1.アスファルトの腫瘍
指先の指紋という指紋に染み付いた、酸化した揚げ油の匂い。それは何度ハンドソープで擦ろうとも、決して落ちることはない。まるで、相沢透という人間の、社会におけるランクそのものが皮膚に焼き付いてしまったかのように、その安っぽい脂臭さは俺の一部となっていた。
深夜二時。
地方都市の、開発から取り残されたこの町は、夜になると死んだように静まり返る。コンビニエンスストアの自動ドアが開く。無機質なチャイム音を背に、俺は湿り気を帯びた夜気の中へと身を投じた。右手には、廃棄寸前で半額シールが貼られたフライドチキンと、ツナマヨのおにぎりが入ったビニール袋。レジ袋のガサガサという音が、静寂な通りに不釣り合いなほど大きく響く。
これから向かうのは、アパートではない。近所にある古びた公園のベンチだ。街灯の薄明かりの下、誰に気兼ねすることなく、冷めかけたカロリーの塊を胃に流し込む。それがフリーターである俺の、一日で唯一の、そしてささやかな幸福の儀式だった。
「……ぬるいな」
季節外れの生暖かい風が、頬を撫でる。
まるで誰かの吐息のような湿気を含んだ風だった。不快な汗がシャツの裏地に滲む。点滅を繰り返す街灯の下、アスファルトに伸びた俺の影が、生き物のように伸び縮みしていた。その不規則なリズムに合わせるように、俺はいつもの公園への近道を選んだ。
そこは、昼間でも薄暗い路地裏だ。建物の裏側同士が密接し、室外機の熱気と排水の臭いが滞留する場所。野良猫の通り道か、不法投棄の隠し場所くらいにしか使われない、ジメジメとした脇道。普段なら、ただ通り過ぎるだけの、都市の隙間。
だが、今夜は違った。
「……なんだ、あれ」
足が止まる。
ビニール袋を持つ手に、無意識に力が入った。視線の先、苔むしたブロック塀と古びた電柱の狭間に、異質な「黒い塊」がうずくまっていた。
最初は、誰かが不法投棄した粗大ゴミか、あるいは酔っ払いが捨てたブルーシートかと思った。だが、近づくにつれて、それが布で覆われた小さなテントのようなものであることが分かった。
キャンプ用の華やかなものではない。黒ずんだ布は古びていて、所々が雨風に晒されて変色している。それはまるで、アスファルトの裂け目から生えてきた、悪性の腫瘍のように見えた。
こんな時間に、こんな場所で?
不審、という言葉では足りない。本能的な嫌悪感に近い何かが、俺の警戒心を逆撫でする。見てはいけないものを見たような、背筋を虫が這い上がる感覚。
引き返すべきだ。そう思った。関わってはいけない。俺はただ、公園で飯を食いたいだけだ。平穏で、何事もない、底辺なりの安息が欲しいだけなんだ。けれど、足元の小さな行灯に書かれた、震えるような文字が目に入った瞬間、俺の足は吸い寄せられるように動いていた。
『占い』
墨汁が垂れたような、禍々しい筆致。
行灯の中の蝋燭が揺れ、文字が歪んで見える。その非日常感が、退屈な日常に飽き飽きしていた俺の好奇心を、毒のように刺激したのだ。どうせ暇つぶしだ。人生で一度くらい、こういう怪しいものに触れてみるのも悪くない。そんな魔が差した。本当に、ただの魔が差しただけだったのだ。
「……すみません」
声をかけ、重たい布をめくる。布地は湿気を吸ってずっしりと重く、触れた指先にぬめりを感じた。中に入った瞬間、むっとするような獣臭さと、古い線香が焦げたような匂いが鼻腔を突き刺した。コンビニの清潔な空気に慣れた肺が、拒絶反応を示すように収縮する。思わず顔をしかめる。
狭い空間の奥、蝋燭の心もとない灯りの中に、影が座っていた。フードを目深にかぶり、顔は見えない。性別も年齢も不詳。ただ、布の隙間から水晶玉の上に置かれた手首が見えた。その皮膚は枯れ木のようにひび割れ、どす黒い染みが浮いている。圧倒的な「老い」の気配。
「……いらっしゃい。何を占おうかね」
声は、老婆のものだった。喉に痰が絡んだような、ザラついた不快な響き。まるで、墓石の下から響いてくるような、重苦しい声。俺はビニール袋を提げたまま、少し後悔し始めていた。やっぱり帰るべきだったか。この空間の居心地の悪さは異常だ。適当に理由をつけて立ち去ろうと、俺は乾いた唇を開いた。
「いや、ちょっと通りがかっただけで……金運とか、適当に」
「……というんだが、この占いは、そういうんじゃないんだ」
老婆が俺の言葉を遮った。
フードの奥の闇が、じっと俺を見据えている気配がする。視線など見えないはずなのに、見透かされているような悪寒。
「は?」
「決められた他人の運命、ニュースのようなものを占うのさ」
ニュース?
