痛いのとか、グロいのとか……」
確定した。事実だった。
俺の足元から、床が抜け落ちていくような感覚。
吐き気がした。胃の奥から、昨夜食べたあの「鉄の味」がするチキンの感触がせり上がってくる。俺は口元を押さえ、店長の「ちょっと、相沢くん?」という声を振り切って、バックヤードのトイレへと駆け込んだ。
「う、おぇっ……!」
便器に顔を突っ込み、胃の中身をぶちまける。酸っぱい臭いと共に吐き出された汚物の中に、俺は幻覚を見た。黒ずんだテントの布。蝋燭の揺らめき。そして、便器の水面に映る自分の顔が、一瞬だけ、あの老婆のようにしわがれて、ニタリと笑ったように見えた。
「はぁ、はぁ、はぁ……ッ!」
水を流し、震える手で顔を洗う。鏡の中の俺は、死人のように青白く、目だけが異様にぎらついていた。
偶然じゃない。
あれは、本物だ。あの老婆は、本物の「死」を見ている。
恐怖で震える膝を抱えながら、俺の心の中に、あるどす黒い感情が広がっていくのを自覚した。
それは、人が死んだことへの哀悼でも、恐怖でもない。
『次は、どうなる?』
そんな、冒涜的で、抗いがたい好奇心だった。人が死ぬと分かっていたなら、俺はそれを見に行くことができたのだ。安全な場所から、惨劇の瞬間を、特等席で見ることができたのだ。
まるで、神様のように。
「……いけない」
俺は頭を振った。何を考えているんだ。俺は頭がおかしくなったのか。
震える手でスマホを握る。
二度とあそこへ行ってはいけない。関わってはいけない。そう強く念じたはずなのに、スマホのカレンダーアプリには、無意識のうちに「来週の金曜日・深夜二時」という予定が入力されていた。
トイレの換気扇が、ゴーゴーと低い音を立てて回っている。
その音が、俺には老婆の低い笑い声のように聞こえてならなかった。




