ROUND3・彼女は剛毅な小悪魔で
悠紀の気は晴れない。悩みの種は当然、桃原若葉という少女についてだ。
一体、彼女は何が目的だったのか。
悠紀と純粋に対戦したかった、とか。・・・それこそおごりだ。悠紀よりも強く、上手いプレイヤーはいくらでもいる。
実際若葉は強い。
昨日の対戦では、悠紀の実力を推し量っていた動きのように思えてならない。その結果、相手にならないと見限られたのだ。悠紀も若葉の実力をあからさまに伺う固い動きに終始していたから、望む内容ではなかったかも知れない。
あの対戦はほぼ負けみたいな内容だったが。いや、もう一回対戦すれば。それこそ言い訳じみているな。
そもそも、若葉はトライフォースには2度と現れないかも知れない。
と。
横目で見ると、授業の準備を終えてこちらに視線を向けている桐緒と目が合う。
悠紀が頭を抱えている姿に言い得ぬ奇妙さを感じたか。だが、その瞳は相変わらずの冷たさを宿している。
「・・・な、何でしょうか」
射抜くような瞳が横に反れる。
「別に」
それでいつも通り会話は終わると思ったが、珍しく言葉が続く。
「何か様子が変だから、気になっただけ」
桐緒はこちらを見ずに言う。
思いがけない言葉に悠紀は一瞬呆けた表情で固まり、
「あ、うん。何でもない。ごめん、心配かけて」
悠紀は苦笑いでお茶を濁す。
「自惚れないでくれる・・・!?誰もあなたの心配なんてしてないわ」
烈火のごとく怒りで顔を赤く染めた桐緒は、悠紀を無視して文庫本に意識を向けてしまう。
「・・・すみません」
何か釈然としないものを感じながらも、悠紀は言葉尻も小さく答えるしかなかった。
放課後。
悠紀が帰宅すると、玄関口に見慣れない靴が複数足並んであるのに気が付いた。亜衣はすでに帰っている様で、その靴の群れの中には見慣れた妹の靴が混じっている。
それに加え、リビングからは妹と悠紀の知らない聞き馴染みない声が耳に届く。大方、亜衣が友達でも呼んだのだろう。良いことじゃないか。
女子の語らいを遮るのも無粋だろう。さして気に留める事なく、悠紀はリビングの横を通り過ぎ、二階への階段に向かう。
「あ、お兄ぃ。お帰りー」
そんな悠紀を、リビングから飛ぶ亜衣の声が呼び止める。
・・・無視するのも何だし、仕方無しに悠紀はリビングに顔を覗かせる。
視界に入ったのは、いつもの我が家のリビング。なのに感じる空気がまるで違うのは何故だろうか。それは、いつにもましてリビングを支配する女子の比率の高さに他ならない。
亜衣を除けば、同じ制服を身に纏った3人女の子たちがリビングでテーブルを囲っている。
お菓子や飲み物が並べられ、さしずめ放課後ティータイムといった様相。
リビングに咲いた花園を一瞥して、悠紀は戦慄した。正確には、その中のひとり。
昨日トライフォースで対戦した、そして亜衣が転校生だと紹介した女の子がその場に座っていたからだ。
桃原若葉が、そこに居た。
女の子たちはそれぞれ頭を下げて挨拶をしてくれる。当然若葉も同様に。
ただ、それは悠紀が若葉の本性を知る前の、優雅なお嬢様の佇まいで。さも今日初めて会った時の様なリアクション。それがかえって不気味だ。
戸惑いながらも、悠紀はリビングを後にする。
・・・何が目的だ?
