第35話 0.1秒の死角と、聖母の揺り籠
ドォォォォォンッ!!
アビスの最下層で、理不尽な嵐が吹き荒れていた。 それは自然災害ではない。たった一匹の「迷子」が、手足をバタつかせているだけの余波だった。
『イヤダ! 来ルナ! 外ハ穢レテイル! 寒イノハ嫌ダァァッ!!』
真紅の将軍ガニシュカ。 殻を捨て、ハイスピード形態となった彼は、音速を超えて戦場を跳ね回っていた。 誰かを狙っているわけではない。ただの「拒絶」。 だが、その質量を伴った駄々っ子は、触れるもの全てを粉砕する衝撃波の塊だった。
「クソッ、狙いがねぇから『死線』が見えねぇ!」
キッドが舌打ちしながら、バックステップで衝撃波を回避する。 彼の『職人の目』は、相手の癖や重心の揺れから未来を読む。 だが今の将軍には“癖”がない。
あるのは、パニックによる無秩序な運動だけだ。 予測不能。接近不可能。
「近づけばミンチだ。どうする……!」
キッドが歯噛みする。 このままではジリ貧だ。だが、見た目以上に重い“深海の筋肉塊”を、遠距離から止める術など、包丁一本の彼にはない。
◇
その頃。戦場の地下深く、旧時代の排水管の中。
ズルリ、ズルリ……。
暗闇に、濡れた雑巾を引きずるような、湿った音が響いていた。 カンテラの灯りが、三つの影を照らし出す。
「オトモさん! もう無理ですって! 血が……!」
道案内をしていた革命軍の兄ちゃんが、恐怖に震えた声を出した。 彼の肩には、瀕死の男が体重を預けていた。
オトモだ。 右腕はあり得ない方向にねじ曲がり、ダラリと垂れ下がっている。純白だった燕尾服は、自身の鮮血と泥でどす黒く変色していた。 それでも、彼は足を止めない。
「……手を貸していただけるのは……ありがたいですが……。歩くのは……私の役目ですので……」
オトモは荒い息を吐きながら、自身の足で地面を踏みしめる。 革命軍の兄ちゃんが瓦礫をどかし、道を作る。 その後ろには、端末を握りしめたミルカが続いていた。彼女の瞳には涙が溜まっている。
「オトモさん……壱号機のブラックボックス、信号が消える直前に……」
ミルカが震える声で告げる。
「……最後に、“あなたの名前(Master)”を呼んでいました」
オトモの足が、一瞬だけ止まった。 彼は深く息を吸い込み、再び前を向いた。
「……ならば、なおさら……行かねばなりませんね」
ようやく出口の光が見えた。そこは、壱号機が散った場所のすぐ近くだった。 出口付近の瓦礫の中に、赤熱する金属片が転がっている。 壱号機のエンブレムだ。まだ高熱を帯びており、雨水に触れてジュウと音を立てている。
オトモは、支えの手を借りず、自らの左手でそれを拾い上げた。
ジュッ。
皮膚が焼ける音がする。肉が焦げる匂いが鼻をつく。 ミルカが息を呑むが、オトモは眉一つ動かさなかった。
「……熱い。……まだ、あなたの魂は燃えているのですね」
その焼けるような痛みだけが、消えかけたオトモの意識を現実に繋ぎ止めていた。 彼はエンブレムを懐にしまうと、革命軍とミルカを振り返った。
「ここからは……危険です。私一人で参ります」
「でも!」
「……主の元へ戻るのは、執事の特権ですので」
オトモは優雅に一礼すると、ふらつく足で、しかし確かな意思を持って戦場へと踏み出した。
「さあ、行きましょう。……最後のご奉仕です」
◇
戦場では、キッドが衝撃波に弾き飛ばされ、壁に叩きつけられていた。
「がはっ……!」 「キッド!」
万事休す。誰もがそう思った時、一人の女が前に出た。 ライラだ。 彼女は武器を構えるどころか、両手を広げ、無防備な姿で暴風の正面に立った。
「キッド、合わせなさい! ……私が動きを止める!」
ライラは怯えていなかった。 彼女の瞳に映っているのは「恐ろしい怪物」ではない。 もっと根源的な、彼女にとっての「宝物」だった。
「おいガニシュカ! 母ちゃんに言われたんだろ? 『柔らかいのは恥ずかしい』『外の連中は嘘つきだ』って!」
ライラが大きく息を吸い込む。 それは、戦場に似つかわしくない、底抜けに明るい「愛」の咆哮だった。
「バッカじゃないの!?」
『……エ?』
「柔らかいってことはね……恥ずかしいことじゃないわ! それは、一番の食べ頃ってことよ!!」
ライラの瞳がギラリと輝く。 そこに侮蔑や憐れみはない。あるのは、純度100%の「食欲」。
「隠さないで! もっとよく見せて! その透き通るような桜色の薄皮……張り詰めた筋肉の繊維……。 今まで見たどんな宝石よりも……美味しそうよ!!」
ジュルリ。
盛大な音が響いた。 将軍の動きが、ピタリと止まった。
『タベ……ゴロ……? 美味シ……ソウ……?』
生まれて初めてだった。 母上ですら「隠しなさい」「穢れている」と言ったこの柔らかな肉体を、「綺麗」「美味しそう」と全肯定されたのは。 罵倒されると身構えていた心に、予想外の「求愛《食欲》」が突き刺さる。
思考が空白になる。 音速の巨体が、物理法則に捕まる。 その時間は、わずか0.1秒。
「ナイスだ店長! 仕込みは任せろ!!」
その刹那を、天才料理人が見逃すはずがない。 キッドの姿が消えた。 音速の領域へ、自ら飛び込む。
狙うは首ではない。心臓でもない。 暴れる子供を静かにさせるための、料理人だけの技術。
「へいお待ち! 『カニの姿造り・神経抜き』だ!」
閃ッ――!!