俺は眉をひそめた。
何を言っているんだ、この婆さんは。ボケているのか?それとも、そういう設定のパフォーマンスなのか?俺の困惑など意に介さず、老婆は言葉を続ける。
「あんたの明日がどうなるかなんて、興味はないだろう?どうせ代わり映えのしない、今日と同じ明日だ。それよりも、もっと確実で、変えようのない事実のほうが面白い」
心臓が跳ねた。
図星を突かれたからではない。老婆の口調が、どこか楽しげに、残酷な響きを帯びていたからだ。
「そうさね……。明日、この町の駅前にある大きなショッピングモールがあるだろう」
俺の生活圏内にある、唯一の大型商業施設だ。週末になれば家族連れで賑わう、この寂れた町における唯一の「光」のような場所。
「そこで人が死ぬよ。間違いない」
ピクリ、と俺の肩が跳ねた。老婆の声には、予言特有の神秘性も、脅かすような抑揚もなかった。ただ、明日の天気予報を読み上げるような、無機質で、絶対的な響き。明日、雨が降る。明日、風が吹く。明日、人が死ぬ。それらが全て、等価値の事実として並べられたような語り口だった。
空気が、凍りついた気がした。テントの中の湿度が、ねっとりと肌にまとわりつく。獣臭さが濃くなる。俺は息を呑んだ。冗談だ。たちの悪い悪戯だ。そう自分に言い聞かせるが、指先の震えが止まらない。
数秒の沈黙の後、俺は乾いた笑いを漏らした。無理やりにでも笑わなければ、この異様な空気に飲み込まれそうだったからだ。
「ははっ、なんだそれ。悪質な悪戯だな。警察に通報されたいのか?」
「……」
「そんな不謹慎な、ただの与太話に金は払わないぞ。俺は帰る」
俺は逃げるように背を向け、テントの布に手をかけた。背後で、老婆が身じろぎもせず、ケタケタと喉の奥で笑った音がした。それは乾いた笑いではなかった。湿った、粘着質で、何かが擦れるような音。
「いいさ」
嘲笑うような、哀れむような声が、背中に張り付く。
「趣味みたいなもんだし、端から金を取る気はないよ。ただ……毎週この時間にここに店を出しているから。気が向いたら来な」
俺は何も答えず、逃げるようにテントを出た。外の空気は相変わらず生温かいはずなのに、ひどく寒気がした。路地裏の闇が、さっきよりも深く、濃くなっているように感じる。ブロック塀のシミが人の顔に見え、電線の影が首を絞める縄に見える。
早足で、ほとんど小走りで公園へ向かった。いつものベンチに座り、大きく息を吐く。街灯の明かりがあるだけで、これほど安堵するとは思わなかった。俺は震える手で、冷めきったフライドチキンを取り出し、口に運んだ。いつもなら、ジャンクな脂っこい旨味が口いっぱいに広がり、疲れた脳を麻痺させてくれるはずだった。
だが、今夜のそれは、違った。
「……まずい」
味がしない。いや、妙な味がする。舌にまとわりつく油が、まるで凝固した血液のように感じられ、肉の味が、錆びた鉄の味に変貌していた。
吐き気がした。
だが、吐き出すこともできず、俺は無理やりそれを飲み込んだ。喉を通る塊が、異物となって胃袋に落ちていく。
――そこで人が死ぬよ。
老婆の声が、耳の奥でリフレインする。ただの妄言だ。あんな薄気味悪い場所で、頭のおかしい婆さんが世迷い言を吐いていただけだ。明日になれば、いつも通りの平和な一日が始まり、ショッピングモールでは家族連れが笑顔で買い物を楽しむはずだ。そうに決まっている。
遠くで、季節外れの鳥の鳴き声がした。
ホー、ホー、という梟のような声。だが、今の俺には、それが鳥の声には聞こえなかった。あのテントの奥で、闇に溶け込んでいた老婆が、俺の怯える様を見て嘲笑っている。
ケタケタ、ケタケタと。
その笑い声のように聞こえてならなかった。
俺は食べかけのチキンを袋に戻し、逃げるようにアパートへと帰った。背後から、べっとりとした視線が追いかけてくるような錯覚に怯えながら。
明日、何も起きなければいい。
そう願う俺の心の中に、ほんの僅か、黒い染みのような感情が芽生えていたことに、この時の俺はまだ気づいていなかった。それは、「もし本当に当たったら?」という恐怖と、その恐怖を上回るほどの、抗いがたい「好奇心」だった。




