【ようこそ】2022年4月10日 礼拝メッセージ
初めまして、天川裕司です。
ここではシリーズでやってます『夢時代』と『思記』の原稿を投稿して居ります。
また、YouTubeドラマ用に仕上げたシナリオ等も別枠で投稿して行きます。
どうぞよろしくお願い致します。
少しでも楽しんで頂き、読んだ方の心の糧になれば幸いです。
サクッと読める幻想小説です(^^♪
お暇な時にでもぜひどうぞ♬
【アメーバブログ】
https://blog.ameba.jp/ucs/top.do
【男山教会ホームページ】
https://otokoyamakyoukai.jimdofree.com/
【YouTube】(不思議のパルプンテ)
https://www.youtube.com/@user-vh3fk4nl7i/videos
【ノート】
https://note.com/unique_panda3782
【YouTubeドラマにつきまして】
無課金でやっておりますので、これで精一杯…と言うところもあり、
お見苦しい点はすみません。 なので音声も無しです(BGMのみ)。
基本的に【ライトノベル感覚のイメージストーリー】です。
創造力・空想力・独創力を思いっきり働かせて見て頂けると嬉しいです(^^♪
出来れば心の声で聴いて頂けると幸いです♬
でもこの条件から出来るだけ面白く工夫してみようと思ってますので、
どうぞよろしくお願いします(^^♪
※過去の記事を再アップしております。
【本日のメッセージ】
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=fT6p03fC9tg&feature=youtu.be
【ブログ】
https://ameblo.jp/yujiteiou/entry-12737406568.html
(ブログを見てくださると聖書を閲覧できます)
子ども説教 主題と暗唱聖句
イエスさまは、十字架につけられ、ご自身の体をわたしたちの身代わりの死をなしとげられた三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
マタイによる福音書27章46節
前奏
招詞 ローマの信徒への手紙6章8~11節
詩 編 歌 100番(2節)
開 会 祈祷
主 の 祈り
十 戒
子ども説教
マタイによる福音書27章46節
こどもさんびか
いばらのかんむりかぶせられ[改83(2節)]
牧 会 祈祷
聖書
イザヤ書53章6~10節(旧P1150)
マタイによる福音書27章3~10節(新P56)
説教
「自らを償いの献げ物とした方
~はかりしれない罪の代価を覚えつつ」
宮武輝彦
祈 祷
讃 美 歌 259番(1節)
みことばの交読文
ヨハネ一 1章5~9節
感謝のささげもの・祈祷
頌 栄 546番
祝 祷
執り成しの祈祷
報 告
讃美歌~♬
讃 美 歌 259番
https://www.youtube.com/watch?v=Wh9dDUP97S0
1
天なる主イエスの こよなき愛は、
かよわき心の 隠れ家なれや。
責めと恥との 十字架を偲び、
わが罪咎をば あがない給う。
2
恵みに背ける 我をもすてず、
主イエスは血汐の 功によりて、
この身の汚れ ことごと潔め、
つきせぬ生命と 安きをたまう。
3
あおぐも畏き、 わが主の前に
燃立つばかりの 愛もてつかえ、
うきも悩みも み旨にゆだね、
天なるつかいと 共にぞ歌わん。
4
十字架の恵みに 喜びあふれ、
涙にむせびて み許にはべり、
世に勝ちませる 主イエスを称え、
輝くみさかえ 仰がせたまえ
2022年4月10日 礼拝説教 中心聖句
病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ 彼は自らを償いの献げ物とした。…主の望まれることは、彼の手によって成し遂げられる。
イザヤ書53章10節
そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、…「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。
マタイ福音書27章4節
はじめに
主の恵みによって受難週を迎えた。苦難の僕の見た御業を共に信じたい。
1
「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ」とは、「わたしたちの病」(イザヤ書53章4節)を負ってくださったゆえに「病に苦しむ」一人の僕を「打ち砕く」ことを主の御意志であることを預言する。十字架の上にかけられた主イエスこそ、この僕。わたしたちはこの御方のもとに、わたしたちの病苦の癒やしのみならず、それがために打ちひしがれるときにも、共におられる「主」のもとに新たな力を得る。ゲツセマネの園で主イエスは、「ひどく恐れてもだえ始め」「死ぬばかりに悲しい」と三人の弟子に言われながら、「少し進んで行って地面にひれ伏し」「できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと」祈られた(マルコ14章33~35節)。
