轍を踏み続ける
最初に彼の名前を覚えたのは、たぶん六月のはじめだった。
バイト先の朝礼で、先輩たちが冗談まじりにいじっていて、ちょっとだけ可哀想な空気になって。
でも彼は笑っていた。たぶん、困っていたけど、笑っていた。
その顔が、ずっと頭から離れなかった。
真面目で、少しだけ鈍感そうで、でもどこかあたたかい空気をまとった人。
「ねえ、何してるの?」と自然に声をかけられたとき、息が詰まった。
言葉じゃなく、まなざしに刺されたような感覚。
私を見ている。今だけは、私のことをちゃんと、見ている。
それが嬉しくて、怖かった。
私は、愛されたかった。
ただそれだけなのに、なぜかうまくできなかった。
付き合ってきた人は、何人かいた。
でも、私を“好き”と言う人たちは、みんな、途中で私から離れていった。
「ちょっと重いかな」
「もっと気楽でいいのに」
「依存されるのはキツい」
そう言われるたび、私のどこが悪かったのか分からなかった。
好きな人の好みに合わせて服を選んで、話を合わせて、全部全部、尽くしたのに。
それでも、最後には「ちょっと疲れる」って、そうやって終わっていく。
だから、今回はうまくやりたかった。
彼にとって、ちょうどいい存在になりたかった。
話を聞く時は頷きを多めに。
共感してるふりを忘れない。
彼が好きなアーティストを覚えて、にわかじゃない程度に情報を調べる。
DMを送るときは、テンションを彼に合わせて、返信のタイミングも意識して。
全部、うまくいくはずだった。
「話しやすいね」と言ってくれた夜は、眠れないほど嬉しかった。
スマホを胸に抱えて、心臓がバクバクいってた。
このまま進めば、きっと振り向いてくれる。
自分に言い聞かせながら、何度もメッセージを見返して、既読の表示を確認して、
次に送る言葉を頭の中で何度もシミュレーションして。
でも──彼の視線は、少しずつ私から離れていった。
気づいたのは、SNSの投稿だった。
彼が別の子の誕生日を祝っていた。
その子の写真が、他の誰よりも多かった。
そしてそこに、自分の影はなかった。
なぜ? 私は間違えた?
尽くし方? タイミング?
何が足りなかった?
何が、重かった?
その夜、私の中で何かが静かに崩れた。
次の日、彼のロッカーにメモを入れた。
メッセージには何も書かなかった。ただ、「菜緒より」とだけ。
怖がらせたくなかった。だから、優しい形を保とうとした。
でも、それでも彼は翌日、少し距離を置いた目をしていた。
「ごめん。そういうつもりじゃなかったんだ」
「いい子だと思ってるけど、恋愛とか、そういうんじゃないっていうか」
私は笑った。
「大丈夫です、気にしないでください」
声がちゃんと出てよかった。
顔が崩れないで済んで、よかった。
でも、心はめちゃくちゃだった。
どうして私は、誰かに選ばれることができないんだろう。
どうして、“いい子”でいると、大切にされないんだろう。
わがままで、感情をそのままぶつけるような子が、どうして選ばれるんだろう。
私だって、ただ愛されたいだけなのに。
部屋に戻って、スマホを床に置いて、天井を見上げた。
泣きたかったのに、涙は出なかった。
代わりに、心の中で繰り返された言葉。
「わたしは、間違ってない。間違ってなんか……ない」
でも、正しい方法で愛される術を、私は知らなかった。
だから、いつも“愛される演技”だけが、先走ってしまう。
でもその演技では、誰の心にも届かない。
たぶん本当に必要だったのは、
相手の気持ちを操作することじゃなくて、
「こうしてほしい」と素直に言う勇気だったのかもしれない。
「わたしを大事にして」と、ちゃんと口に出すこと。
それができなかったから、私はいつも、遠回りをしてしまった。
今も、彼のアイコンはタイムラインの一番上にいる。
もう、DMを送ることはない。
何もかも終わったのに、ブロックもできないまま。
それでも私はまた、誰かを好きになるのだろうか。
また、愛され方を間違えてしまうのだろうか。
それでも、私はどこかで願ってしまう。
いつか誰かが、私を選んでくれたなら──そのときだけは、本当の私でいたい。
それだけをずっと、心に秘めて