もっとも、亜衣と若葉はクラスメイトなのだから、誘われて遊びに来たと言われればそれまでなのだが。
ぐるぐると、頭の中に渦巻く思考。ベッドの上で寝転び、天井の木目をなぞるも、遠くから薄く聞こえる亜衣と友達の笑い声が思考を寸断させる。
・・・集中できん。
バイトまでまだ時間がある。若葉で思い出したというわけではないが、どうにも昨日の事が蘇る。
悠紀は身を起こし、ゲーム機が格納してあるテレビ台に視線を向ける。
少し練習するか。こんな時はトレーニングモードで連続技の練習をするに限る。
と。
かちゃ、とドアの開く音がする。亜衣か?と思い視線を巡らせると、悠紀は身体が硬直する。
「昨日ぶりですねぇ」
清楚の表情から一転、人を小馬鹿にした笑みと裏ピースと共に、若葉は招いてもいないのに勝手に部屋に足を踏み入れる。
「へぇ~。これが格闘ゲーム大会準優勝サマのお部屋ですか〜。・・・案外普通ですねぇ」
物珍しそうかつ、面白そうに若葉は目を宙に彷徨わせる。
「何しに来たんだ」
はっきり言って、関係性が特に希薄なのに、勝手に決別宣言を突き付けられたのだ。亜衣と遊ぶために梅津家に来るならともかく、悠紀に会いに来る理由がわからない。
「もう会うこともない、と言った矢先なのに、運命ですかねぇ、コレ」
思ってもいない事だと表情で読み取れる。少なくとも嬉しそうではないし、人を小馬鹿にするような薄い笑顔だったからだ。
「亜衣ちゃんとはお隣さんで仲良くなったんですけどぉ。まさかお兄さんがあなただったなんて夢にも思わなかったですよ」
悠紀も、まさか昨日の今日で我が家で再会するとは思わなかった。
「流石に、キッツ〜・・・。亜衣ちゃんたちの前で『素』を見せる訳にもいかないしぃ」
あの猫かぶりは神経を使うものらしく、ため息を吐き、肩を揉む仕草。
だったら止めればいい、と言いたいところだが、それは悠紀の知ったことではない。何より、悠紀と亜衣たちの前で態度を変えるのは、何が理由があるのだろう。悠紀がどうこう言うべき事じゃない。
「あ、これが準優勝の賞状ですかぁ?」
教科書やら本が並ぶ机の中に埋もれる、ウルティメット・ラウンド、ファンタジア・ヘブン部門での2位の証。目ざとく見つけた若葉がフレームに収まったそれを手に取る。
あの試合は苦しくも、悔いの残る試合だった。優勝が目の前に迫っていたのに、それが目の前でするりと零れ落ちていったからだ。
「・・・ひとつ、聞いていいでスか?」
いつになく、神妙なトーンで言う若葉は新鮮で。写真立てサイズのフレームに目を落としたままの若葉の表情は伺い知れない。
「ゲーム、やってて楽しいですか?」
奇妙な質問だと思った。
少なくとも、若葉もファンタジア・ヘブンについては悠紀と同様のやり込み具合を感じさせるほど傾倒している様に思う。
それは、自分への問いかけの様で。
ただ、若葉という人間の全てを知ったわけではない。その質問に裏があるような気がして、悠紀は僅かに考え、言い淀む。
悠紀の答えを求めてはいなかったのか、若葉はフレームを机の上へ戻すと、改めてその表情をほころばせた。
「あ!ありますねぇ」
若葉の視線がテレビ台の下に向けられる。収納されたゲームのセットだ。
バイトをしているとはいえ、ゲーセンで練習をしようと思えばお金はいくらあっても足りない。家庭用での練習は、感覚を衰えさせないという意味でも大切だと思っている。
「生意気にもいいヤツ使ってますねェ」
若葉は巨大なレバーとボタンのついた、いわゆるアーケードコントローラーを撫で回す。
悠紀のアケコンは、かなり高価なタイプだ。ボタンやレバーがアーケード筐体で使われているのと同質の一品で、値は張ったが満足はしている。
個人的感覚だが、安い商品はそれ以上の能力を逸脱しない。安物買いの銭失いで終わる可能性がある。これから深く付き合うのなら、良いものを買った方が後々のためになる、とは思う。