2
「彼は自らを償いの献げ物とした」とは、「わたしたちの背き」「わたしたちの咎」(イザヤ書53章5節)ために「刺し貫かれた」僕は、「自ら(その体とたましいと命)」を、「背き」と「咎」を償う「献げ物(犠牲)」とされたこと。わたしたちが、主イエスの献身を「わたしたちの償い(償罪、贖罪)」と信じるとき、わたしたちは、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げる」(ローマ12章1節)献身へと召し出される。それは、自らを償う献身でなく、罪償われ、罪から解放された者として、神の御前に、「罪の奴隷であったときには、義に対しては自由の身」であった者が、今や「義の奴隷(僕)」とされて、「聖なる生活」をささげること(ローマ6章19,20節)。「魂は、聖なる福音、すなわち、キリストによって説教された神のことばのほかには、自らが生き、義であり、自由であり、キリスト者であるようにするいかなるものも、天においても、地においても持っていない」(ルター『キリスト者の自由』)。ただ、一度、十字架の死を死なれ、三日目に復活された、主イエスのもとに来るとき、わたしたちは、自らを罪を主人とする束縛から解放され、生ける神のみを主人とする僕(本当の仕え人)とされる。
3
「彼は、子孫が末長く続くのを見る」とは、イエス・キリストの償いが、神の契約の祝福を満たすものであることを明らかにする。アブラハムとその子孫に立てられた主の契約において、「わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように」(創世記12章2節)、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい」「あなたの子孫はこのようになる」(創世記15章5節)と告げられたとおりに。じつに、「主の望まれることは 彼の手によって成し遂げられる」。「彼の手」とは、僕の支配と導き。主イエスは、悪魔をもその支配下におかれ、イスカリオテのユダの裏切りを許容された。そこで支払われた「血の代価」は「銀貨三十枚」であった。ユダの自死は、祭司長たちや長老たちの追放の言葉をもって葬られた死であり、「イスラエルの子らが値踏した者の価」との主の言葉(ゼカリヤ11章12,13節)を証するものとなった。それは、ユダの死において、不法と背信の罪ゆえの「神の民の離反」が、金銭的代価に矮小化されてしるされたもの。
おわりに
今や恵みの時、金や銀ではなく、神の知恵とその実現である「キリストの計り知れない富」(エフェソ3章8節)について福音をすべての人に告げ知らせたい。
〈Mynote〉
〈子供メッセージ〉
『マタイによる福音書』(第二七章四六節)
イエス様が罪人の為に十字架に付けられた。
イエス様は言葉に於いても心に於いても行動に於いても、全く罪の無い人だった。では何故そのイエス様が十字架に付けられなければならなかったのか?それは先ず「イエス様を殺したい」とする人々が大勢居たからである。その切っ掛けを作ったのが、十二弟子の一人・ユダとされて居る。イエス様の死は我々罪人の為の身代わりの死だった。本当は罪人である我々人間が死なねばならなかった。それと神様の御心が成就する為である。
この時イエス様は「エリ、エリ、サバクタニ」と叫ばれた。この意味は「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」である。イエス様のこの言葉はどう言う意味だったのか?人間としての最期の叫びだったのか?人間の弱さが表れたのか?まさかと思う。でもイエス様は我々と同じ人間としてお生まれになった。この意味が(イエス様がこう言われた事が)未だ解らない俺である。
再臨は、復活の主イエスが(人間である)この体に現れる為にある。
〈主日礼拝メッセージ〉
『イザヤ書』(第五三章六節から一〇節)
『マタイによる福音書』(第二七章三節から一〇節)
聖書で言う「病」とは、全ての人が持って居る霊的な病の事を指して居る。この霊的な病をイエス様が負って下さり、十字架に掛かられた。
本当の意味でこの病に寄り添い救って下さったのがイエス様。我々が日常で知る病は治って終わり…でもこの霊的な病はそうではない。詰りこの「霊的な病」とは、人間が持つ罪の事。
十字架に掛かられたイエス様は砕かれた、打ちひしがれた者として在った。この「イエス様が十字架に掛かられた事」により我々人間は罪から救われ癒された。
