共鳴する花嫁
桜の花びらが、屋敷の離れに春を運んできた。
開け放たれた障子から、薄紅の花は風と戯れながら絨毯を敷いた畳の上に舞い込む。
四畳半ほどの部屋には、家具はなく、ぽつんと漆黒の安楽椅子のみが置かれていた。
安楽椅子には、異国の陶人形が腰掛けている。
140センチほどのこの人形は、軸が弱いのかぐったりと背もたれに背を預けていた。
やわい風が再びふいてきた。
まばゆい金髪がゆれる。
陶器を思わせる白い肌。ミニ薔薇のような小さな赤い唇は、愛らしいが笑みはない。
パチッと開いたままの日輪のような黄金の瞳は視点があわず、夢を見ているようにぼうっとしている。
長いふわふわの髪は風に遊ばれていた。
たっぷりと白いレースをあしらわれたビロードの漆黒のドレスは、陶人形のつめたい表情をさらに冷たくみせていた。
白い手には、銀の懐中時計を持っている。
秒針が動いていない。動いていないのに、それはカチッ! と音を立てた。
よく晴れた早朝――。
古めかしい蔦が巻き付いた洋館の前に、一台の車があった。
洋館の窓からは、美しい年代物の美術品が所狭しと陳列されているのが見える。
若い男は革の鞄を両手に持ち、せわしなく店の前に止めた車へ荷を乗せる。店のオーナーだろうか。
朝であるから、世間は皆忙しい。邪魔しないでほしいところである。
だが空気も読まず、我が事しか考えない娘が、男の手をぎゅっと握り、強引に止めた。
「風馬さん。あなたが好きです。お慕いしております。――どうか、わたくしの婚約者になってくださいませんか?」
朝も早くから告白してきたこの娘の歳は十六。牡丹の柄の見事な振り袖を着ている。長い黒髪は艶があり、薔薇色の頬や赤い唇は誰もが目を奪われる美少女だ。香水の甘い香りは異性を誘う。
だがこの男に、娘の美貌は通じない。無意味だ。
「そうか。綾子ちゃん、ありがとう。・・・でもごめんね、リリーの婚約者でいたいんだ、僕」
古美術商の男――高橋 風馬は、ほほ笑みを崩すことなく、眼前の娘へさらっと言った。
手を振り払い、車に荷を詰め込む作業を再開する。
風馬は古美術商の職業柄スーツに身を包んでいる。やわらかい茶髪はさらりと揺れ、整った顔を彩る。右目の下に泣きぼくろがあった。
ふと、風馬は、
「君は『国宝』。お姉さんのリリーさんは『神人』。双子なのに見た目も異能も性格も違うよね」
「それは・・・、わたくしがお姉さまに劣っていると?」
娘は拳をキュッと握りしめた。
風馬は茶髪をかき上げるとため息をつき、首を振った。
「――それは違う。僕も『国宝』だ。見た目や異能ではなく、中身を言っているんだよ」
「中身?」
「・・・君の高慢さは、誰も好まない」
「――っ!」
つれない男はもう何度目かわからぬ告白をあっさり振ると、「仕事があるから」と車に乗ってしまった。
娘は、車の排気ガスを全身に浴び、がっくりとうなだれた。
今日の告白のために薔薇の風呂に浸かり、香水も着物も新調した。化粧も流行りの頬紅を入れてみた。
使用人たちのてんやわんやもすべて水の泡だ。
(高慢? わたくしのどこが高慢だっていうのよ!)
娘――宇田 綾子は奥歯をギリッと噛みしめる。顔を上げた。可愛らしい顔は打って変わり、般若のような恐ろしい形相だった。
(風馬さんは口を開けばリリー、リリー、リリー・・・と)
――もう、我慢の限界よ・・・!!
「血の繋がりなんて関係ない。あの女、消してやるわ!!」
綾子は道行く人も気にせず大声で怒鳴ると、振り袖をひるがえし大股で我が家へと向かった。
時は大正。日本。
――葦原中津国に生きる人間たちは三種だ。
異能を持たない『無人』
類まれな能力を操る異能者のなかでも優れている『国宝』。
その上の存在、神が作り出した人間は『神人』。極稀に無人の家にも生まれる。
無人は国の人口のほぼ半数以上をしめており、異能者は重宝がられた。国宝が生まれた家は栄える。
一方、めったに生まれない神人は、朝廷に仕えなければならないため、めったに姿を表さない。
綾子の実家の呉服屋は、今日も客足が絶えず繁盛していた。
母や古参の従業員が接客にあたっている。店の正面から入るわけにもいかず、綾子は舌打ちをし、使用人たちが使う裏口から入った。
離れに近い洗濯場は、普段綾子たち家族は近寄らない。
昨日庭木の手入れがあった。山積みの洗濯物が井戸をぐるりと取り囲んでいた。数名の使用人が洗濯板と石鹸を使って泥だらけの衣服を洗っている。
綾子は、脇目も振らず、真っ先に姉のいる離へ向かう。
だが途中、洗濯物の入ったかごを持った使用人とぶつかった。
はずみで、汗臭い衣服が地面に散乱した。
「痛いわね。なにするのよ!」
「お嬢様っ!?」
使用人の娘は「なぜここに!?」という顔をしたあと、ぶるぶると震え始めた。綾子と同い年くらいの娘だ。過労のせいか、ひょろりとしていて、風に吹かれれば飛んでいきそうな体つきだ。
「前を見ておりませんでした。申し訳ありません! 申し訳ありません!」
使用人の娘は土の上で、土下座した。怯えきっている。
だがもう、誤っても遅い。
「宇田家の『犬』ふぜいが、主人にこんな臭いものぶつけるなんて、いい度胸ね!」
綾子は娘の髪を鷲掴みにすると、「躾が必要ね。いらっしゃい!」と洗濯場まで連れていく。髪が抜けるのもお構いなしに、綾子は汚れた水桶に娘の顔を突っ込んだ。
ガボガボと息ができずに苦しむさまは、胸がすっとする。
お許しを、と叫ぶ声が心地よい。
死ぬ前に引き上げてやると、綾子は間髪入れずに、今度は顔を蹴った。
「ゲホッ! おじょう、さま・・・」
口から泥水を吐き出し、息も絶え絶えな娘の、その痩せこけた腹をドンと踏みつける。
周りの使用人たちは影に隠れて様子をうかがう。
「リリー様がお元気だったら・・・」「しっ! 聞こえたら俺達だってただじゃすまねえぞ!」
綾子はゆうゆうと見下ろした。
「今度やったら殺すわよ」
「申し訳、ございませんでした・・・」
使用人の娘はよろよろと顔を上げ、再び土下座する。
ふと、綾子の眼に、洗濯物に刺さったままの針が見えた。すかさず抜いて、空へ掲げる。綾子はニヤッと笑った。
――いいこと、おもいついちゃった!
綾子は使用人の腹をもう一発蹴ると、意気揚々姉の部屋へ向かった。
「こんにちは。お姉さま」
障子の影から来訪者が姿を表した。人形より少し背が高い。綾子だ。人形と装いや髪色が違うだけで顔は瓜二つ。
だが漆黒の瞳にめらめらと燃える悪意、噛み締めた唇は人形への憎悪を宿していた。
綾子は堂々と部屋の主のもとへ近づく。畳の縁を踏んでも気にしない。
やがて人形の正面へ立つと、開口一番怒鳴りつけた。
「『こんにちは』って言ってるでしょっ! 話しかけてあげたんだから返事しなさいよ!」
――このジャンク品!!
バシッ!