若葉が床に伏せ、興味津々といった様子でテレビ台の中を覗き込む。
ゲームをやる人間ならば、多少は気になるのであろう。もっとも、悠紀は格闘ゲーム以外のゲームをあまりやらない。気まぐれに買ったゲームがいくつか。それも片手で数えるほど。後はダウンロードで済ます。
若葉のお気に召すゲームは、同等の趣味嗜好を持っているならばそこにはないと言えるだろう。
だが、それ以上に。
思わず悠紀は視線を外し、見えもしないカーテンの向こう側の空へと首を向けた。
その原因は、あまりにも無防備な闖入者の姿にあった。
「他にゲーム何やってんスか?ファンタジア・ヘブンだけって訳じゃないですよねぇ」
その姿はまるで亜衣がゲームを準備するが如く。スカートの裾が危うく揺れる。
返事が無いのに気づいて、若葉が首だけで振り向く。
悠紀が口元に手をやり、明後日の方向を向いている態度で若葉は察した。
口元を隠している向こう側が赤くなっているのも見抜き、若葉はにやあ、と笑みを形作る。
「紳士ですねぇ」
さもすればスカートの中身が異性に見られるという恥じらいよりも、面白い何かを発見した事実の方が彼女にとっては重要らしい。半分伏せた体勢のまま、なんと若葉は自分のスカートの裾をつまんで見せる。
「こんなの、ただの布切れですじゃないですか。私としては見られても全然構わないんですケドぉ」
今まで出会った人間の中で、もっとも邪悪に満ちている表情だ。人の焦る様子を見て楽しむ趣味の悪さを感じられる。
「や、やめなさい」
ちらちら、と細い指先が踊るたび、制服のスカートが蠱惑的な波を生む。
このままだと恐ろしい行動がエスカレートしそうで、それを制しようとするも若葉の挑発的な表情と態度は変わらない。
ぷぷー、と悠紀のリアクションに可笑しさをこらえる若葉がふと視線を横に滑らせる。その目の先は悠紀のベッドと床の隙間だ。
「こういう場所にお宝があるって聞きますよねぇ。さてさて先輩はどんなお宝を隠しているんですかぁ?」
若葉は世にも恐ろしい行動に出る。
なんと、若葉は床に伏せたままベッドの下の聖域に手を伸ばそうとしたのだ。光の速さで悠紀はそれを阻止する。
悠紀が若葉の肩に手を触れた瞬間。
「やぁんっ!」
若葉は身をよじり、声を出す。今までの小生意気な態度からは信じられないくらいに甘く、儚い声。
だから、悠紀は簡単に手を引いてしまう。
服越しでも少し触れただけで解る、壊れそうで細く柔らかい身体。
力を込めたつもりはなかったが、無意識の行動は、彼女に負荷をかけたかも知れない。
「ご、ごめん!」
若葉には、その僅かな小さな隙で十分だった。
キラリ、と目を獲物を捕捉した獣のように輝かせると、ベッドの下に腕を潜り込ませた。
その目は宝を見つけた探検家の如く見開かれ、対照的に口からは赤い舌がちらりと覗く。何かを掴んだ感触で、若葉はほくそ笑む。
ニヤリと口元を歪めると、若葉は手にした紙の束のようなものを即座に引っ張り出した。
「私だって男を聖人君子だとは思ってないですしぃ、むしろこういうモノを持っているのが自然ですよぉ」
大変理解のあるお嬢さんだか、それでハイそうですかと簡単に見せるわけにはいかない。
さも当然と手にしたお宝に視線を向けるより早く、悠紀はそれを奪い取る。
「あ!良いじゃないですか!見せてくださいよ!」
悠紀と若葉は頭ひとつ分くらいの背丈の差がある。伸ばした手の先にある『本』には若葉の手では届かない。
なるべく視界に映る面積を狭めようと丸めている。本当はズタズタに読めないくらいに引きちぎりたいが、それをやって後悔するのは自分である。
背丈では敵わないのを早々に悟り、若葉は悠紀に奪われたモノを諦め、再度ベッドの下へと突入すべく体制を低くする。
「あ、コラ!」
慌てて悠紀もそれを追う。
反射的に悠紀は手にした本を放り投げ、それは壁とベッドの間の僅か数センチの隙間に引っかかった。
がし、と悠紀は若葉の両肩を抑える。
「いやっ!」