二本の包丁が、銀色の軌跡を描いた。 刃は皮膚を傷つけることなく、関節の隙間へと滑り込み、運動神経の伝達回路だけを正確に切断した。
【調理術・神経断裂】
ガクンッ……。
将軍の膝が折れた。 続いて、肩が、肘が、糸の切れたマリオネットのように崩れ落ちる。 痛みはない。ただ、体が動かない。
『ア……アア……ッ? 動カナイ……寒イ……母上、寒イ……!』
将軍が泥の上に転がる。 体が動かなくなったことで、再び幼少期のトラウマ――深海の孤独と冷たさが、彼を襲っていた。 震える巨体。誰かが温めてあげなければ、彼の心は恐怖で死んでしまう。
「……失礼いたします」
その時、黒煙の中から、ふらりと影が現れた。 ボロボロの燕尾服。無惨に折れた右腕。 見るからに満身創痍の男が、倒れ込むように将軍の顔の横に立った。
「オトモ! てめぇ、その体で……!」 キッドが叫ぶ。
オトモは返事をしなかった。口を開けば、血が溢れてしまうからだ。 彼は震える左手で、懐から「それ」を取り出した。 壱号機の形見。赤熱するエンブレム。
「……寒くなど、ありませんよ」
オトモは、熱した鉄を将軍の眉間――強張った神経のツボに押し当てた。
『ア……熱ッ……?』
「この『外の世界』は……こんなにも、熱いのです」
ゴフッ。 オトモの口から、大量の血が溢れ、白い手袋を染める。 限界などとうに超えている。だが、その手つきだけは、どこまでも優雅で、慈悲深かった。
【執事流整体術・ゆりかご(片手Ver.)】
オトモは自身の体重を乗せ、壱号機の熱を波長に変えて、将軍の強張った心を解きほぐしていく。 赤子をあやすように。 荒ぶる波を鎮めるように。
「……もう、よろしいのです。……安心してお眠りください」
熱が伝播する。 将軍の瞳から、恐怖の色が消えていく。
『アタタカイ……。コレガ……外ノ温度……』
母の幻影が消え、心地よい温もりが彼を包んだ。 大きな寝息と共に、将軍は静かに瞼を閉じた。
『……王女……守レタ、カ……』
ズゥゥゥン……。 巨体が完全に脱力し、穏やかな沈黙が訪れた。
「……良い、夢を」
オトモが微かに微笑む。 その瞬間、彼の膝から力が抜けた。 糸が切れたように、体が前に倒れる。
「オトモ!!」
キッドが滑り込み、地面に叩きつけられる寸前でオトモの体を抱きとめた。 体温が異常に低い。燕尾服は血で重くなっている。
「バカ野郎! 死ぬんじゃねぇ! てめぇがいなくなったら、誰が店の運営すんだよ!」 キッドが叫ぶ。
オトモの目が、うっすらと開いた。 焦点は合っていない。それでも、その口元は執事の矜持で歪んでいた。
「……ご心配なく。……私はまだ、“サービス中”ですので……」
「あ?」
「……執事は、そう簡単には……壊れません……。 ……明日には……紅茶を……淹れられます、ので……」
ガクッ。 言い切ると同時に、オトモは今度こそ意識を手放した。
「……へッ。とんでもねぇ頑丈さだ」 キッドは安堵の息を吐き、泥だらけのオトモを優しく地面に寝かせた。
戦いは終わった。 ライラがよだれを拭いながら、眠る将軍を見上げる。
「……で、いつ食べるのこれ? 今なら踊り食い行ける?」
「寝かせといてやれよ! 熟成が必要なんだよ! まったく、空気の読めねぇ店長だ」
キッドが呆れてツッコミを入れた、その時だった。
ズゴゴゴゴゴゴゴ……。
将軍の背後を守り続けていた岩壁。 そこに隠されていた巨大な「開かずの間」の扉が、重々しい音と共に開き始めた。
■ 現在のG-Log掲載情報(自動更新)
【店舗名】 万事屋オモテナシ・革命軍 【総合評価】 ★2.90(↑微増) 【現在地】 アビス最下層・王の間前
【ステータス更新】
・将軍ガニシュカ:【鎮静(Sleep)】 トラウマの解消により、敵対行動を停止。
・オトモ:【重傷(Critical)】 革命軍の支援を受け現場到着。任務完了により気絶。
・ミルカ:壱号機の最期を確認。新たな決意へ。
【次回予告】
扉の向こうに眠る「アビスの真実」。 目覚めた王女と、カニの涙。 そして、ついに明かされる「母上の言いつけ」の本当の意味とは?
決着ッ!! ライラの食欲、キッドの技術、そしてオトモ(と壱号機)の献身。 全員の力が合わさって、最強の将軍を「おねんね」させることに成功しました。
ボロボロのオトモさん……。 でも大丈夫。「執事は壊れにくい」そうです(笑)。 次回、いよいよアビス編の真相、そして感動の和解へ!
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