人形の頬が空虚な音を立てた。安楽椅子は揺れ、人形は絨毯へ放り出される。
ごんっと頭を打っても、人形はピクリともしない。目も開いたままだ。
綾子は着物が乱れるのも構わず、人形を蹴り続けた。顔面を蹴ると、人形はたらりと鼻血を出した。
人形は、れっきとした人間だった。
その美貌と見た目から『生き人形』と綾子たち家族に蔑まれていた。
神人ゆえ、髪色も目の色も黒ではない。奇妙なことに食事を取らなくても生きている。
名前は、リリー。外国めいた名前だがハーフではない。無人との間にできた子で綾子とは双子である。
『リリー』は庭の雑草からつけられた名だ。
あえて日本語の名にしなかったのは、『神人』を家族とは認めないあかしであった。
「『神人病』かなんだか知らないけど。なんで『生き人形』ばかり気にかけるのよ、風馬さんは!!」
されるがままの姉は、肩をがっしり掴まれてガクガクと頭を揺らされる。
「そのドレス、風馬さんが送ったんでしょう!? 引き裂いてやろうかしら!」
だが実行に移せば風馬に嫌われる。その我慢さえ綾子は許せない。
綾子は姉の襟首を掴む。ぐいっと顔を近づけた。耳元で囁く。
「早く死んでくれないかしら。いいえ、ただ死ぬなんて楽なことさせないわ。――・・・さっきいい方法を思いついたの」
綾子はリリーの袖をまくった。レースがめくれ、雪のような白い肌が露出する。
「苦しんで、苦しんで、死ぬがいいわ」
綾子は異能を手のひらに集め始めた。氷柱のようなそれはだんだん細くなり、無数の細い針へと形を変える。
よく見ないと見えないほどの、細い雨のような銀針が作り出された。
妹はそれを、姉の血管につぷっと刺す。
あまりに細いゆえ、滑り込むように血管の中へ入り込み、血の流れに乗って体の奥深くへと入ってゆく。
綾子はそれを、八本も突き刺した。刺された皮膚は針で膨れて盛り上がっている。残りの針はじわじわ血管内に侵入する。
「いきなり死んだらおかしいもの。針は全身にまわって苦しみながら心臓へ達するわ。いかにも自然死に見えるわよ」
――ねえ、お姉さま。それまでに人形を卒業できるといいわね?
綾子は袖を元通りに戻す。
異能を使うと、姉の体はふわりと浮いた。再び安楽椅子へと座らせる。
鼻血を吹けば、元通り、姉は再び人形に戻っていた。
苦悶の顔はしていない。『神人病』はリリーから表情を奪っていた。
「なによ、相変わらずつまらない女」
綾子は姉をいたぶってようやくスッキリしたのか、髪を翻すとさっさと部屋を出ていった。
「早く死になさいね」
という捨てゼリフを残して。
・・・・・・・・・リリーの宝石のような瞳が、一瞬ゆれた。
『神人病』とは、異能が強力すぎて制御できなくなった神人に発症する病である。
今、リリーの魂は安楽椅子の部屋とは違う空間にいた。
――リリーの魂がある場所は、どこかの田舎、茅葺き屋根の年季の入った小さな家だった。
裏庭の枝垂れ桜は美しく、ふわりふわりと風に遊ばれ枝を揺らす。
床板もぼろぼろな縁側だ。リリーはこの場に不釣り合いなビロードの漆黒のドレスを着ている。
無表情で静かに桜を見上げていた。
ここはリリーの頭の中。この世界に存在するのはリリーのみ。――の、はずだった。
招かれざる侵入者が入り込んで来るまでは。
縁側にいるのはリリーだけではなかった。もうひとり、書生の格好をしたひょろりとした男が座っていた。
男は、霧がかかったように鼻から上がわからない。見えないのだ。さしずめ身元を特定されないためだろう。
かろうじて見えるその唇や微笑は、とても書生には見えないほど大人びていた。
男はリリーに笑いかける。
娘はぶるりと体が震えた。
ここは頭の中のため、異能が使えない。
駆け出したリリーの細い腕を、男はあっさり捕らえる。強引に抱き寄せ、顎を掴むと、いきなり口づけしてきた。
(嫌っ!)
リリーは精一杯顔をよじり、腕を突っぱって男の胸を押すが力の差で負けた。
そのまま引きずられ、縁側の奥、日焼けした畳の上に押し倒される。
やがて、男は口づけをやめると、今度は首をギュッと絞めてきた。
「ゔ・・・」
――もうやめて。許して・・・・・・。
懇願も虚しく、リリーが苦しめば苦しむほど、男は嬉しそうだった。
「・・・趣味なんだ」
男は首を絞めながら、歌うように喋る。
「君の苦しむ表情。命の炎が瞳から消える瞬間もどれもたまらないんだ」
リリーは末期の力で男を睨む。
男は意外そうに首を傾げた。
「おや。まだそんな気力があるのか」
リリーの投げ出された手はピクリと痙攣したきり動かない。畳に散らばる金髪は美しく、男を高揚させる。
――君の『心』が死ぬまで、僕の楽しみは終わらない。
リリーが殺害されると、また現実世界の懐中時計がカチッと鳴った。
リリーが目を覚ますと、そこは再び同じ縁側だった。
桜は何事もなかったかのように揺れている。
隣に、同じ男がまたいた。
怯える娘を見て、舌なめずりしている。
リリーは震える。
――また殺される。この男に。
頭の中の出来事のため、体に異常はない。――異常はないが、心は確実に死んでゆく。
リリーの精神が崩壊し、本当の『生き人形』になるまで。男は殺すのをやめない。
何度も同じ時間の中をループする。
なんども、なんども、なんども、なんども――・・・・・・。
昼下がり。
呉服屋は休憩時間に入る。
「まったく。つまらないったらありゃしない」
妹――綾子は、行儀悪く立ったまま襖を開けた。
「何がつまらないの、綾子?」
リリーの部屋と同じく、絨毯が敷かれた和室には、父、宇田 呼世晴と母、小百合が椅子に座っていた。
大きなテーブルには、それぞれ湯呑みとティーカップが置かれている。茶の最中だったようだ。
「お姉さまのことよ。何やっても動かないんだから」
「あれは神人の『出来損ない』だ。気に留めるなといっただろう」
呼世晴は、ずず・・・と茶をすする。
リリーが今どれほどの窮地に立たされているのか、両親はわかっていない。・・・いや、わかったところで何もしないだろう。
両親の愛情の中心は綾子。
リリーではない。
国宝は人を引き寄せる力がある。
宇田家は、極貧だったが、国宝である綾子の異能によって家は栄えた。今では客足が耐えない、都一の大店になっている。
いっぽうリリーは神人だ。
神人は朝廷に管理される。生まれてすぐリリーの名は神人の名簿に記載された。
異能は綾子と桁外れのものだったゆえ、生まれたときから、リリーは家族というより『神』と暮らしているようなものだった。
リリーは障子の開けしめもせず、気がつけば眼の前にたっている。瞬間移動とも捉えられそうな異能だ。
小百合は音もなく出たり消えたりする娘をたいそう不気味がった。
強力な異能を持つリリーを怒らせるとどうなるかわからない。畏怖を込めた視線を向けられ、無視され続けてきた。
リリーが『神人病』に倒れると、両親はとてもホッとした。神とも崇められそうな異能を、もう見ずにすむからだ。
それからのリリーの扱いは悲惨なものだった。
風馬がドレスをプレゼントしなければ、ずっと同じ寝間着のまま、薄暗い部屋に放置されていただろう。
瞬きすらしない娘を、両親は『生き人形』と称し、医者にも見せず離れに閉じ込めた。
それでも政略結婚の縁談は進んでゆく。
神人と結婚できるのは名誉なことのため、リリーの婚約者は引きも切らない。古美術商の風馬が手を上げ、なんとか場は収まったが。
綾子は納得しなかった。
「ねえ、お父さま。今からでも風馬さんを私の婚約者にしてくださらない? わたし、風馬さんが好きなの」
呼世晴は新聞を広げながら言う。
「『生き人形』などに惚れ込む男はまともじゃない。お前にはもっといい男をわしが見つけてやる。それまで待っておれ」
「そうよ、綾子。あなたのことを思って言ってるんだから」
綾子は内心(さっき針を打ち込んだけれど、効果が現れるのはいつかしら?)とどきどきした。
はやく姉には死んでもらわねば、綾子に婚約者が現れてしまうではないか。
(ああ、はやく消えてほしいわ)
すると、来客があったらしい。使用人がパタパタと小走りで走ってきた。
「高橋風馬さまがいらしてます。ご案内しますか?」
呼世晴は「いい」と首を振った。
「どうせ『生き人形』に会いに来たんだろう。好きにさせておけ」
「お父さまぁっ! お願いっ」
綾子は父の膝にすがりつくが、猫を払い落とすように手を振りほどいた。
「それほど好きなら、反対はせんが・・・。だが自らの美貌で籠絡するしかないぞ」
(やった! 許可が降りた!)