若葉が再び甘い声を出すが、悠紀はそこで引き下がらなかった。
憮然とした表情の若葉を立ち上がらせ、無事、聖域への再侵入を阻止することに成功した。
むー、と不満顔の若葉。一方の悠紀は冷や汗。生きた心地がしない。
この子の目的は何なんだ。今回の件に関しては特に思う。
人の趣味嗜好を理解するならともかく、無理矢理に暴こうとするのはどうなのだ。少なくとも本人の思考を疑う。
頬を膨らませていた若葉は、目ざとくベッドと壁の隙間に引っかかり、今にも落ちそうになる薄い本。
悠紀と若葉。お互いがそれに気が付き、動いたのはほぼ同時だった。
若葉がベッドに身を投げる。それを追う悠紀。
どちらの手が先に触れたのかはわからない。ベッドにふたり分の体重が掛かった事による衝撃で、本が壁との隙間に滑り落ち、結局元の保管場所に帰還する。
だが、悠紀と若葉は無言。
なぜなら、悠紀と若葉はベッドの上で折り重なるようにしていたからだ。
お互い惚けていたが、やがてそれぞれの表情の色が変わる。
悠紀は自分の体温が上昇しているのを痛いくらいに自覚。それと共に顔も焼けるように熱くなっている。
対する若葉も、最初こそキョトンとさせていたものの、やがて禍々しい笑みを生み出す。
至近距離で見る桃原若葉という少女。
きめ細かい肌の上に載った眉、瞳、鼻筋、唇。
全てが完璧に整った、それはまるで美術品の様。意識が吸い込まれ、その瞳に捕らわれる。心を動かされなかったと言われれば嘘になる。
そんな眼下のふたつの瞳が、悠紀から外れた。
悠紀もその視線の先を追うべく首を動かす。
ぞわ、と悠紀は背中の皮から背骨、筋肉が凍りつく感覚に陥った。
自室の入口。
そこには目と口を開いた亜衣が立っていたからだ。
亜衣は信じられないものを見るような目で、やがてわなわなと肩を震わせ始める。
そして、亜衣の小さな唇が開かれようとしている。どんな言葉が吐き出さるのか。それは侮蔑か、罵声か。
次の瞬間、亜衣よりも速く口を開いたのは若葉だった。
「ごめんなさい!亜衣ちゃん、これには事情があるの!」
身を起こし、切迫した表情と共に若葉が弁解する。纏う雰囲気が数秒前とはまるで違う。別人、ではないよな。
「亜衣ちゃんのお兄さんにご挨拶したくて。でも、この部屋に入る時に足を滑らせて転びそうになって」
だいぶ無理がある言い訳だ。だが、今の悠紀にはそれでも頼もしい援護射撃だった。
「・・・未だにベッドの上で寝ているのは何故なの?」
我が妹は、腕組みして仁王立ち。貫くような視線を悠紀に差し向けている。
「立ち上がった時に立ち眩みがして・・・。その時にお兄さんを引っ張ってしまって」
ある意味この子も凄いな。何の淀みもなく言葉が突いて出てくる。焦った様子を微塵も見せず、むしろそれが当たり前のように。・・・ベッドに倒れた原因が、本当にそうなんじゃないかと錯覚してしまう。それくらい自然だ。
若葉は頭を指先で抑える仕草。悠紀にはそれが明らかな演技だと知っている。
「ありがとうございます、介抱して頂いて」
今の若葉はお嬢様モードだ。所作の端々に優雅の欠片が見て取れる。
ゆっくりと立ち上がる若葉に亜衣が寄り添う。
「大丈夫?気分が悪くなったのなら、帰る?」
心配そうな亜衣に、若葉は大丈夫です、と返す。そりゃそうだ。さっきまでエロ本を巡って騒いでいたんだからな。
「もう、大丈夫です。初めてのお友達のお宅で緊張で舞い上がっていたのかもしれません」
お兄さんを責めないであげてください、とフォローも欠かさない。
「・・・まあ、お兄ぃはそんな事する人間じゃないとは思ってるけと。若葉ちゃんもこう言ってるから許してあげる」
さっきまで睨んでましたよね、あなた。
ともかく、人生で一番であろう難局を乗り越えた。全身に滴る汗は、凍りついた身体が溶けたからであろうか。
「戻ってこないから心配したよ」
亜衣が若葉を連れて、部屋を出る。
「ふー・・・」
悠紀は安堵のため息。
