01.美少女は、魔法だ
目が覚めたら、女の子になっていた。
それもとびきりの美少女だ。
「う、うそ……」
思わず漏れた声は鈴を転がしたように美しく澄んで、ぼくの鼓膜を震わせる。
鏡には、見慣れた冴えない男の顔は映らない。
むくんで重かったはずの瞼はくっきりとした二重を描き。最大限に見開いても尚、細かった目は、長い睫毛に縁取られて吸い込まれそうなほどに大きい。不健康で青白かった肌は陶器のようにきめ細かく、艶やかだった。
「……本当に、本物、だったってこと?」
まさか。そんな奇跡があっていいのか。
鏡の中でこちらを見つめる少女から目を逸らす。
視界の端に、大学の図書館で見つけた古い本を捉えた。課題のレポートを書くための資料を借りに行って、たまたま目に入った『呪術』の文字。本気にしてなどいなかった。気まぐれで手に取って、くだらないと扱き下ろすつもりで……しかし、僅かに期待して持ち帰ったその本は、無造作に置かれた床の上で開かれている。
『反転秘術』
昨夜、ぼくは確かにそれを試した。
だとすれば、これはその結果だというのか。
やけ酒に酔った勢いで、ほんの冗談のつもりだったのに。
ふらつく足取りで冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出し、一気に飲み干す。
身長は縮み、胸は膨らんでいる。視界も身体の重心も慣れた感覚とは異なり、お茶を飲むだけでも一挙手一投足に違和感があった。それが、ぼくの身体に起こった変化を教えてくれる。言い様のない高揚と喜びが湧き上がる。
もう一度、鏡を見る。
未だ見慣れない美少女と目が合った。
ぼくが大嫌いだったぼくは、どこにもいない。
鏡の少女が--ぼくが、嬉しそうに笑った。
*
曰く。世の中に存在するすべてのものは、陰と陽との二つの要素から成り立ち、さらに陰と陽は互いに対立し、影響し合う。
また、すべての事象も陰と陽に分けられる。明暗、天地、善悪、吉凶……そして、男女。
男は陽、女は陰。この呪術は、儀式をもって陰陽の均衡を崩し術者の肉体を反転させるものである。
陽の気が強まる朝に行えば、女から男へ。
陰の気が強まる夜に行えば、男から女へ。
どうにも、そういうことらしい。
儀式はごく簡単なもので、ただこの本を広げて陰の象徴である月光を浴び呪文を唱えるだけで良い。元に戻る場合は、陽の象徴である太陽光で同じことをすれば良いようだ。
たったそれだけで、ぼくは冴えない醜男からすれ違う誰もが振り返る美少女へと変貌する。
容姿が美しくなるのも反転の効果であるはずで、それならば自分が不細工だったことすら悪くないと思えた。
少女の姿で街を歩く。
最初こそ外に出るのが怖く家でこっそりと変身を楽しむ程度だったけれど、慣れていくに連れてどんどん大きくなっていく好奇心をいつまでも抑えておくことはできなかった。
部屋着のジャージのまま、マスクで顔を隠してコンビニへ行った。自分はちゃんと、普通の女の子に見えているだろうか。何かが変だと思われていないだろうか。人目を気にしてこそこそと弁当を買った。店員も他の客もぼくを不審に思う素振りすらなく、拍子抜けするほど簡単に買い物ができた。
そこからは、坂を転がるように早かった。
マスクを外してコンビニへ行けば、いつもは無愛想な店員のオジサンが笑顔で接客をしてくれた。
通販でこっそりと女性ものの服を買って、何度か失敗しながらも、やがて満足のいくコーディネートで出掛ければ、ナンパだってされた。
だんだんと注目されることが気持ち良くなっていった。
店のショーウィンドウに映る姿を確認する。今日も、ぼくは可愛い。
最初こそ抵抗のあったスカートも下着も、今ではすっかり馴染んだものだ。
最近では毎週末、女の子になって出歩くようになっていた。活動範囲はどんどん広がり、電車にだって乗った。
行く先々で誰もがぼくを気にかけて、親切にしてくれる。
愛されて、尊重されて、求められる。
馬鹿にされて笑われることも、蔑ろにされることも、酷く傷つくこともない。無敵になった気分だった。
美少女は魔法だ。
何にも勝る、圧倒的な力だ。
生まれ変わったような心地で、ぼくがぼくじゃないみたいに活力が湧いてくる。
どこにだって行きたいし、何だってやってみたいと思えた。今までだったら考えられないことだ。可能ならば家から出たくもなかったし、誰にも会いたくなかったのに。
今までうまくいかなかったのは全部、環境のせいだったのだ。ぼくが悪いわけではなかった。
顔がいいだけで、女だと言うだけで、これほどまでにすべてがうまくいく。行動力も、善良さも、大切に愛されるからこそ生まれる余裕があって初めて成せるものだ。
言葉に詰まっても嫌な顔をされず、相手は言葉を待ってくれる。失敗しても笑って許してもらえる。笑顔を向ければ誰もが頬を緩ませて舞い上がる。施しを受け入れ、お礼を言えばそれだけで喜んでもらえる。
これだけ恵まれた環境にあれば、ぼくだって殻に閉じ籠ることも卑屈になることもなく、明るい表情のひとつもできるというものだ。
女の子としての生活を充実させるために、平日のアルバイトにも身が入った。服やアクセサリー、化粧品など、女の子は何かと物が入り用である。先立つお金が必要だ。次は何を買おうか、どこへ行こうかと想像するだけで、あれほど恐ろしかった先輩に怒られても気にならなかった。
「よろしくお願いします」
道でビラ配りをする若い青年が視界に入る。
大学生くらいだろうか。お世辞にも顔が良いとは言えず、見るからに仕事の効率も悪い。大多数に無視されるか、あるいは迷惑そうに避けられていた。
ぼくはあえて彼に近づくと、何度も練習した百点の笑顔でそのチラシを受け取った。
「あ、ありがとうございます!」
青年の声が上擦り、頬が染まる。
胸に熱いかたまりが込み上げてくる。
初めて女の子になったあの日以来、何度も感じてきた気持ち。ぼくの価値が認められた喜びと、興奮。そして、強く大きな実感だ。
ぼくはどんな相手にも優しくしてあげられる。
ぼくがして欲しかったことをしてあげられる。
ぼくは今、皆を幸せにできる力を持っているのだ、と。