綾子は手を叩いて小躍りする。
「大丈夫よあなた。あんな心臓が動いてるか不確かな人形より、綾子のほうがずうっと可愛いのですから」
「ふふっ」
小百合の言葉に自信を得たのか、綾子は長い黒髪をかき上げた。
(風馬さんは私のもの。誰にも渡さない)
意気揚々と、姉と風馬がいる離へ向かったのだった。
「リリー。金平糖だよ、食べられるかい?」
古美術商の男――高橋 風馬は、ミニ薔薇のように小さな唇に無理やり菓子をねじ込んだ。しかし、半開きの口からポロリと落ちてしまう。
「うーん。難しいねぇ」
失敗したというのに、どこか嬉しそうだ。誰も近づかない離れの縁側で、風馬はくつろぎきっていた。
桜の花びらが、風に乗って開け放たれた障子からリリーの足元へと運ばれてくる。
花びらをつまむと、風馬は心底幸せそうにほほ笑んだ。
「旦那さま。大変です! またお客様がいらしておりますっ!」
使用人が息を切らして走ってきた。その顔は緊張でこわばっている。
「何事だ、騒々しい」
呼世晴は眉をひそめた。使用人は、必死に声を絞り出した。
「朝廷の方が、あっ!」
来訪者は、使用人の横へ立つと、無愛想に「宇田 リリーはいるか」と問うた。
そのころ、風馬はなにか思いついたのか、安楽椅子へ歩み寄ると、遠慮なくリリーの軽い体を抱き上げた。
「もう結婚してしまおうかな。宇田家とは話しもついてるし。ねえ、リリー。いいだろ、『旦那さま』は僕でも」
「お待ちなさって!」
綾子の声。風馬は「ん?」とリリーを抱いたまま首だけで振り向いた。
「綾子さん。どうしたんだい?」
「そんな『生き人形』なんかより、綾子のほうが風馬さんにふさわしいですわ! 返事も返ってこないモノに愛情を注ぐことなど、おかしくありませんこと?」
風馬はこめかみがピクリと動いた。・・・が、おくびにも出さずにこりと笑った。
「おかしい? 僕が?」
「あっ。ごめんなさい、『おかしい』ってそういう意味じゃありませんわ。――ただ、私のほうが何十倍も風馬さんを愛していますと言いたかっただけで」
「・・・ありがとう。でも残念だね。君より、リリーのほうが好きなんだ、僕」
「お姉さまはもうじき死にますっ!」
思いがけぬ言葉に、風馬は体が硬直した。
――は? 死ぬ?
「そんな、何を言ってるんだい。体が死ぬっていったい」
「一体どういうことだ。説明しろ、宇田 綾子」
見知らぬ男の、低い声が響いた。
「朝廷から、リリーを嫁に貰いに来ただと!?」
呼世晴は動揺し息が荒く、小百合は紅茶をこぼした。
「あの『生き人形』が、神人と結婚するのか!?」
「あなた・・・!」
「帝直々の縁談です。断ることはできません。今からでも、リリー様を朝廷へお連れします」
軍服に身を包んだ眼鏡の男は、淡々と言葉を紡ぐ。数名で押しかけてきたあたり、嫌な予感がしたが・・・・・・・。
「しかしですな、あの娘は『神人病』にかかっていて・・・」
「問題ありません。こちらで治療します。――しかしながら、『神人病』にかかっているにも関わらずなんの治療も施さなかった宇田家はお咎めを受けましょう」
「は! なにかの間違いでしょう? 我々はちゃんと衣服も着せ、十分な環境を整えて離れに住まわせてやっていたのですぞ。なぜ責められねばならぬのですか!?」
「まず朝廷に報告すべきでした。・・・貴方がたは神人の貴重価値がわかっていない。どれほどこの国に貢献しているかも。神人の守りがあるゆえに怪異を抑え込めているのです。国宝など塵芥だ」
眼鏡の軍人は吐き捨てるように言った。
「ご自分の娘を、『生き人形』などと称し、放置するなど言語道断。帝も、夫となられる影刀さまも決して見逃されません。本来ならば政略結婚の形を取りますが、結納品など期待されませぬように。――では」
そう言うと、男たちは去っていった。離れのリリーのもとへ行く気らしい。
「なんということだ・・・!」
呼世晴は椅子に体を投げ出し、小百合は綾子を探しに向かった。
「リリーが死ぬとは、どういうことだ。説明しろ。宇田 綾子」
質問され、綾子は言葉に詰まった。
眼前の男が、月から降りてきたような美男子だったからだ。
神人のリリーと同じく、月光のような淡い金髪だ。オールバックにしている。瞳も琥珀のように美しい金色。だが左目は負傷したのか、黒の眼帯を巻いていた。
白い鼻筋も、あつい吐息を漏らす唇も、すべてが麗しい。
軍人らしいガッシリとした筋肉が、漆黒のコートの上からでも見て取れた。
綾子は、怪訝な顔の風馬と軍服の男を見比べ、感嘆の息を吐いた。
風馬はどちらかといえば異国の『王子様』といったところだ。ちがう趣がある。
「おい、聞いているのか」
軍服の男は綾子へ鋭い声で呼びかけた。まるで尋問だが、綾子には心地よい音楽のように聞こえるだけだ。
「綾子さん。リリーの命に関わることだよ」
綾子は値踏みするように男性二人を見比べていたが、やっと我に返った。
「お、お姉さまは生まれつき心臓が弱いんですの。あと数ヶ月の命だそうよ。だから結婚は諦めてくださらないかしら? お姉さまより、私は健康ですよ。結婚なら、私のほうが適任ですわ」
「なんと。初めて聞いたよ」
風馬は綾子の最後のセリフだけかっ飛ばし、リリーへ顔を寄せる。
「リリー・・・」
口づけしようとした。しかし軍人の大きな手に阻まれ、あっけなく口づけは敗れた。
「俺の婚約者に何をする」
『俺の』と言われ、風馬は渋面した。
「ずっと前からリリーの婚約者は僕だ。突然現れて、あなたは誰ですか?」
「俺は」
男が名乗ろうとすると、それを遮るように数名の足音が響いてきた。
「この方の名は岩倉 影刀さん。帝 直属の御前武官ですよ。本来ならあなた方と口を利くのも恐れ多い方です」
眼鏡の軍人が当たり前のようにのたまった。
「おい、青田。それは誇張しすぎだ」
影刀は眼光鋭く部下の眼鏡を見やる。
青田は柳に風と受け流した。更に続ける。
「この方の異能はこの国一です。このたび奥方となられるリリー様の異能も凄まじい。相性もよくいい夫婦になられるでしょう」
「私だって、国宝ですわっ!」
綾子が会話に割って入った。
「『人形』のお姉様より、異能だってずーっと優れて・・・」
「人形だと?」
影刀は眉がはねた。もともと纏っている重い空気は更に増し、武官たちは「あちゃっ!」と帽子で顔を隠す。上司のお怒りは見たくないのだろう。
影刀は「言っておくがな、お嬢さん」と重い口を開いた。
「人の価値は異能じゃない。体の自由不自由でもない。『心』だ。自分の姉を『人形』だと? あんたの心のほうが、よっぽど空っぽの人形に見えるがね」
影刀はそう言うと、風馬からあっという間にリリーを奪い取った。
「僕の婚約者と言ったはずだ! さわるな、汚らわしい!」
「悪趣味なドレスだ。リリーには菫色がよく似合う」
影刀は、リリーの開けっ放しだった瞳を閉じる。誰が触っても動かなかったまぶたは、きれいに閉じられた。
「どういうことだ・・・。貴様の異能か!?」
「さてね」
影刀は「後始末は任せる」と青田に告げると、さっさと自動車に乗り込んだ。
ぎゅっと膝の上で抱きしめれば、リリーの心臓の鼓動が感じ取れる。
「心臓が弱いとは・・・」
神人用の病院がある。影刀は運転手へ「出してくれ」と頼むと、深々とため息を付いた。
リリーは草原を懸命に走っていた。背後から迫りくる男は大股で、少しも焦った様子がない。
(異能さえ使えれば、こんな男に殺されずにすむのに!!)