かつて息がこんなに濃く、深く出たことがあっただろうか。
平穏を手に入れたところで、びくり、と悠紀の身体が固まる。若葉が顔だけを部屋に覗かせていたからだ。
「兄としての威厳を守ってあげたんですから、『貸し1』ですよぉ」
悠紀だけにギリギリ聞こえる声量で、若葉は『1』を示す人差し指を自分口元に当て、不敵な笑みを残して去って行ったのだった。
「・・・悠紀くん、お疲れ?」
自分史上最大の戦いを終えたのち、悠紀はバイトのためにトライフォースへと向かった。
舞麗が心配そうに悠紀の顔を覗き込んでくる。さぞ、鏡を見たら自分は疲れ果てた表情をしているのだろう。珍しく舞麗の顔から柔和な笑みが消えている。
「ぜ、全然大丈夫です」
完全にカラ元気だが、なるべく舞麗に要らぬ心配はかけたくない。
舞麗には笑顔がよく似合う。この商店街を照らす太陽であるべきだ。
その笑顔を穢す存在は誰であろうと例外なく許されない。もし、そんな事があった日には、商店街中のおじさまおばさまが許してはおかないだろう。それはもはや、聖母の勢いを超えて崇拝の域だ。舞麗が異世界女神の転生体だと言われても誰も疑う事はないだろう。
妙齢の無数の影に取り囲まれる想像に、悠紀はぶるりと身を震わせた。
なぜか舞麗に気に入られている悠紀。時の流れすらに気が付かないような、そのほんわかしたいつもの様子からは想像できないくらいに舞麗は他人のちょっとした変化に目ざとい。
「よかったら、久しぶりにどうぞ〜」
舞麗は両手を広げる。
泣いている子供に寄り添う時も、初めて見るであろう巨大な犬に対しても、舞麗の行動原理は、打算的では決してない、ある意味底無しの懐にある。それは持ち合わせた慈愛から来るものなのだろう。
だが、舞麗は目の前の相手が年頃の男子だと認識しているのだろうか。これでもバイト初日は流石に緊張した。
何の前触れもなく優しい温もりと共に言い表せない柔らかさに包まれたのを覚えている。今思えば緊張を解きほぐそうとした舞麗の優しさなのだろう。そこに、それ以上以下の意味は持たないのだろうが。
緊張はまったく解けなかったが、突いても破れることのない軟さの舞麗の笑顔と共に得たのは、舞麗の人柄。
言うなれば、抱きつきの刑と評する舞麗のフィニッシュブロー。
胸から滲み出る当時の熱を思い出し、悠紀は慌てて手を降った。当然、というか、その胸に誘われるのは丁重にお断りする。
なのでそんなに悲しい顔をしないで欲しい。心が痛い。
ただでさえ商店街の人気者の側に現れた男という事で、主におじさん連中に目をつけられたのだ。今でこそ認められてはいるが、当時、刺すような目が痛かったのを思い出す。もちろん、おじさん連中にトライフォースのバイトに相応しいかどうかの権限はない。
ともあれ、この商店街にて竹宮舞麗独占禁止法が働いているのは確かだ。過剰な接触は彼らの逆鱗に触れる可能性がある。
少なくとも年頃の異性に躊躇いもなく接触してくるのだけは遠慮したい。無論、何のしがらみもなければ甘んじて受ける覚悟は無きにしもあらず、ということは記しておく。
「そう言えば〜」
思い出したように舞麗が声を上げた。
「この間の若葉ちゃん、だっけ。若葉ちゃんとの対戦?どうだったの?」
どう答えようか悩ましい。
格闘ゲーマーとして、決着のついていない対戦で負けたとは言いたくないのは事実。3本先取の内、2本取られたまま終わり、有耶無耶で終わったからだ。
「・・・いや、負けましたよ」
初見の相手ということを差し引いても、若葉は強かった。こっちが適応する前にやられていたかも知れない。
だから、そう答えた。
その言葉に、舞麗はあからさまに驚いた表情を浮かべる。
「悠紀くんが負けるなんて、よっぽど強いんだぁ」
舞麗も悠紀がファンタジア・ヘブンに傾倒し、ウルティメット・ラウンドに出場したのを知っている。
