第57話 魔境のモフモフ天国と、理性を失う公爵令嬢
常夏のジョーズ・ビーチを後にし、一行を乗せた弐号機は、地図にない空白地帯――魔境へと足を踏み入れた。
数時間後。
窓の外の景色は一変していた。
「……寒いですわ!!」
ロザリアがガタガタと震えながら叫ぶ。そこは、見渡す限りの銀世界。気温はマイナス三十度。吹き荒れるブリザードが、視界を真っ白に染め上げている。
「なんなんですのこの気温差は!お肌が乾燥してパリパリになりますわ!加湿器を!今すぐ超音波式の加湿器を出しなさい!」
「落ち着いてください。現在、暖房出力を最大にしています」
オトモがハンドルを握りながら答える。
「路面凍結。タイヤではスリップしますね。……多脚歩行モードへ移行します」
ガシャン!ガキンッ!
弐号機の側面から、鋼鉄の多脚アームが展開された。鋭利な爪がスパイクのように氷の大地に突き刺さり、巨体を安定させてワシワシと進んでいく。
「んー、涼しい」
ライラだけはTシャツ一枚で平然としていた。彼女の代謝は常人の数倍であり、自家発電で熱いらしい。
「生体反応、接近!」
ミルカが警告音と共に叫ぶ。
「デカい……!全長十五メートル級!この熱源反応、ただの熊じゃない!」
ドスン……ドスン……。
地響きと共に、吹雪の向こうから巨大な影が現れた。
それは、白銀の毛並みを持つ、山のように巨大な狼だった。極光の魔狼フェンリル。その吐息は全てを凍らせ、鋭い牙は鋼鉄をも噛み砕く、Sランク指定の伝説級魔獣である。
「グルルルル……」
フェンリルが牙を剥き出し、殺気に満ちた唸り声を上げる。その威圧感だけで、並の冒険者なら心臓が止まるレベルだ。
「フェ、フェンリルだ!逃げるぞ!あんなの勝てるわけねぇ!」
キッドが顔面蒼白で叫ぶ。
「無理よ!奴は風より速い!ロックオンされたら終わりだわ!」
ミルカも絶望的な声を上げる。
だが。ただ一人、ロザリアだけは違った。
「……はうあっ!?」
彼女は窓にへばりつき、目を皿のように見開いていた。恐怖ではない。その瞳は、少女漫画のようにキラキラと輝き、頬は紅潮している。
「な、なんて……なんて立派なモフモフなんですの……!」
ロザリアの視界には、鋭い牙も爪も見えていなかった。見えているのは、極寒の地で鍛え上げられた、最高級シルクのように輝く銀色の毛並み。そして、ふっくらとした肉付きの良い手足。
「か、可愛いですわァァァ!!」
バンッ!
ロザリアは走行中の弐号機のドアを蹴り開け、雪原へと飛び出した。
「おいロザリア!?死ぬぞ!!」
キッドが止めるのも聞かず、彼女はドレスの裾をまくり上げ、マイナス三十度の暴風の中を猛ダッシュした。
「ワンちゃァァァン!!こっち向きなさい!わたくしよー!!」
涎を垂らしながら迫りくる人間の女。
フェンリルは一瞬呆気にとられたが、すぐに最強魔獣としてのプライドを取り戻した。
「ガルァァァッ!!」
愚かな人間め、氷像に変えてくれる。
フェンリルが跳躍した。その巨大な前足が、ロザリアを押し潰そうと振り下ろされる。岩盤をも砕く必殺のスタンプ攻撃だ。
ドガァァァァァン!!
雪煙が舞い上がる。直撃だ。誰もがロザリアの死を確信した。
だが。
「あら、元気な子!」
煙の中から聞こえたのは、弾んだ声だった。
ロザリアは、フェンリルの巨大な前足を両手でガシッと受け止めていたのだ。日々のタイヤ引き、そしてオトモによる地獄のブートキャンプの果てに到達した筋力Sの腕力が、Sランク魔獣の踏みつけを完全に相殺していた。
もはや人間ではない。ドレスを着た筋肉だ。
「……ッ!?」
な、なんだコイツ!?俺の攻撃を止めた!?
フェンリルの目が点になる。
「いい子ですわねー!初対面でお手をしてくれるなんて!」
ロザリアには、殺意のこもった攻撃が元気な挨拶に変換されていた。彼女は受け止めた前足、丸太より太いそれを離さず、そのまま頬ずりをした。
「ああん!肉球!肉球が弾力に満ちてますわ!ポップコーンのような香ばしい匂いがしますわー!」
スリスリスリスリ!!
ロザリアが高速で頬を擦り付ける。
「ギャンッ!?」
離せ!気持ち悪い!
フェンリルが足を引こうとするが、ロザリアの万力のような握力がそれを許さない。
「逃がしませんわよ!さあ、次はモフモフの時間ですわー!」
ロザリアはフェンリルの腕を駆け上がり、その首元の豊かな毛並みにダイブした。
ズボォッ!!
顔面が毛に埋まる。
「スーッ!ハァーッ!スーッ!ハァーッ!」
深呼吸。獣臭を肺の奥まで吸い込む変態行為。
「最高ですわ……!この獣臭さ!野生の香り!わたくしの理性が蒸発していきますわァァ!」
フェンリルは恐怖した。今まで数多の戦士を葬ってきたが、こんな敵は初めてだ。攻撃が通じない。そして、生理的に無理だ。
「オトモ!ブラシを!」
毛並みに埋もれたまま、ロザリアが叫ぶ。
「承知しました。ロザリア様、とっておきがございます」
いつの間にか外に出ていたオトモが、うやうやしく銀のトレイを差し出した。そこに乗っていたのは、無数の突起がついた奇妙なブラシ。
魔導ブラシ・極。本来は戦車の錆落としに使われる強力なブラシだが、オトモが今しがたペット用に改造したものだ。
「さあ、ブラッシングのお時間ですわよー」
ロザリアがブラシを構える。
ジャリッ!ジャリッ!