唇を噛む。何度も殺され続け、精神状態は非常に不安定だった。
次殺されれば、確実に精神は崩壊する。
リリーは懸命に祈る。
――神様、どうか。
この終わらない地獄から救い出してください。
リリーを宇田家から連れ出した影刀は、彼女を横抱きにしたまま車を降りた。
到着したのは朝廷。神を祀る場所でもある。
玉砂利も、朱色の建物も神聖なぴりりとした空気感だ。出入りするのも管理するのもすべて神人。あちらこちらに五色の紐が鈴とともに庭を彩る。結界が張り巡らされているのだ。侵入者があれば鈴が反応し、影刀たち武官が対処する。
腕に抱いたリリーを見た武官は「帝がお待ちです」と影刀を通した。
リリーの長い金髪は影刀が歩むたび、ふわふわゆれる。瞳は閉じさせたので眠っているように見える。
影刀は勝手知ったる様子で赤い敷物が敷かれた長い廊下を歩く。
御簾の中からこちらを伺う無数の視線。ヒソヒソ声を無視し、影刀はようやくひときわ大きな御簾の前に立った。
帝の側仕えがスルスルと御簾を上げる。くぐれば、しんと静かで、広々とした空間が広がっていた。
物はなにもない。真正面に帝がおわす御簾があるだけだ。敷き詰められた青畳のい草の香りが、場の緊張感を煽る。
影刀は慣れているのだろう、そのまま堂々と御簾の前に座った。すかさず、側仕えが気を利かせて座椅子を運んでくる。本来なら椅子を使うなど無礼だが、リリーの状態を気遣ってのことだ。
リリーと並んで座り、影刀はようやく口を開いた。
「宇田リリーを連れてまいりました。御前で椅子を使う無礼をお許しください」
すると、御簾の向こうから「皆さがれ」と若い男の声が響いた。
側女たちが去ってゆく。御簾が降ろされ、帝と影刀、リリーの三人だけとなった。
帝の御簾がゆれる。
あろうことか、帝は立ち上がり、自らリリーに歩み寄ってきた。
歳の頃は影刀と同じ十九といったところか。顔は美青年と呼ぶにふさわしく整っており、髪は下げ角髪、目尻には朱色の化粧を施している。
人懐っこい笑みと茶目っ気がある男だ。御簾を通さぬあたり、なんでも自分でやりたがる性格らしい。
「この娘がリリーか?」
「はっ」
影刀は平頭して応えた。帝が御簾を出ても動揺しない。
「朕に感謝いたせよ、影刀。ぬしに合う神人を朕の『千里眼』で国中ひっくり返して探したのだからな」
「あなたが俺の嫁探しにそこまで本気だとは思いませんでしたよ」
目を平べったくして影刀は言った。影刀と帝は幼馴染だった。
「何を言う。生まれつき心臓の弱い、友の命に関わることだ。必死にもなるさ」
言いながら、帝はリリーの前に膝を折る。リリーは手足を投げ出し、首は上を向いていた。
「ひどい状態だが、病院に行く前に、先に『縁』を結ぶぞ。お前の心臓が持つかわからぬからな」
「その娘も俺と同じく心臓が悪いとか。病人の心臓を、しかもいたいけな娘から借りる俺の身にもなってください」
「お前はその異能ゆえに異能の治療が効かぬ。気になるならば夫婦になって責任を取ればよい」
帝は自らリリーを抱き上げた。しげしげと娘を見つめ、
「かわいい顔をしておるな」
「俺の婚約者です。俺が運びます」
「これから向かうは神前ぞ。朕しか入れぬ。はははっ」
帝は友をからかうと、さっさと影刀がきたのとはちがう御簾をくぐっていった。
影刀は密かに苦い顔をする。本人は無自覚だが、出会って数時間のこの娘を気に入ってしまったらしい。
「すまない」
影刀は小走りで後を追った。
岩倉 影刀は、生まれつき心臓が悪かった。相手の寿命が見える異能者には、二十歳の誕生日を迎えたら死ぬと言われていた。
予言通り、十九となった今では、異能もうまく発動できなくなっていた。
影刀はその性格と身分ゆえに敵が多い。急がねばならなかった。
帝が部下総出で文献を調べさせたところ、『心臓の鼓動が共鳴する女』を嫁にし、その心臓を借りて生きながらえる事ができると出てきた。
相手の了承を得ずに婚約を結んだことを、影刀は嫌がったが、帝を始め両親含め部下たちも泣いて喜んだ。
(リリーの実家での扱いを見る限り、連れ出してよかったと今では思う。・・・俺の異能が使えれば、さっさと『神人病』なぞ治してやれるのに・・・)
帝のあとに続き、影刀は長い廊下を歩いた。帝はうきうきとしている。友の結婚が嬉しくて仕方ないようだった。
やがて、廊下はなくなり、玉砂利へと降りる。神を祀る神殿が目に入った。
葺き替えたばかりの屋根。真新しい木の香りが心地よい。米と水、塩が供えられ、真榊が風に揺れている。
異能を作り出したこの国の大神が祀られているのだ。
あちらこちらに似た建物がある。
人はおらず、肌に痛いピリリとした空気だ。
帝はリリーを抱き上げると、階段を登り、建物の中へと消えた。
リリーは神人だが、朝廷につかえる者のように神に神拝が済んでいない。
「大神の御前にて、かしこみかしこみももうす」
帝の祝詞をあげる声が聞こえてくる。影刀は静かに玉砂利に正座して待っていた。
やがて、祝詞が終わった。
帝はリリーを連れて、階段を降りる。小刀を手に影刀の下へと来る。
「互いの髪を切って、小指に結べ」
言われるがまま、影刀は髪を切った。
影刀の髪をリリーに。
リリーの髪を影刀に。
結んだ金色の髪。帝は二人の両手を包み込む。すると髪は青、赤、黄、白、紫の五色の組紐へと変貌した。
しゅるしゅると音を立て、互いの体に巻き付くと、心臓へと吸い込まれてゆく。
「これで二人は一心同体。生きるも死ぬも一緒。縁結びはこれで終了だ。・・・どうだ、心臓は。鼓動を感じるか?」
「――」
影刀は心臓へ意識を集中させる。すると、少女の、トクン・・・トクン・・・と可愛らしい鼓動が影刀の胸に響いてきた。
「おお、顔色が良くなったな!」
帝は、ぱあっと喜ぶ。影刀は、はにかんだ。
「これで、まだまだこの国に尽くせそうです。――妻と一緒に」
だが、その時だった。
「ゔ」
苦悶の声。我慢強い影刀が、苦しみ始めた。帝は狼狽する。
「どうした!? 心臓が合わなかったか!?」
「いや・・・」
影刀は右腕を抑えた。
「無数の針のようなものが、体中を回っています。――それと、肺が苦しい。・・・これは、首を絞められているのか?」
男二人、同時にリリーへ視線を向けた。この小さな身体の中で、一体何がおこっているのか。
帝はリリーの右腕の袖をまくる。ひゅっと息を呑んだ。
無数の針が、血管に刺さっていた。
悪意のあるそれは雑に刺されている。鍼灸などの医者のしわざではない。
「誰がこんなことをっ!?」
影刀は肺を抑えた。このままでは死んでしまう。それほどに酸素が少ない。
帝が医者を呼ぶ声がする。影刀はリリーの頭に触れると、異能を使い始めた。
「『異能力無効化』を使うのか?」
「はい。帝は離れていてください!!」
影刀はリリーを膝に抱くと、その額を、大きな手で覆う。
織物が広がるように、黄金の光が影刀の手からほとばしる。
「これは・・・! 以前より能力が上がったのではないか?」
帝は目を見開いた。帝の千里眼は、頭の中の出来事も見える。
そして、つぶやいた。
「誰かいる。・・・頭の中に」
とうとう男に捕まったリリーは、首を絞められながら、心が死んでゆくのを感じていた。
――精神崩壊。これでもう、本当の『生き人形』になってしまうのだ。
助けを求めたくとも、
(そういえば、私を助けてくれる人は、小さい頃からいなかったなあ・・・)
過去が走馬灯のようによみがえる。
父も、母も、妹も。家族と呼べる存在はいなかった。
体中が痛い。リリーには外の状況もわかっていた。
(綾子まで、私を殺そうとしたわ)
ぽろりと涙がこぼれる。
男は不意に拘束を緩めると、その涙を舐め取ろうとした。――その時だった。
「見つけた。――俺の花嫁」
漆黒のブーツが、凄まじい勢いで、書生の口の中に突っ込まれた。
「貴様は靴のうらでも舐めていろ」
いうが早いか、そのまま男は、書生を草原の彼方へ蹴り飛ばした。
「・・・っ?」
リリーはゆっくりと体を起こした。状況が飲み込めず、黒いコートへ視線を移す。
(だれ・・・?)