ただ、大会に出るくらいだから強い、くらいの認識で、実際はどれほどかは分かっていないだろう。それどころか、舞麗はゲームをプレイする人間はすべからく上手い、と思っているフシがある。
舞麗は格闘ゲーム以前にゲーム自体に疎い。それはゲームセンターの店員としてどうなんだと思わなくもない。
格闘ゲームの対戦における立ち回りやセオリーも理解していないだろうし、説明して分かってもらえる自信もない。
必殺技コマンドなんて最たるもので、奇妙な矢印の集合体にしか思っていないだろう。
それでも大会期間中はバイトを融通してもらったり、お世話になった。本当に頭が上がらない。
「もしかして、わざと負けてあげた、とか?」
「そんな器用なこと、できませんよ」
格闘ゲームが上手くなればなるほど、そういう手心には敏感になる。若葉も悠紀が手加減した、とは思っていないだろう。
「悠紀くん、優しいからてっきりそう思ったよ〜」
・・・だとしたら、買いかぶりすぎだ。そこまで気が回らないくらいに若葉は強かった。
ただ、格闘ゲームの強さは一発限りの大会や一回の対戦では測りかねる部分もある。本来は何十戦も繰り返し競い、決めるような方式が望ましい。だから負ければ終わりの大会は、後悔が一際滲むのだ。
だが、こちらがどれだけ言い訳しても、舞麗は『そう』思っているのだからタチが悪い。舞麗はニコニコ笑顔で悠紀に柔らかな眼差しを向けている。
今の悠紀には舞麗の微笑みは眩しすぎる。熱くなる顔で焼け死んでしまいそうだ。
照れと気まずさ、気恥ずかしさを拭い去るように、悠紀は仕事に邁進するのであった。
帰宅しても、亜衣はまだ不機嫌だった。
今日起きた事件。悠紀にとっても忘れたい出来事についてだろう。
両手に箸と茶碗を持ったまま、悠紀に疑いの目を差し向けている。悠紀と若葉の関係を怪しんでいるようだ。
おそらく若葉の方でフォローしているのだろう、そこまであからさまな追求はない。
ゲーマーとしての若葉に興味は有るのは事実だが、少なくともそういう対象ではない。
「若葉ちゃん、「この度は御迷惑をおかけしました、また日を改めて謝りたい」だって。律儀だよね」
その言葉が本当ならな。
それを額面通りに受け取るほど、悠紀はおめでたくはない。例の一件を弱みとして握られている内は、穏やかな心ではいられないのだ。
不気味且つ、理解しがたい少女の姿を思い浮かべながら食べる夕食は、いつもと違う味がした。
翌日。
悠紀はトライフォースでバイト中。人付きも少なく、今日は割とヒマだ。
ずしり。
前触れもなく、悠紀の背中に何か重量のあるものが乗っかる。
「っ!?」
反射的に振り返ると、そこには見知った顔がいた。
「若葉、ちゃん?」
悠紀の背中に密着するように抱きつき、にっ、と笑みをその顔に貼り付けていて、細い腕が悠紀の丁度腰回りに巻き付いている。
子供が無邪気に抱きつくようなそれではない。言うなれば、獲物を見つけた蛇。確かな、それでいて明らかな意図がそこには感じる。
顔に熱が集まるのがはっきりと分かるが、あくまで悠紀は平静を装う。背中から伝わる感触を、気合で意識の彼方に弾き飛ばす。
「・・・何か用か」
極めて冷静に。狼狽えているところなどを見せたら、それこそどういう手段でおちょくられるか。
「流石ですねぇ。こんな小生意気で無礼なガキに抱きつかれたところで興奮しませんかぁ」
最初、若葉が何を言っているのか分からなかった。その謎が解けたのは次の若葉の言葉で、だ。
「私ぃ、目はすごく良いんです」
若葉は指先で自分の目を差して見せる。当然、その仕草は視力が良い、の意であろう。にたり、と若葉は意地の悪そうな笑みを浮かべてくる。あの対戦の動きを見たら、若葉の言葉には頷ける部分だ。
「実は見えてたんですよねぇ、先輩の、お・た・か・ら」
悠紀の体温が一気に上昇する。
『本』は丸めてなるべく視界に入らないようにしていたつもりだが・・・。見られていたか。
自分の聖域が荒らされた気分だ。あそこは何人たりとも立ち入ることが許されない領域。