剛毛を掻き分ける音。
「……ウゥッ!?」
フェンリルの身体がビクついた。
ジャリジャリジャリジャリ……!
ロザリアの手が加速する。絶妙な力加減。痒いところに手が届くピンポイント刺激。魔獣としての本能が、抗えない快楽に屈服していく。
「クゥ……クゥーン……」
そこ……そこ、気持ちいいワン……。
ドサッ。
数秒後。最強の魔狼フェンリルは白目を剥いて地面に横たわり、無防備にお腹を晒していた。完全敗北である。
◇
「ん?なんか甘い匂いがする」
その時、車内で寝ていたライラが目を覚ました。窓の外を見る。そこには、雪原に横たわる、巨大な白い山があった。
「……かき氷だ」
ライラの目には、白銀のフェンリルが特大練乳かき氷に見えていた。寝起きで空腹の彼女にとって、白いものは全て食べ物だ。
「いただきまーす」
ライラが車を飛び出し、大きく口を開けた。
ガブッ!!
「ギャンッ!?!?」
フェンリルの悲鳴が響いた。ライラが、氷属性の魔力が詰まっているフェンリルの尻尾に全力で噛み付いたのだ。
「んー、冷たくて甘い気がする!やっぱ練乳かかってる!」
ガジガジガジ。
フェンリルはパニックに陥った。前からはブラシを持った変態。後ろからは尻尾を食う捕食者。ここは地獄か!?魔界より恐ろしいワン!!
フェンリルの生存本能が警鐘を鳴らした。戦ってはいけない。逃げなければ、尊厳か命のどちらか、あるいは両方を失う。
ポンッ!
フェンリルは最後の魔力を使い、身体を急速に収縮させた。巨大な狼が、一瞬で手のひらサイズの白い子犬へと変化する。
「あ、小さくなった?」
ライラが口から尻尾を離す。
キャンキャン!
子犬になったフェンリルは、脱兎のごとく雪の中へ潜り込み、地平線の彼方へと逃げ去っていった。
◇
「ああっ!待って!行かないでポチーッ!」
ロザリアが雪原に膝をつき、悲痛な叫びを上げた。手には、ブラッシングで抜け落ちた大量の毛が残されている。
「まだ……まだ吸い足りませんわ……!あの肉球の弾力……忘れられませんわ……!」
血の涙を流して慟哭する元公爵令嬢。
「あーあ、溶けちゃった」
ライラは残念そうに口元を拭った。
「素晴らしい成果ですね」
オトモが、雪原に残された大量の毛を拾い上げた。
「最高級銀狼毛。これだけあれば、全員分の最強の防寒着が作れますよ」
その言葉を聞いた瞬間。
慟哭していたロザリアの目が、ビジネスライクに鋭く光った。
「……防寒着?馬鹿なことをおっしゃいオトモ」
「ほう?」
ロザリアは雪原の毛を素早くかき集め、大切そうに、しかし計算高い目で抱え込んだ。
「これはSランク魔獣の天然ウールですわよ!帝国の貴族どもに売り捌けば、この程度の量でも金貨百枚は下りませんわ!……防寒着など、その辺の安い羊の毛で十分ですの!これは全て、わたくしの愛と労働の結晶!借金返済とライラさんの豪遊のための第一歩ですわー!」
先程までの悲しむ変態から一瞬で強欲な投資家へと切り替わる。その商魂の逞しさに、オトモは眼鏡の奥で呆れたように笑った。
「……やれやれ。逞しいことですね。では、次なる市場でこの毛を換金しましょう」
こうして、魔境の主は二つの狂気によって撃退され、一行は極上の防寒素材にして莫大な資金源を手に入れた。
ロザリアの可愛いものへの執着という新たな弱点と、公爵令嬢としての強欲な商才が、氷の大地で同時に花開いた事件であった。
■ 現在のG-Log掲載情報(自動更新)
【店舗名】 万事屋オモテナシ・弐号機
【新規獲得アイテム】
『最高級銀狼毛』
効果:Sランク魔獣の天然ウール。防寒性抜群だが、ロザリアの商才により全員分の防寒着ではなく、金貨百枚以上の価値を持つ資金源として確保される。
【従業員ステータス】
・ロザリア:【猛獣使い兼投資家】
弱点:可愛いワンちゃん(IQが二に低下)。
スキル:高速ナデナデ。
状態:魔獣を快楽で屈服させ、その毛を莫大な利益として換算する商魂逞しい強欲令嬢。
・ライラ:【氷食症】
認識:フェンリルは特大練乳かき氷。
・フェンリル:【トラウマ】
状態:人間不信(変態と捕食者に遭遇し、手のひらサイズになって逃亡)。
【次回予告】
「この先には、古代の文明が眠る『機械の墓場』があるらしい」
雪原を抜けた先、そこは錆びついた鉄と歯車が広がる荒野だった。
技術者ミルカの目が輝く。
「ここなら……弐号機を『空へ飛ばす』ための最後のパーツがあるかもしれない」
しかし、そこを守っていたのは、暴走した古代の「殺人ゴーレム」たちだった。
次回、第58話『鋼鉄の墓場と、空飛ぶ屋台の夢』。
ミルカの技術者魂が炸裂する。
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