眼帯をしているゆえ、表情が読み取れない。軍服の男は力強い腕でリリーを肩に抱き上げる。リリーは弱々しく暴れた。
「は、離してください・・・」
「悪いが、戦闘中だ。それに、あなたとは夫婦になった。嫁となった以上、あなたはもう俺のものだ」
「は? めおと・・・?」
リリーはもう考えることを放棄した。ぐったりと男の首に手を回し、抱きつくと、気を失った。
カチッ!
現実世界の懐中時計が音を立てた。
途端に世界はループし、もとのひだまりの縁側へと戻った。桜が咲く、リリーが何度も殺された、あの縁側へ。
影刀はざっとあたりを見渡す。リリーは再び目を覚まし、悲鳴を上げると、影刀の首に抱きついた。
(体中をまわる針。何度も殺しに来る変質者。・・・俺がもっと早く迎えに来ていたら)
すると部屋の奥からぬらりと男が現れた。
着物に袴をはいている。書生だ。
顔は鼻から上がなかった。髪も、目も、透明なのだ。
「リリーさん。あいつは何者ですか?」
リリーは首をふる。知らないらしい。
「そうか。ならば消しても問題ない!」
影刀は男の頭を鷲掴むと、思い切り首を胴体からむしり取った。
男の断末魔が耳をつく。
粉々になってゆく体と頭。リリーは見ようとして、両目を塞がれた。
「見るな。・・・これ以上、怖い思いをすることはない」
片手でリリーの小さな瞳を包み込む。その優しさに、リリーは心臓がトクンとはねた。
リリーはまだ知らない。リリーの体と影刀の体がつながっていることに。
影刀は男の首を長い脚で踏み、粉微塵にした。
それから、空へ向かって異能の金色の光を手のひらから発射した。
リリーを閉じ込めていた世界が崩壊していく。異能のかけらが金粉のようにひらひらと降ってくる。
「あなたを半年間苦しめていた神人病はこれで終わる」
「はんとし? たった半年だったの・・・」
リリーは何度も同じ世界をループしていた。体内時計が狂うのも無理はない。
「リリーさん。あなたは『時を止める』神人だ。異能が暴走し、『神人病』にかかった弱みに付け込んで何者かがあなたの頭に侵入したんでしょう。」
「あの。『めおと』っておっしゃったけれど」
「現実世界へ帰ってから、治療を受けましょう。話はそれからに」
影刀は微笑んだ。なにがなんだか。いまいちついていけないリリーは、男にすべてゆだねた。
この人ならきっと、信用できると。
なぜだか、そう思ったのだ。
「影刀、影刀! 無事か!?」
じっとして微動だにしなかった影刀は、ゆっくりと体をおこし、リリーの額から手を離した。
「リリーの異能を一時的に破壊しました。これで、神人病は根治しましたが・・・」
帝は頷く。
「わかっておる。手術の準備はできた。針を取り出さねば、二人共死んでしまうからな、早く移動するぞ」
「う・・・」
リリーが初めて声を上げた。心臓をおさえて、苦しんでいる。
いつの間にか、周りは人だらけになっていた。医療関係者たちだ。影刀はそのうちの一人に、「おい」と声を掛ける。
「リリーの痛みを、俺が引き受けることはできるか?」
「で、できますが。本気ですか?」
「当たり前だ。俺の妻が苦しんでいる。夫として当然だ」
帝は「おおっ」と面白そうに友を見やる。
「早くしろ」と命じられた看護師は異能を発動させる。影刀は二人分の痛みに汗が吹き出す。しかしけほどもそれを悟られぬようにさっと立ち上がった。リリーを抱き上げると、帝を押しのけ医療施設へと向かう。
リリーのまぶたが薄く開く。痛みを感じない今、彼女は夢見心地で自らを抱く男の顔を、しげしげと見上げた。
神人病の間、何度も男に口づけをされた。男性不信になってもおかしくない。だがこの人に何をされても、不思議と不快感がない。
――この方が、『旦那さま』?
リリーのふわふわした頭はうまく回らない。知らない人がみんなリリーを見つめ、心配そうな顔をしてくれている。
(助かった、のかしら・・・?)
少なくとも実家ではない。何があったのか把握したい。
しかし別の医療関係者がリリーを眠らせてしまった。
手術着に着替え、影刀は手術室にいた。
御簾に押し込められた帝は千里眼で様子を見守る。
影刀は的確に針の場所を言い当てていった。医者の中にも千里眼の神人はいる。帝には負けるが、優秀な外科医だ。
それでもはやく終わらせたい影刀は、テキパキと場所を教え続ける。
――その場にいたもの全員に 戦慄が走った。
一本の針が心臓のすぐ近くまで迫っていた。あと数分遅かったら命はなかっただろう。
痛みに耐え、すべての針を取り除いて、ようやく影刀はじめ皆安堵した。
「恐ろしいことです」
執刀医は手袋をはずし、汗を拭うと、手術室から出た。別室で影刀に椅子に座るよう促す。
影刀は表情こそ変わらないが、じっくりと汗をかいていた。武官で痛みに慣れているとはいえ、これはたちが悪すぎる。
「私は医者ですが、怒りが込み上げました。あまりに卑劣な行為だ」
「――ああ」
影刀は取り出された血まみれの針へ視線をぶつけた。異能で作られた針だ。影刀が触れば消えてしまうのでさわれないが、重要な証拠物件だ。
影刀はリリーが横たわるベッドへ向かった。
看護師が言う。
「リリーさまは精神崩壊の一歩手前までいきました。日常生活にも支障が出ると判断した主治医が一部記憶を消しました。お許しを」
「俺のことは覚えていないのか?」
「そこは消しておりませんよ。すべてを消すのはリリーさまの本意ではないでしょうし」
看護師は眉をひそめた。
「女性として言わせていただくと、見知らぬ男に口づけされて平気なものはおりません。旦那さまである岩倉さまの手で、癒やして差し上げてください」
「そのつもりだ」
すると病室のドアが開いた。
「岩倉さま。ご報告があります」
「青田か。なにか掴めたか?」
「リリーさまは心臓が悪いと妹の綾子が言っていましたが、両親を尋問すると『そんなことはない』と否定しました」
「なぜ、妹は嘘をついたのだろうな?」
帝の声。見れば、お忍びの服を着てドアを開ける男が立っていた。みずらではなく、髪を一括りにしている。
帝の顔を知らない青田は影刀のげんなりとした表情に首を傾げたが、話はそのまま進んでいった。
「使用人の話では、姉妹仲は悪かったようです。妹のほうが一方的にリリー様に食って掛かっていましたが、返り討ちにあっていたとか」
湯呑みを顔に浴びせようとしたり、バケツの水をかけようとしたり。しかしリリーは時を止める異能を持っている。避けるなど簡単なことだった。
「そのたび母親に泣きつき、母親はいつも綾子の味方をしていたそうです。おいたわしいリリー様。実家ではあまりいい環境にいたとは言えませんな」
「――綾子の異能は何だ」
「『見たものを複製する』能力です。この針も、一本は本物で、他七本は異能で作られたものでした」
「もうほとんど決まりだな」
帝が言う。影刀は「急ぎすぎです」と首を振った。
「綾子を徹底的に尋問したほうがいいでしょう。慎重に調査せねば、リリーが妹を失くすことになります」
影刀は部下へ、綾子を尋問するよう命じた。
すると、か細い声がした。リリーだ。
「私に針を打ったのは妹の綾子です」
「リリーさま。お目覚めですか!」
看護師は驚いた様子だ。「麻酔が切れるのが早いわね・・・」と独り言ち、主治医を呼びに行く。
リリーの宝石のような瞳はうるんでいた。
「よほど私が憎かったのでしょう。・・・いつも大目に見ていましたが、殺されそうになって目が覚めました。尋問は必要ありません。私が証言します」
ただ、とリリーは続けた。
「軽い罪で見逃してあげてください。こうなってしまいましたが、あれでも妹は妹。もっとも、私は家族とは認められないでしょうが、お咎めは軽くお願いします」