「おっぱいの大きな女の人が好みなんですねぇ」
わざと若葉は自分の胸を悠紀の背中に押し付けている。
ぎり、と悠紀は歯を食いしばる。違うと完璧に弁明できないのが辛い。
「案外普通の趣味なんですねぇ。私のおっぱいはお気に召しましたぁ?」
控えめで慎ましやかな背中の柔らかさでも、それなりに意識してしまうのが情けない。若葉はそんな悠紀の反応すら愉しんでいるみたいだ。
「もしかしてぇ」
若葉は悠紀に小声で囁く。
「舞麗さんのコト、狙っていたりします?」
カウンターで客の応対をしている舞麗。今日も朗らかな笑顔がトライフォースに満ちている。
「そんな事はない。舞麗さんは尊敬する上司だ」
努めて冷静に、動揺を微塵にも見せないように答える。
年頃の男だったら、舞麗の豊かな身体に目が向いてしまうのは否めない。
だが、神に誓って舞麗の事をそういう目で見たことはない。もしその時はトライフォースのバイトを辞める時だ。
ふ〜ん、と若葉は分かっているのかいないのか、小さな笑い声を漏らしながら舞麗から悠紀へと視線を戻す。
「結局、君は何をしに来たんだ?わざわざそんな事を言いに来たっていうのか?」
「あれぇ?私はお客さんですよ?そんな事言って良いんですかぁ?」
悠紀は小さく呻く。確かにそれを言われたら言い返す事はできない。
「本音を言えば、私」
若葉は悠紀の腰からするりと腕を引き抜くと、後ろに手を組み、上目使い。
「お兄さんに興味が出てきました」
す、と目を細め、薄く笑う。
・・・それはからかう対象として、だろうか。
「この間の対戦も、本気じゃなかったんですよね」
確かに様子見の割合が主を占めてはいたが、若葉の強さに圧倒されたのも事実だ。
一分の隙もない立ち回り。連続技の正確さ。悠紀と違って、若葉は様子見に走らず自分の動きをちゃんと取れていたのだろう。
「今度、私とマジの対戦しません?満足させて、あげますよぉ」
若葉は指をペロリ、と舐める仕草。中学生らしからぬ妖艶な顔。
確かに、先の対戦では勝敗がつくまでプレイ出来なかった。そんな機会があるのなら、悠紀としてはやぶさかではない。
どこまでが冗談で、どこまでが本気か。若葉という少女は底が知れない。
だが、今はバイト中だ。
「そのうちな。気が向いたら」
対戦という事に限定して言えば、悠紀は非常に興味を惹かれる。久しく感じていなかった強き者。若葉は生意気で不遜ではあるが、その点に関しては認めている。
「約束、ですよぉ」
わざわざ筐体を拭き掃除する悠紀の懐まで潜り込んで、顔を見上げてくる。甘えてくる、というよりも、絡まれるという表現がしっくりくる。
「ちゅーわけで、連絡先、交換しません?」
若葉はスマートフォンを取り出し、口元にかざして見せる。
「何の訳かは分からんが、仕事中だから後でな」
今の状況では、何を言われようと全てはバイトの後という言い訳で通す。
悠紀は若葉を無視して仕事に戻る。いちいち彼女にまともに付き合っていたら身体が持たなそうだ。
「お兄さん。これなーんだ」
振り向くと、若葉の右手左手の手の中にはふたつのスマートフォンが収められていた。
片方は、先程見た若葉自身の物。もうひとつの方に悠紀は見覚えがあった。
見間違うはずもない。それは悠紀のスマートフォンだからだ。
悠紀は急いでエプロンのポケットに手を差し込む。すると、そこにあるはずのものがない。ポケットに入れていたスマートフォンが無くなっていた。
・・・あの時か。
若葉が悠紀に背後から抱きついて来た時。
なんという手際と手癖の悪さ。悠紀は全くと言っていいほど気が付かなかった。もっとも、注意を払えるほど集中出来ていなかっただけかも知れないが。いや。きっとそれが原因だ。
スマートフォンを取り返そうと手を伸ばしかけて、悠紀はその動きを止める。
若葉が、悠紀のスマートフォンをスカートのポケットに落としたからだ。
まさか女子中学生のスカートに手を突っ込む訳にもいかない。変質者を通り越して逮捕の域だ。