これが主(神)の御心だった。
イエス様もこの十字架での死をゲッセマネの園にて身を捩る程に悶え苦しみ恐れた。人間にも「苦しい時の神頼み」という言葉がある。イエス様は全ての罪人の罪を負い、その故に苦しみ悶え、身を捩った。
献身する時は、全てを捨てて自分の十字架(イエス様の十字架が重なっている、詰り他者の為の十字架)を背負い、私(イエス様)に付いて来なさいと言う。
クリスチャンの違いはここにある。自分の為だけじゃなく、他人の為に祈る事。
「出来る事ならこの杯(十字架)を過ぎ去らせて下さい」とイエス様は神様に祈り、自分の為に祈った。しかし「神様の御心ならその通りにして下さい」と祈った。自分の為に祈りつつ、他人の為に祈り直した。
神様に捧げ尽くす事を求めなさい。イエス様の十字架の苦しみが何の為の苦しみなのか?これを知る事が「自分の十字架を背負う」と言う事になる。
十字架の道は祈りの道。
彼(イエス様)は私達(人間)の咎の為に傷付けられ、我々の不義の為に砕かれた(『イザヤ書』第五三章五節)。
聖書に於いて霊と肉とは別物である。霊は天と地を繋げるもの、肉はこの世だけのもの。
罪から解放された者として、義の奴隷として生活する。その上での献身。イエス様は死から復活され、死がイエス様を支配しない事を知って居るからである(『ローマ人への手紙』第六章五節から九節参照)。
クリスチャンライフは聖なる生活、献身の生活とも言われる。イエス様が復活された事を信じる為にそのように成る。
天に於いても地に於いても死が無く自由である。けれどこれを人間の罪は信じようとしない。肉の欲望により、この人の地に全ての価値を置こうとするからだ。けれど人は何れ死ぬ。本来これを人間は最も恐れて居る筈。しかしクリスチャンにとってこの死は最大の恐れではない。「いつ死ぬか分からない」と言う恐怖も、既に神様とイエス様が取り去られて居る。しかしクリスチャンでもこの御言葉への疑問を持つ上、死を恐れる。死はもう主人(裁き人)ではない。生ける神(イエス様も含め)が我々人間を支配して居る。だから死への恐れは無いのだ。
御心はキリストの支配により成し遂げられる。
イエス・キリストは十二弟子の足を洗った時に、この中に裏切り者が居る事を既に知って居られ、その事を十二弟子に直に教えた。
それがイスカリオテのユダ。
銀貨三十枚でイエス様を売った、とされて居る。
しかしユダはその罪を告白しても祭司長達からは「それは我々の知った事ではない」と突き放され、その後、その銀貨を聖所に投げ込み、自ら首を吊って死んだ。詰り後悔し、祭司長達と仲間にも成らず、まるで自分で自分の責任(イエス様を裏切ってしまった事への責任)の為に自ら命を断った。
この時、ユダにサタンが入っただけでなく、祭司長達にもサタンが入って居た事が窺える。
しかしこの全体の流れも、神様の御心に在る。預言が実現・成就する為(エレミヤの預言)。
イスカリオテのユダは一方的に悪者にされる事があるが、本物の悪党であれば、その後も悪党らしく「イエス様を売り渡した事」を何も悪びれず、更に悪党らしく他のイエス様を非難し信じない者達と仲間に成り、それなりの不信仰な生活を送って行ったのではないか?自殺など絶対にしないのでは?
詰りユダにも祭司長達にもこのとき神様から御言葉成就の為の役割が与えられ、それが完遂した事に過ぎない。
イエス様と共有する自分の十字架を背負って生かされる事、これが最も重要な事。
週報まで自宅で閲覧できるこの事、本当に心から神様に感謝する。
〜思記 『使徒の記』より〜
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西部開拓時代、あの頃は自分で自分の家を造って居たのか。丸太小屋とか煉瓦造りの家とか。土地を与えられ、家を売って居る不動産なんて田舎には無いから、例えばミネソタやアーカンソー等あの地区では夫々の人が材木や資材を集めて来て、自分で家を造って居た。例えば『大草原の小さな家』ではそんな感じだった。あの自分達で家を造り上げると言う処に俺は憧れを感じて居たのである。物を造り出すという事の延長で家を造るなんて、本当に凄い事ではないか。自分で造った家の中に住む訳である。一体どんな感覚なのか、感慨、嬉しさなのか。少し憧れるのである。
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日本語は日本一国でしか通用しないらしい(まぁ世界を見てみればそうだ)。他の独立言語にも日本語と同じように「一国でしか通用しない言語」は在るが、出来れば日本語が世界の中でも二カ国〜三カ国くらいで使われて居て、通用すれば良かったのに。
