7.陥落寸前
屋根の縁に爪先を引っ掛け、手摺りを跨いで、五階建ての店の屋上に立つ。
カナメは振り返る。見上げれば、薄雲が漂う青紫の空に、欠けた月が浮かんでいる。淡い光が落ちる街、今しがた跳躍してきた路地裏の先を見下ろせば、煙たい土埃の中を、雑多な人々が行き交っていた。
ほう、と吐き出す息が熱いのは、酒が入ったせいだろうか。軽く掴んだ手摺りから、染みるような冷たさを得る。水でも持ってくればよかったと、そんな、詮の無いことを考えて。
「……はああああああぁぁぁぁぁ」
腹の底から、ありったけの空気を吐き出して、項垂れた。
膝が折れる。腰が沈む。細い体を必死に支えるべく両手を手摺りに掛けるが、どんなに力を入れても残れなくて、どうしようもなくなって、へたり込んだ。それでもまだ平らな屋根の上に寝そべってしまいそうだったから、這う這うの体で鉄柵へ縋りついて寄りかかり、薄い尻をロクに掃除もされてない床へつける。
頭を背後へ落とせば、あからさまに滲んだ月が、カナメを嘲笑うようで。
小さな両手で、顔を覆って。
「……めっちゃ好きぃ」
思いを。
吐き出してしまえば、止めることなどできなかった。
「なん、何なんじゃあやつは!? あんな指輪を後生大事に抱えておって、その上しかも結婚しようだの、愛してるだの、助けたいだの! 萌えだの愛だの可愛いだの、あーもう! もう、もうもうもうぅぅ……っ!」
手の平が焼けるほどの熱を、頭を左右に振りながらジタバタと、脚をバタつかせるのは完全な瀕死のゴキブリもとい幼い少女の有り様にて、情けないったらなくて、でも、こうでもしなければ、背中の辺りから何かが弾けて今すぐにでも死んでしまいそうで、
「こんな虫ケラ腐れババアを、ときめかせる馬鹿があるかぁ……っ!」
心が折れそうだ。
もう折れているかもしれない。
好き。好きだ。好き過ぎる。ミズノ大好き。しゅきぴぃ。こんな捻くれたゴキブリババアを捕まえて、捻じくれた性根を分かってくれて、自分も同じだと言ってくれて、憚りもせず、愛しているなどと、誤解しようもない真っ直ぐな想いをぶつけてくれて、
「好きになるなと言う方が、無理あるじゃろうがあ……っ!」
泣き叫ぶように、誰にも聞かれてはならない想いの丈を、手の平へぶちまける。小さな腹の底がムズムズと、鬱陶しくもこそばゆい痛痒が指先爪先髪の先まで行き渡るようで、控えめに言って幸福の絶頂にある。
もういい、もういいのではないか。カビ臭くてしょーもない己の矜持なぞ投げ捨てて、ミズノの手を取ってしまえばいいのではないか。儂も好きじゃと言ってしまえば、今すぐにでも底無し沼の安寧へと沈んでいけるではないか。さて、その後はどうしよう。すぐにでもアレやらソレやらに至るのも悪くないむしろオールオッケーばっちこいではあるがやはりダメだ間違いなく多幸感に殺される。初夜で腹上死は笑え過ぎる末代までの恥だがお前が末代定期。いや死なないけど。ならばやはり手順は踏むべきか。何事もAtoZ、したいことtoDo、とりあえずお手て繋いでデートくらいから、やっぱりダメだ、想像しただけで多幸感に殺される。なんだこの虫ケラみたいな脆弱さは。いや死なないけど。え? 他の蜚廉たちはどうするって? おあしす。今ここで放っぽり出しても奴らなら逞しく生きて行けるであろう。血の繋がりこそ無くてもカナメの眷属であり末裔たちだ。仮に滅ぶことなどあるとすれば精神的に多大なダメージを受けた時だろう。絶滅理由は『恋』だ。脆弱過ぎていっそ笑える。
下らんことを考えつつも想いは止まらない止められない。死なない身体に死を予感するほどに追い詰められ、だがミズノに手を下されるならば本望だと、ただでさえ馬鹿な己が取り返しのつかない大馬鹿野郎に成り下がるほどに、身も心も焼き尽くされていると言うのに。
だと、言うのに。
「やって、しまったあああぁぁ……」