ぐ、と苦悶の表情を浮かべる悠紀を見て、悪びれる様子も無く若葉は笑う。
「交換しましょーよ。JCの連絡先が手に入る機会なんて、そうそうないでスよ?」
若葉は悠紀のスマートフォンを人質にしつつ、器用に自分の端末を操作。
「・・・君と連絡先を交換したら、この前の『貸し』はゼロになるのか?」
妹の友達とベッドの上では倒れ込んでいたという破壊的な状況。ともすれば兄妹の縁を切られても文句の言えない状態を、若葉のとっさの機転で事なきを得た。
だが、それと引き換えに得たのは安息ではない。さらなる、ある意味それ以上の危機的状況。例えるなら口元を三日月に歪めながら拳銃をこめかみに突き付けられていて。あるいは喉元にきらめく物は短刀か。
「まさかぁ。そんな訳ないでしょ。全然等価交換ではないですし」
これは私からのお願いでぇす、と、ぽんぽんと悠紀のスマートフォンをスカート越しに軽く叩く。それが人に物を頼む態度かと疑いたくなる。
「私ぃ、お兄さんとお近づきになりたいんです」
どこまでが本気なのだろうか。ただ、若葉の言葉には空虚なものを感じる。
だが、このままグズグズしていても仕方がない。さっさと教えてこの場を収めるのが最善だろう。
「・・・分かった」
若葉は意外そうに目を丸くさせると、すぐに笑みを形作りながらスカートのポケットからスマートフォンを抜いた。
・・・随分とあっさり返してくれたな。もう少しゴネられると思ったが。
うわ、少し温かい。
悠紀は返ってきたスマートフォンを操作して、開く。ちらりと見ると、同じ操作をしながら、鼻歌など歌って若葉は上機嫌だ。
「転校早々、お友達が学校でも外でも出来るなんて、ラッキー☆」
やがて、悠紀のスマートフォンに若葉のアドレスが追加された。
「ふふっ」
ディスプレイに視線を落とした若葉の表情は、年相応の少女のもののように見えたのは悠紀の気のせいだろうか。
その答え合わせをする術はもうない。何故なら、次の瞬間には若葉は悪巧みをするいたずら小僧のような表情に変化させていたからだ。
手に入れたアドレスを使って一体何をするつもりか。悠紀の背筋が寒くなった。
若葉は自分のスマートフォンをしまうと、
「んじゃ、お仕事頑張ってくださいねぇ」
元の生意気な女の子に戻った若葉は、手をひらひらと軽く振りながらカウンターの方へと向かって行った。
舞麗と話すその様子は、おしとやかなお嬢様そのものだ。恐ろしいほどの変わり身の速さ。
やがて店外に消えていく若葉。
悠紀の手の中のスマートフォンが、まだほのかな温もりを残している気がした。
その夜。
さっそく若葉からの着信。
ディスプレイには登録した『桃原若葉』の文字。
なんだか出たくないな。だが、ここで出ないとそれこそ後が怖そうだ。
恐る恐るスマートフォンを手に取る。
「・・・もしもし」
『あ、お兄さん、こんばんわぁ』
電話越しでも小憎たらしい顔が透けて見えそうだ。
「何か用か」
『お兄さんの声が聞きたくてェ』
まあ、いつもの態度だ。本気にしていたらキリがない。
『せっかく連絡先交換したんですからぁ、いっぱいお話しましょうよ。学校やお兄さんの家じゃ亜衣ちゃんもいて、喋るの疲れちゃいますし』
学校では常時猫かぶりお嬢様モードなのだろう。そりゃ疲れもする。
そうはいっても、悠紀からは何も話すことはないのだが。
『・・・ホントの事を言いますと、ちょっとお兄さんにお願いがありましてぇ』
そのお願いを聞いてくれたら『貸し』ゼロでもいいですよ、と若葉。
何だ、その急な手のひら返しは。逆に怖い。
「・・・何だ。聞くだけ聞いてやる」
それは身も飛び上がる法外な条件か、それとも無茶なお願いか。『貸し』に見合うものだといいけど。
そして、その予感は的中した。
若葉の発した言葉は、悠紀の斜め上を行くものだった。
『・・・お兄さん、私とウルティメット・ラウンド出場を目指して、チームを組みません?』