「それはだめだ」
影刀の鋭い声がした。帝の声も混じっている。その場にいる青田も首を振った。全員に殺気がこもっている。リリーは体を小さくする。
「なぜ・・・?」
「俺の婚約者が殺されそうになったから、というのもあるが、この国の法は絶対だ。例外はない」
影刀に続き、青田も口を開く。
「事件に至った動機も、かなりバカバカしい。男を取り合って実の姉に手を下すなど言語道断。しかも、やり口も陰湿だ。重罪はまぬがれません」
帝は壁によりかかり、「うんうん」とうなずいている。
「でも、私帰る場所がなくなります」
リリーはぽろぽろ涙をこぼした。神人病の頃とは打って変わって人間らしい表情だ。影刀は密かに胸を打たれた。婚約者を泣かせたくはない。
――泣かせたくはないが・・・・。
「あなたの帰る家は、他にある」
「え」
「俺の家だ」
リリーはきょとんとした。それから、意味がじわじわわかってきたのか、顔を真赤にした。
「私は初耳です」
「そうだぞ影刀。女人には順を追って伝えねば通じぬ」
帝が割って入ってきた。影刀は眉間にシワを寄せるが、
「はっきり言う他ないでしょう。・・・リリーさん。俺とあなたの心臓は神の糸で結ばれている。一心同体。あなたは俺の婚約者になった」
「そこは『運命の赤い糸』とでも言えばよいだろうに」
帝がかき乱す。青田は上司の初めて見る顔に目を泳がせる。完全にカオスとなった部屋に割って入ったのは、主治医だった。
「術後にこの人数で押しかける人たちは初めてだ。さっさと出ていきなさい。面会は終了です」
主治医はぐいぐいと男たちの背中を押す。さすがの武官たちも医者には負ける。全員ぞろぞろと出ていった。
主治医は「リリーさんは明日退院していいからね」と聴診器を胸に当てる。リリーは目を見開いた。
「は? 明日・・・?」
「ここはただの病院じゃない。異能を使ってあなたを治療しました。もう根治しています。明日、婚約者の方が迎えに来るでしょうから、そのつもりで」
「でも、わたし心の準備が」
リリーは言葉を最後まで紡げなかった。眠りの異能を使われたからだ。
「睡眠が足りてないからね。しっかり寝るように」
リリーはこてんと眠らされた。やがて、おだやかな寝息が聞こえてくる。
主治医がドアを開けると、影刀が壁によりかかり待っていた。
「面会謝絶と申し上げたはずですよ?」
「面会はしない。ここで侵入者が来ないか見張っても?」
「廊下なら構いませんが・・・。消灯時間なので電気を消しますよ。それでもいいならどうぞ」
影刀は近場の椅子にドサッと座る。
頭の中は、リリーの泣き顔でいっぱいだった。
リリーの頭の中にいた男の正体を尋問するため、青田は部下数名を連れて地下牢の階段を降りていた。
連れているのは、ほとんどが女性の武官だ。
階段を降りた先には鉄格子が待っていた。ガシャンと鍵を開ける音がする。自動で開いた鉄格子の先にいたのは、冷たい木の椅子に座らせられ両手を机の手錠に掛けられた綾子だった。
「両親は別の監獄にいる。容疑者は貴様だ、宇田綾子」
青田は冷たい声色で事務的に告げる。女性武官たちはテキパキとなにかの準備を始めていた。
「ふんっ! 何よ、拷問でもする気?」
「その通りだ」
「なんですって!?」
綾子は息を呑む。美しい振り袖はところどころ敗れ、髪はボサボサだった。
「貴様は武官に色目を使って手加減してもらったそうじゃないか。奴らは全員処罰を受けた。ここにいるのは皆女性だ。色目は通じんぞ」
「それは私のお顔がかわいかっただけよ!」
青田はため息を付く。
「どうでもいいことだ。――始めるぞ」
綾子の正面に座った女性武官はうなずく。綾子の前に、針をギラリと光らせた。
「正直に答えろ、宇田綾子。さもなくば爪の間にあの針を差し込むぞ」
「い、嫌よっ! 私はやってない。お姉様の腕になんか刺してないわ!」
「・・・誰も腕とは言ってないのだがな」
青田はため息を付いた。どうやらあまり賢くない娘らしい。
綾子はまくしたてる。
「なによ、朝廷も影刀さんも主上も、みんなあの女の味方をして! いたずら半分でやっただけよ、本当に死んでほしいとは思ってなかったわ!」
「嘘をつくな」
青田は聞き捨てならないと片眉がはねた。
「いたずらで血管に刺すものがあるか。針は心臓付近まで達していた。一足遅ければ、リリー様はお命も危うかったのだぞ」
「それは残念ね!」
とうとう綾子は認めた。・・・だが、その場にいる全員が静かな怒りを隠しきれなかった。
「まったく反省してないな。――思い知らせてやれ」
その言葉に頷くと、女性武官は綾子の人差し指を強引に掴んだ。
綾子の絶叫がほとばしる。
気を失った。
だが聞くことはある。
水をかけられ、目を覚ました綾子は、自分の爪の間に針が刺さっているのを見てゾッとした。
「や、やめてぇっ!! さわらないで!」
「やめてほしければ正直に答えることだ。――リリー様が神人病にかかっていた間、脳内に侵入し精神崩壊させようとした者がいる。手引したのはお前か?」
「は? 頭の中? 知らないわよそんなの」
青田はドンと机に手を置き、凄む。
「また痛い思いをしたいのか? 正直に言えと言っているだろう!!」
怒鳴られ、綾子はついに泣き出した。
「私じゃない、私じゃないってばぁ・・・!! 信じてよ・・・!!」
父と母の名を呼ぶが、生憎と別の独房だ。
青田は隣の武官に「どうだ、嘘をついているか?」と訪ねた。この武官は心が読める異能の持ち主だ。彼女は首を振った。
「嘘はありません。ほんとうに知らないようです」
青田は「そうか」とため息をつく。すると、地を這うような女の禍々しい声が尋問の場に響いた。
「フフフッ。――お姉さまのせいだわ。家族がバラバラになったのも、私の美しい指に針を刺されたのも。すべてお姉さまのせいよ・・・!!」
綾子は青田と武官たちを、乱れた髪のまま、たっぷりと時間をかけて睨めつけた。
「覚悟あそばせ。私がここを出たら、真っ先にお前たちと姉を殺してあげるから!!」
青田は臆することなく娘を正面から見据える。
「まだ己の立場がわかっていないらしい。拷問を続けろ」
綾子の絶叫が、一晩中響き渡った。
いっぽう、高橋風馬は、自動車に乗って自宅を離れていた。
「リリー・・・。僕のリリーが穢される」
風馬は頭をかきむしった。
「あの男のせいだ。影刀とかいうあの男のせいで!!」
――リリー、待っていて。
「僕のもとへ、連れ戻してあげるからね」
目を開けたら、医者の顔があった。
「リリーさん。お目覚めですか?」
「はい」
リリーは寝ぼけた声で返事をした。久しぶりによく眠れた気がする。起き上がれば、倦怠感さえもなくなっていた。
「もう退院していいですよ。影刀さんが外でお待ちです」
「影刀さんが?」
「今日からあなたは婚約者の家で過ごすのですよ。ほら、あなたにプレゼントだそうです」
先生の手から、大きな紙袋を手渡される。
「ドレス・・・?」
「ええ。あなたに似合うと言っておられました。うらやましいですなあ、わしも妻に贈り物がしたくなりました」
それでは、と先生は去ってゆく。深々とお辞儀をしたリリーは、フリルの塊に目を丸くした。
さながら妖精のような菫色の豪奢なドレスだった。
裾に至るまで真珠が散りばめられている。白いバラが咲いたようなパニエを履けば、ふわりと夢のように菫色のスカートはふくらんだ。
ドロワーズにはリリーのイニシャルが金糸で刺繍されている。細かいところまでこだわってあるようだ。同じく菫色のレースのソックスや、薔薇のコサージュがついたヘッドドレスを見つけて、リリーは思わずほほ笑んだ。
(わたしなんかが着てもいいの・・・?)