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初代ウルトラマンに登場したあの星野少年。彼のポジションが良い。あれは少年の夢そのものである。テレビを見ていたその少年が、自分を投影させられる。その存在なのだ。自分が出て居る、自分がウルトラマンと一緒に戦って居る、それを想わせる人物である。
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家で畑を作る。これも一つの大きな夢である。そこでは野菜や穀類なんかを作って、出来れば自給自足の生活をしてみたい。田圃も本当は作ってそこで米を収穫してみたいけど、やっぱり無理だから…送って貰おうか(笑)。新潟に友達作って、毎年、送って貰うとか。セコいよね〜(笑)買わずに送って貰い無料で手に入れようなんてしてるんだからね(笑)。南こうせつ氏は故郷の大分で畑を拵え、そこで野菜を今でも作ってるんだろうか?誰かの日記コメントをアメーバブログで読み、ふと気になった。畑を作り、田圃を作り、ついでに自分の家まで建てて、半分自給自足の生活!これも確かに子供の頃、昔から憧れてた生活法の一つである。春夏秋冬の季節を感じ、涼風の中でお日さんを浴び、自然と一緒に生活して行く。そうそう、そこでは犬や猫も一緒に生活してて、毎日がとても楽しい暖かな温床のよう。母の実家ではその昔、こんな風に畑をしながらウサギや小鳥を飼ってたって言うんだから、俺も同じようにウサギや小鳥、魚やクワガタ、カブトムシなんか他の動物も飼い、一緒に生活して行けたら良いね。規模をそれなりに小さくすれば出来そうだ。やってやれない事はない!この夢はいつまでも持って行こう。そしてその畑や田圃、うちで一緒に生活してる動物、植物なんかを見ながら、ギター弾いてまた作詞作曲したり(オリジナル曲を作ったり)、(今してるこんな風に)ポエム・エッセイを書いたり、小説を書いたりし、毎日の生録を書いて行く。ゆくゆくはとても幸せで感謝な事になり、いつでも神様に感謝して生活できるようになる。もちろんそれ以前を含め、常に神様に感謝して生活して行く。…でも、その為にはお金を貯めないと!今は在宅ワークで原稿執筆をしてなんとか生活費を稼いで居るが、許されるならもう少し安定した金額を固定収入の形で稼げるようになり、それを以て生活費、自給自足や動物・植物を育てられる環境設備費に廻したい。それと貯金。臨時的な費用の為に貯金もして、取り敢えずそれで生活してみたい。生簀なんかも手造りで造って、その中で鯉とかフナとかいろんな魚を泳がせてみたい。出来るだけ、全ての環境設備を自然物から自作で拵えたいね。これも大きな楽しみだ。そうなれるように今日も私事だ。
(宿題)
家で自家製の畑をやるにしても、原始に返ってしまうのである。例えばキノコなど「こんなの食えんのか?」としたものを大昔の人々は試しに食ってみて、大丈夫なようならその後も食用として食べるようにして居た。それと同じ事をせねば成らないかも知れない。こちとら、プロじゃないのだ。食べられる物と食べられない物とを、見分ける知識が無い!これが結構、地味に難問・難儀である。だから畑をして自給自足の生活をすると夢見ても、そこに少し問題がある。
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プロポーズの事を「提案」ではなく、プロのポーズ(プロがするポーズ・プロだからこそ出来るポーズ・何らのプロフェッショナルなポーズ)だと思って居た幼少の頃。いや幼少ではない。少年期もずっとそう思って居たのだ。アメリカ人ながらアメリカンに洒落た感じで造語でもしたんだろう、そう思って居たのだ。
【日本キリスト改革派 男山教会】
https://otokoyamakyoukai.jimdofree.com/
【最寄りの教会検索用】
https://www.rcj.gr.jp/
Table Caffe〜
榎本保郎牧師 ミニ説教19 「イエス・キリストを身近に」
https://www.youtube.com/watch?v=MCyjy8BuIIw&t=2s
「SEIZE THE DAY / 今を生きる」
https://www.youtube.com/watch?v=A7Aobi9nmWM
イエス・キリストの生涯をたどる旅 II (1)
https://www.youtube.com/watch?v=vPB9SBXalPA
ハーベスト・タイム・ミニストリーズ
https://www.youtube.com/@HarvestTimeMin
不思議のパルプンテ
https://www.youtube.com/@不思議のパルプンテ/videos
(お暇な時にぜひどうぞ)
少しでも楽しんで頂き、読んだ方の心の糧になれば幸いです。
サクッと読める幻想小説です(^^♪
お暇な時にでもぜひどうぞ♬