実家では綾子のお下がりばかり着ていた。あたりを見渡すが、ほかに着る服はない。あのビロードのドレスは手術のときにハサミで切られてしまっていた。
勇気を出して三段フリルの袖に手を通せば、サイズはピッタリだ。
(いつの間に計ったのかしら)
内心疑問だったが、リリーは最後によいしょとソックスに取り掛かった。靴を履き、病室の鏡の前でくるりと回ってみる。風馬のドレスを着ていたあの頃のような陶人形の冷たさはなかった。さながら妖精のようである。
そっと病室のドアを開けると、影刀をはじめ、武官たちが集まっていた。
「岩倉さん! 可愛らしい奥様じゃないですか! 俺達には内緒にするんだから、もうっ!」
「始めて見ましたよ、こんな美しくて可愛い方がこの世におられるのですねぇ」
リリーは戸惑い、「影刀さま、これはいったい・・・?」と助けを求めた。
「あの方(帝)あたりが噂を流したんだろう。まったくアリみたいに集まってきた」
影刀は部下たちの好奇の目にリリーを晒せたくなかった。身長差のある夫は、人混みをかき分け、妻を抱き上げる。
途端に歓声が上がった。
「やかましいっ!! 早く持ち場に戻らねば減俸だぞ!!」
ゲッと武官たちは呻く。蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
「まったく。しょうがない連中だ」
「あの、影刀さま。降ろしてもらえませんか?」
「・・・車まではこのままで」
影刀はそう言うとリリーを片手で抱いて歩き始めた。リリーは首に手を回し、ドキドキする。その鼓動は影刀の心臓にもつながっているから、影刀は知らぬふりをするのに苦労した。
病院を出ると、やがて、黒塗りの車が見えてきた。
その助手席にリリーを乗せる。フリルの塊のような娘はスカートを必死にさばき、なんとか車に収まった。
影刀は運転席に乗り込む。
「・・・言い忘れていたが」
「はい?」
「よく似合っている。・・・そのドレス」
「っ!」
リリーは再び心臓が跳ねた。薔薇色の頬が染まる。か細い声で「ありがとう、ございます・・・」と絞り出した。
車が走り出す。リリーはおずおずと顔を上げ、影刀を見上げた。
「あの」
「どうしましたか?」
リリーは赤い唇を動かした。
「――旦那、さま」
「!」
影刀は急ブレーキを踏んだ。幸い、事故らずにすんだ。それほどまでに、ぐっと来るものがあった。
夫と呼ばれた男は、こぼれた前髪をかき上げた。
「・・・リリーさん。運転中にそういう言動は慎むように」
体が暑い。全身から湯気が出るようだ。
「ではなんとお呼びしたら?」
リリーは首を傾げる。影刀は投げやりになった。
「しらん。とにかく、今はダメだ」
ヨロヨロと、車は再び走り出したのだった。
岩倉家の屋敷は、呉服屋の宇田家より豪邸だった。黒ぐろとした大きな瓦屋根の建物がいくつもある。
実家に着いて冷静になったのか。影刀は、嫌そうな顔で、
「両親があなたを歓迎しようと待ち構えている。すまない、かなりしつこく絡んでくるだろから覚悟を決めておいてほしい」
「どんなお父様とお母様なのですか?」
「『極楽トンボ』とでもいうべきか。あの二人の惚気話なんぞ聞いたら胃に砂糖をぶっかけられたような気持ちになる」
言いながら、影刀はリリーのドアを開け、車から降ろす。影刀は180センチもある。手を取ってエスコートしてくれるのは嬉しいが、影刀を見上げるのに首が痛くなる。
やがて、若様の帰宅を悟った使用人たちがわらわら出てきた。
リリーの顔を見て、フリルたっぷりのドレスを見て、皆歓声を上げた。
「若様の婚約者はなんて可愛らしいのでしょう! お人形さんが歩いてるみたい」
「人形って言うな。褒め言葉だろうが、リリーが傷つく」
影刀は訂正したが、リリーは首を振った。
「ありがとうございます、旦那さま。でも大丈夫です。悪意がないことくらいわかります。それに私にドレスを着せたのは旦那さまですよ」
影刀はむうっと言葉に詰まった。やがて、着物が似合う黒髪の中年の男女が目にとまった。
(影刀さんのご両親ね)
リリーは身構える。しかし急に母親が出てきたかと思うと、リリーをむぎゅっと抱きしめた。
「あなたがリリーさんね! ありがとう、あなたのおかげで影刀は命を救われました!」
「う」
その勢いに返事が出ずにいると、父親まで一緒に抱きついてきた。
「どんな子かと思ったらこんなに可愛いなんて、パパきいてないぞ。このドレスは影刀が送ったのか? いい趣味してるじゃないか」
「むぐっ」
「父上も母上も、いい加減にしろ。俺の嫁が圧死する」
影刀は眉間にシワを寄せると、両親からリリーを引っこ抜いた。左腕に抱き上げられる。どうやらリリーの定位置らしい。
「なんだ、パパにも抱っこさせてくれないのか」
「誰がさせるか」
つれない息子は渋面する。
そのまま「ひとまず家の中で話そう」と影刀は婚約者を連れて行った。大人しく抱かれているリリーと、片時も手放さない息子。
両親は顔を見合わせると、豪快に笑ったのだった。
部屋の中は料亭のようだった。黒黒と光を反射する長テーブルが畳の上に置かれている。すでに料理は用意されていた。
「昼食はまだでしょう? 影刀に聞いたわよ、半年間何も口にしてないって。だから胃に優しいものをつくってみたの。お口に合うといいのだけれど」
母親――妙子がはじらいながらリリーの顔色を伺う。使用人に任せず、手作りと聞いて、リリーはぽっと胸が温かくなった。
(母親って、こういう感じなのかしら)
――まるで『生き人形』ね。せいせいしたわ。
リリーが神人病に倒れたその日。母の小百合は悲しむ様子すら見せなかった。
父も母も、もう半年間会っていない。今では遠い存在にすら思える。
リリーは席に案内され、おずおずとテーブルに並んだ料理の数々を眺める。
鶏ガラのおかゆ、茶碗蒸し、卵焼き、プリンなどなど。妙子の心がぎゅっと詰まっているようで、リリーは込み上げてくる涙を鼻をすすって耐えた。
影刀も同じものを食べるらしい。つき合せてしまったかと心配したが、「あなたが食べるものは俺も食べる」と返される。
一口、おかゆをレンゲですくい、小さな口に運ぶ。
「おいしい・・・」
思わずこぼした言葉に、妙子は手を叩いて喜ぶ。リリーは恐縮し、「ありがとうございます、えっと・・・」と言葉に詰まった。
「お義母さんと呼んでくれて構わないわよ。私はもう、娘だと思ってるから」
リリーははにかむ。薔薇色の頬は更に赤く色づいた。
おずおずと、「お義母さま」と言い直す。
父親の忠興はほほえましく娘を見つめていた。すかさず影刀に肘でこずかれる。
「俺の嫁です。あまりジロジロ見るな」
「僕の娘だよ。独占欲が強いのは岩倉家の伝統かねぇ」
すると、窓をコツコツと叩く音がした。
見れば、鳥の形をした白い折り紙がくちばしで窓をつついていた。
「失礼する」
影刀は立ち上がる。「こんなときまで仕事かい?」とため息を付く父親の横をすり抜け、外へ出た。駐車場の近くまでくれば、使用人はいない。
「青田か。なにか掴めたか?」
鳥の折り紙は、影刀の耳にくちばしを寄せる。
『綾子を拷問にかけましたが針で殺害しようとしたことしか供述しません。また、リリー様のもと婚約者の高橋風馬が行方不明です』
「行方不明? 見張りは何をしていた」
『お怒りはごもっとも。しかし見張りについていた者は全員眠らされていました。それも、神人病にかかって』
「なにっ!?」
影刀は大声を上げる。無理もない。神人病など滅多にかからない。
『リリー様と同じく目を開いたままです。影刀さま。早くお戻りを。あなたしか神人病を治せるものはおりません。これでは帝の御身も危うい。――・・・リリー様はどういたしますか?』
「もし下手人が高橋風馬ならリリーを一人にするのは危ういな」
風馬はリリーに異常な執着をしている。
影刀はしばしガラス越しに菫色の小さな背中を見つめると、「俺に考えがある」と言った。
夕日がどっぷりと沈んだ。
真っ暗な夜道を車は走る。
着いた先は『神人病院』だった。駐車場に車を止め、男――高橋風馬はドアを閉める。
その顔はたっぷりと湯悦に浸っている。
病院の鍵を異能で壊すと、革靴の音を響かせ、とある病室へと向かう。
病室の壁には患者の名前が書いてある。指で壁をなぞる。
やがて『宇田綾子』と書かれた個室を見つけた。あたりを警戒しながら、風馬は用心深く戸を開けた。
(綾子の名は偽装。本物のリリーはここにいる)
眼鏡を掛けた武官――青田にリリーをどこへやったかと尋問したら、病院だと応えた。治療が必要で、入院していると。妹の綾子の名を借りて。
案の定、やわらかな金髪の娘がベッドに眠っていた。
風馬はゆっくり歩み寄る。
(妙だな。見張りが一人もいない)
だが、その警戒心は娘の寝顔を見ると吹き飛んだ。
薔薇色の頬、赤い唇。風馬は我を忘れて口づけた。
――リリーは僕のものだ。誰にも渡さない・・・!!
刹那、病室に明かりが灯った。
娘は目を開く。その目は、金色ではなく・・・、
「黒、だと? 誰だ貴様は!」
「風馬さんっ! 助けに来てくれたのね!」
その声は綾子のものだった。明かりの下ではよく分かる。髪は金髪のかつらだった。
不意に、カシャンと手錠の音がした。
右手がベッドに拘束されていた。
「なにっ!?」
それを合図に、ドアから現れたのは、影刀と青田の二人だった。
影刀はふんと鼻を鳴らす。
「部下たちは神人病になってしまうからな、別室で待機している。――どうだ、双子の顔はそっくりだろう」
「夜中の病院にのこのこと現れるなど関心しませんね」
青田は眼鏡をかけ直す。
「お前たちの策略か・・・!」
風馬は奥歯をギリっと噛みしめる。影刀はおもむろに教えてやった。
「お前が尋問したこの青田の異能は、『異能力妨害』だ。他の連中の神人病は俺の異能で解いた。全員お前を逮捕しようと待ち構えているぞ」
「神人病を治しただと!? 本物のリリーはどこだ!?」
「私はここですよ」
今まで夫の影に隠れていたリリーが顔を出した。影刀はリリーを抱き上げる。
仲睦まじい二人の様子に、風馬は激怒した。
「貴様! 薄汚い手でリリーにさわるな!」
「薄汚いのはどっちだろうな」
「風馬さん、やっと口づけしてくださったのですね・・・!」
綾子は感動に浸っていた。風馬は怒りもそのままに、やつあたりのように綾子の頬を殴った。
「君を愛したことはない。君のせいで唇が汚れてしまったじゃないか!」
「そんな、ひどい。ひどすぎるわ!」
綾子は殴られた頬を抑える。それを無視して、リリーは口を開いた。
「旦那様、降ろしてください」
影刀は不満げだったが、妻の心を汲み取った。
「風馬さん。私を何度も殺した人。――あのね、わたし、怒ってるの」
ふと、リリーを包む空気が一変した。
黄金の輝きが湧き水のように、フリルに彩られた足元から次々と湧いてくる。
「あなたに首をしめられて、苦しかったわ。痛かったわ。――綾子、あなたもよ」
――わたしがなにも知らないと思って?
姉にそう告げられ、綾子は震えが走った。
「ちがう、違うのっ! お姉さま、わたし別に殺そうとなんかしてないわ!」
「リリー様。昨晩の尋問で『殺意はあった』と供述しております」
青田がさり気なく言う。
リリーの怒りはさらに増した。
姉は懐中時計を取り出す。見慣れたそれは、綾子を震え上がらせた。
「お姉様! それは使わないで!」
「――離まで聞こえていたわよ。使用人の人たちに随分な仕打ちをしていたわね。私の体もアザだらけ。よくもまあ、さんざん蹴ってくれたわね、綾子」
「ち、ちがうのっ!」
「なにがちがう?」
リリーは容赦なく告げた。
「妹の『教育』は姉のつとめ。動けない体を痛めつけられるつらさを、味わうがいいわ」
カチッ!
時が止まる。影刀以外、全員動かなくなった。
リリーは夫を見上げると、「旦那さまは見ないでください」と言った。影刀はその異能により動けるのだ。
「俺は気にしないがな」
影刀は渋々後ろを向く。
それを確認すると、リリーは綾子の襟を掴んだ。容赦なく、拳で頬を殴った。
綾子は倒れる。形の良い鼻は曲がり、鼻血が出ていた。
その髪を鷲掴むと、リリーは洗面台まで引きずっていく。
洗面台には水が溜まっていた。
リリーは綾子の顔を水に突っ込み、――カチッと時は動き出す。
綾子は目が冷めた。酸素のない水の中だ。
(息ができない!)
綾子は死に物狂いでじたばたと暴れる。だが頭を掴まれているから抵抗できない。
暴れるほど、美しかった髪の毛は抜けていく。
やがてぐったりし始めると、ようやくリリーは妹を水中から引き上げた。
激しく咳き込む綾子。リリーはまだ髪を掴んでいる。洗面台の鏡に映し、「見なさい」と耳元で囁く。
「沢山の人を傷つけた悪魔の顔よ。でもそれにしてはぼろぼろね」
「うゔ」
「人殺しの成れの果て。そう思わない?」
鏡に映るその髪はびしょ濡れで、鼻は曲がり、血走った眼は妖怪のようだった。
「・・・っ! この女ぁ!!」
「女? その口の聞き方は何?」
リリーは再び洗面台に顔を突っ込む。暴れまわる綾子は、とうとう髪がちぎれるのも構わず逃げ出した。風馬の足にすがりつく。
「・・・なんの用だ」
「たすけて、風馬さん! お姉さまに殺される!」
風馬は眉間にシワを寄せる。影刀はもういいだろうと振り向いた。
「なぜ僕に助けを求める?」
「私の『王子様』でしょう!? お姉様の婚約者だったのは全部間違いよ! あなたは私の婚約者。だから助けて!」
風馬は吹き出した。その場にいた全員が風馬を見つめる。
風馬は腹を抱えて笑っていた。涙までこぼれるほど。やがて風馬は別人のような声色で言い放った。
「僕はリリーの前でさえ王子様だったことはない。――もうお前はいい。お前たち武官も。目障りだ」
――消えろ!
風馬は病室にいるものすべてに向かって『神人病』の異能を使う。しかし、影刀は慌てることなく手をかざした。
『異能力無効化』を発動させたのだ。
黄金の輝きはリリーを始め青田を包み込み守護する。守護から外れた綾子は風馬の異能に当たりその場に倒れた。
綾子は、『陶人形』のような顔をしていた。
風馬はいつまでも倒れない影刀やリリー、青田を見て舌打ちする。
「なぜ効かない!?」
青田は眼鏡をかけ直す。
「申し上げたはずです。我々は神人。あなたは国宝。そもそも異能の格が違う」
「ならばこれならどうだっ!」
風馬は影刀へ銃口を向けた。隠し持っていたものだ。
間髪入れずに発泡する。
銀の弾丸は、ピタリと影刀の眼前、空中で止まった。
リリーの『時を止める』異能だ。
影刀は『異能力無効化』で動けるが、青田や綾子、風馬は静止したままだ。
三発もの弾丸を、リリーは掴む。そして、くるりと反対方向へ、風馬の方へ向けた。
「風馬さん。私、――あなたのことが大嫌い!」
懐中時計がカチッと音を立てる。
弾丸は逆方向へ打たれた。影刀へ撃ったはずのそれは、風馬の右肺を貫いた。
「なん、だと・・・!?」
風馬は血を流しながら倒れた。
影刀は歩み寄ると、「これがリリーの能力だ」と見下ろした。
「リリーを甘く見過ぎだ。怒らせれば俺より怖いぞ」
風馬は呼吸が浅い。
片肺を潰された。首が絞まったように息が苦しいのだろう。
それでも力を振り絞り呻く。
「何が神人だ!」
風馬の異能は『異能を暴走させること』だった。
神人同士の間に生まれた風馬だったが、異能は神人病をつくることだけだった。
「両親から『神人のなり損ない』と蔑まれ、それでも努力して神人でさえも病にかけられたというのに!」
影刀は無視すると待機させておいた部下たちを呼ぶ。風馬が異能を使えぬよう、頭を鷲掴みにしていた。
「リリー、僕は諦めない。君を殺して僕も死ぬ。道連れにしてやる!」
「妻の名を気安く呼ぶな!」
影刀は間髪入れずに風馬の顔を殴った。
渾身の力だったのか。風馬の前歯が床に吹っ飛ぶ。顎が外れていた。
風馬は完全に気を失った。白目をむく。
「すまん。私情をはさんだ」
影刀は眼帯をつけ直す。
「お見事です。リリー様」
青田は拍手する。
風馬は武官から影刀お手製の『異能封じの札』を貼られる。
『生き人形』のような顔で倒れた綾子も連れ出された。
影刀はリリーを見つめる。
リリーは背筋をぴんと伸ばして立っていた。
妻はそっと夫の手を握る。それにすべてが込められている気がして、影刀はぎゅっと握り返した。




